第4話

文字数 1,043文字

①陰の正統派と聖書

次の話をきいて下さい。これは、ある牧師のメッセージを記録した本からの抜粋です。彼は献金について語っているのですが、ルカの福音書21章1~4節の『貧しいやもめの2レプタ』の話のあとに、こう書いています。

『時々、謙遜そうな兄弟姉妹から、「やもめのレプタふたつでございます」と、千円ぐらいの献金を頂くことがあります。しかしこれは、やもめのレプタふたつじゃありません。何故ならば、千円は彼にとって『生活費の全部』ではないのですから。『生活費の全部』がレプタふたつであります。自分の生活費の全部を献げてしまったら、あとどうなるだろうか。神様が養って下さるんだ、という信仰に立つからはじめて、生活費の全部を献げられる訳です。』

この話の中にも陰の正統派が顔を出しています。もちろん、千円の献金をした人のことです。ここでは、単なる「誤解」として処理されています。
彼らはなぜ『千円』を『レプタふたつ』などと言ったのでしょうか? 彼らは『レプタふたつ』を『生活費の全部』と知らなかったのでしょうか?

わたしはこう考えます。いや、彼らは知っていたのです。献金しようとする時に、しかも牧師にむかって「やもめのレプタふたつでございます」などとしゃれたことが言えるのは、やはり、このレプタふたつの話について読んだり、聞いたり、教えられたりしたことがあるからだと思います。

ただ、陰の正統派にとって最も重要なのは、『レプタふたつ』=『生活費の全部』ということではありません。
彼らにとっての『レプタふたつ』は、お金持ちがしたような『多額だけれども、心のこもっていない献金』ではなく、『少額だけれども、心のこもった献金』ということなのです。

つまり、千円の献金をした人の『やもめのレプタふたつでございます』には、このような思いが隠されていたのです。
「私は信仰が小さく弱い者ですので、やもめのように生活費の全部を献げるような大それたことはできませんし、この千円の献金も私の経済的なできる限りのせいいっぱいというわけではなくて、はずかしくてしかたないのですが、私の弱い信仰なりのできる限りを心をこめて献金して、あのやもめに少しでもあやかりたいと思います。そういう意味でこの献金は『やもめのレプタふたつでございます』」

陰の正統派は、聖書のことばそのものよりは、そのことばに隠されている人間の内面性、霊性により注目します。
ですから、陰の正統派は『聖書研究』といえば、教理や歴史の学びよりは、人物研究の方を好みます。
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