Concertato : Moonlight Serenade

文字数 3,173文字

「天津さん」
 天津は店から少し離れた辻に佇んでいた。
 見ると、傍の塀の上に、二匹の猫が香箱になって座っていた。
「あの……」
 天津が振り向くと同時に、律子は目を伏せた。
「天津さんは、その」
「本当は……絵描きになりたかったんだ」
「へ?」
 唐突な言葉に、律子は顔を上げ、天津を見た。
 街頭に照らされた白い横顔に表情は見えない。
「親には反対されてたけど、どうしても、美大に行きたくて……だけど、生活費は自分で賄わなくちゃいけない事になって、アルバイトをして、でも、実際にモノを作らないと単位が出ないから、バイトばかりも出来なくて……途方に暮れていた時、同級生の一人が、大学を辞めて、バンドを遣るって言い出した。でも、彼は学校を辞めたら、仕送りが無くなって、住む所に困るから、バンドが軌道に乗るまで、間借りさせてくれって、狭いアパートに転がり込んできた。とはいえ、僕も、家賃が少し浮いて、食費も、彼が幾らか出してくれたから、それはそれでよかったんだけど……バイト先で上司と揉めて、全部嫌になって、学校にも行きたくなくなった事があって……そうしたら、友達が、ギター触れるなら、バンドでもやったらって」
「それが、始まり……」
 遠くで鳴いた猫の声が、僅かな言葉の隙間に入り込む。
「まだ、結成から日の浅かったプリズム・オブ・サインが、ちょうど、もう一人のギタリストが必要だって、募集のチラシを出しててさ……その当時のヴォーカルとドラムが、凄くいい人で……学校を辞めて、家と縁の切れた僕の事、気にかけてくれてた」
 律子は目を伏せる。
 その後の事を、知っているだけに。
「メンバーが変わって、バンドがどんどん売れて行くのは良かった。ジャケットのアートワークで、絵描きになりたかった僕に、仕事をくれたりもした。だけど……僕が曲を作る事を、快く思ってくれない人は多かった。弦一郎もそうだけど、プロデューサーとか、そういう、上の人達は、僕に作曲の才能はないから、ギターだけ腕を磨いていろって……勿論、本当にいい曲が作れていたとは思わない。だけど、何年経っても、僕に作曲を許してくれなくて……そうしてたらさ、転がり込んでたあの友達が、スタジオの共同経営者になったんだって連絡をくれて……其処で、名前を伏せたまま、無名のドラマーと経験だけで技術者になった友達の三人だけのアルバムを作った」
「それが、スイート・ペインのデモテープ……」
「そう。サイレンサーのアルバムを聞いて……やってみたいって思った。煌びやかなだけ、早ければいいだけ、そういう、凝り固まった音楽性に、嫌気が差していて……」
 寝るのにも飽きたのか、塀の上の猫は庭先へと降り、姿を消した。
「あのデモテープ以外にも何度か作品を作った。手焼きのCD-Rでしかなかったけど、始めて自分の曲が形になった事が、嬉しかった。それに……ネットで、マニアに知られる様にもなって……深夜アニメのタイアップを貰ったりとか、プリズムに居れば、お金はそれなりにもらえた。だけど……」
 言葉を切った天津は、ゆっくりと項垂れる。
「……貴方の曲は、作れなかった」
 項垂れた首が、ゆっくりとそれさえも否定する。
「いつだって、僕は、葉山弦一郎の付属品でしかなかった。ギタークリニックのアシスタントであり、インタビューに花を添える為の賑やかし要員であり……相応の対価を貰っていたから、我慢していたけど、だんだん、僕に要求されるギターの技術が高まるにつれて、僅かな呼吸の差すら、彼は許さなくなった。まるで、機械の様に、彼に追従する事を、求められた……技術の限界というよりは、感情の限界だった」
 律子は彼のギターに感じる、不思議な間合いを思い出す。
「僕の解釈は許さない、全て、彼の解釈によって僕はそれをなぞるだけ……だったら、僕が演奏する必要なんて無いと思った……そう思えば思うほど、レコーディングは終わらなくて……そんな中、弦一郎の体に、異変が起こった」
「脳腫瘍、だったんですよね」
「僅かに指先の感覚がおかしいって言う事に始まって……誰も、気づいてあげられなかったし、彼は頑なに、レコーディングの完了まではギターを弾く事しかしない様子で……終わりの見えないギターソロの収録に、痺れを切らしたドラムが、自分の知り合いの若いギタリストを紹介して……どうしても終わらなかった三曲に、ゲスト出演って形で、ソロを弾かせた。それが良かったのか、その若いギタリストは、メジャーの一線で活躍するミュージシャンになったけど……バンドの生命線は、切れてしまった」
「……貴方もまた、その縁を、切った」
「そう。薄情者との誹りは免れないと分かっていた。だけど……限界だった。同じ曲の、同じフレーズを、何日も何日も繰り返す事にうんざりして……気が狂いそうなほどのトレモロリフを何度も重ねるよりも、ずっと気が狂いそうだったから」
「だけど……麻野さんは」
 天津は声を漏らし、自嘲的に笑った。
「そう。温かい家庭を望んで結婚した女の人は、あなたの感性が理解出来ないからと、別に男を作って出て行った。どれほど反りが合わなくなっても、破傷風に罹った時にはバンドのメンバーやプロデューサーでさえ心配してくれたのに、死にかけてるって言うのに話すら聞かなかった家族が……兄貴が白血病になった時だけ、移植のドナーになれと迫って来た」
「え……」
 唐突な言葉の羅列に、律子は眉を顰める。
「ただ……兄貴だけは、最後まで、僕の事を心配してくれて……破傷風に罹った事、ネットで知ってたから……骨に針を刺して、白血球の型を調べる様な事、させたくないって……もしかしたら、助けられていたかもしれないけど、兄貴は……兄貴自身の判断で、それを、拒んで……」
 律子はただ、白く浮かぶ天津の影を見る。しかし、その視線さえ気にしない様子でで、まるで感情の無い亡霊の様に、彼は語り続けた。
「親にはこの世にある全ての罵詈雑言を浴びせられた。そして、それを口実に、あの女は出て行った。もし、子供が生まれたなら、貴方は、子供を顧みない薄情な生物学上の父親にしか、ならないから、と」
 それは死にたくもなる。律子は彼を取り巻く人間達のおぞましさに寒気を覚えた。
「でも……言葉は酷かったけど、僕が、全部を押し切って、ドナーになれるかどうかだけでも、調べて居れば……兄貴は死なずにすんだのかって思うし、家族も、伴侶も、失わずに」
「そんな事」
 律子は首を振る。
「そんな事、きっと、無かったです」
 天津は闇に溶けた律子の影を見る。
「もし、ドナーになれたのなら、それはそれで、良かったかもしれません。だけど……もし、ドナーになれない事が、危ない事をした上で分かったとなれば……お兄さんは、きっと、喜ばなかったと思います。それに……貴方の人生を、貴方の才能を、お兄さんは守ろうとしたんじゃないんですか?」
 闇に溶けた律子の黒髪を、冷たい風が揺らす。
「スイート・ペインは、確かに、気が狂っています。だけど……フューネラル・レインのビカム・ゼロみたいな、全部を洗い流してくれる様な音楽を作ったのも、貴方で……そういう、何色にもなる貴方の才能を、傷つけたくなかった、そうじゃないんですか?」
 何処かで、猫が鳴く。
 向こうの辻を、バイクが通り過ぎて行く。
「そんな事、言っても」
「もう……自由になって、良いんじゃないんですか?」
 天津はただ、闇に溶ける律子を眺めた。
「別に……貴方は薄情でも何でもないし、ずっと、過去に縛られなくたって、良いじゃないですか……私は……ゼロになったその後が、まだ、聞きたいんです」
 二人の脇を、一台の自動車がすり抜けて行った。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み