Prelude : Man has circumstances

文字数 2,768文字

「すまないね、初顔合わせの場で、内輪のゴタゴタを見せてしまった様で」
「い、いえ……どうぞ、お気になさらないで下さい……」
 同じ駅まで向かう劇団員の麻野隆文と共に歩きながら、律子は苦い感情を噛み殺していた。
 律子は大石に参加を打診されたミュージカル製作のプロジェクトに於いて作曲の核となる葉山弦一郎については事前に聞かされていたが、ギタリストとして参加する天津望と彼の間にある冷え切った溝については聞かされていなかった。
「天津君は弦一郎が脳腫瘍で、それも、それがかなりタチの悪い物だと分かった時点で、活動再開の見通しが無いと判断して、自分からバンドを辞めてしまってな……まだ彼は若かったし、海外からも、作曲には殆ど参加出来なかったにもかかわらず、彼の作曲した楽曲に対する評価が高かった事もあって、待てなかったのは分かるんだ……ただ、その後に、家族と酷い形で絶縁しなければならなくなってしまったり、彼自身の家庭が無くなってしまったり、本当に酷い目に遭って……源一郎が絶対に許さない事をしてしまった。俺も、若い彼がその才能を無駄にする様な事をした事が、今でも許せない思いではあるが……自分が同じ状況に置かれた時、平常心を保てるかどうかは、分からない。ましてや、あの時の彼は、まだ若かった」
 麻野は取り留めも無く過去を語り、それを半歩後ろで聞きながら、律子は更に苦い感情を噛み殺した。
「そんな事があって、天津君と弦一郎の縁は切れたまま、天津君は絶望と狂気だけを音楽に投影している……ただ、陽平はそれが、どうしても、我慢出来なかったんだろう。陽平は天津君の作る煌びやかで幻想的な世界を、弦一郎には伏せたまま好いていたし、二人があんな形で縁を斬った事を一番悲しんでいた……彼が天津君を源一郎に紹介したもんだからな」
 一人芝居の如く語り続ける麻野に続く律子は、その距離を半歩から一歩へと広げていた。
「陽平は……過去が永遠に失われてしまう前に、取り戻せたらと願ったんだろう」
 大通りの赤信号に、広がっていた一歩の距離が、半歩へと戻る。
「陽平自身、取り戻す事の叶わない過去を、抱えているからな」
 その呟きは、黄色く光る信号にトラックがエンジンの回転を落とした事で、はっきりと律子の耳に届いていた。
 白と黒の上を進み、タクシーの往来する駅前の広場へと二人は辿り着く。
 ――パパーっ。
 突然、愛らしいワンピース姿の女が麻野へと駆け寄り、飛び付いた。
「あれ? この人、新しいカノジョ?」
 愛らしくも、剣呑で怪訝な色を帯びた瞳が律子を捉える。
 麻野は小さく溜息を吐いて、今度のプロジェクトの脚本家の先生だと言った。
「へー……こんな若い先生がー?」
「連れてきたのは座長だし、座長だって、先生がこんな若いとは思ってなかったんだよ」
「ふーん」
 信用しきれないと言った様子で唇をにわかに尖らせたまま、女はその視線を律子から外す。
「あの……」
「娘なんだ。血縁は無いがな」
 困惑気味に呟きかけた律子の声を、低い麻野の声が遮った。
「それじゃあ、次は稽古場で」
 麻野は娘に行こうかと告げ、上り線のホームへと歩き出した。
 律子はその後ろ姿を見送りながら、財布の中の往復切符を探した。



 あの顔合わせから数日後。無駄足に終わった面接の帰り、ふと腕時計を見た律子は、それが動いていない事に気付いた。
 家を出る時、針が遅れていた事から想像は出来ていたが、いざ止まってしまうと困惑を隠し切れなかった。近所の時計店は、少し前に店を閉めてしまったのだ。
 駅からバスに乗って自宅へ戻るつもりでいたが、彼女は広場から遠く商店街の方向を見遣る。
 商店街にあるのは、決して安くは無い店ばかりであるが、時計の電池交換であれば、どの店に行っても変わりは無いはずだ、と、バスターミナルを離れ、路面電車の電停へ向かった。
 商店街の入り口で路面電車を降り、中心となる百貨店を目指して歩く途中に、一軒の時計店が有る。
 洒落た硝子の扉を開け、律子は中に入った。
「いらっしゃいませ」
「あ……」
 奥から彼女を出迎えた声の主は、見覚えある男性だった。
「片桐さんのお店だったんですね」
「正確には、俺の親父の店。尤も、今はうちの家内に任せているんだけどな」
 片桐は気さくな笑みを浮かべ、カウンターへと出てきた。
「それで、何の御用かな」
「時計の電池を換えて頂きたくて」
 律子は左手首の時計を外し、陽平に手渡す。
「割と使っている時計だね……でも、ベルトはまだ新しいみたいだけど、一緒に換えなかったのかい?」
「その時には動いていましたから。あ、でも、もうひとつ、ベルトが駄目になった時計もあって……」
 律子が鞄から取り出した腕時計の赤いベルトは酷く痛んでいた。
「ずっとお世話になっていた時計屋さんが店仕舞いしてしまって、何処かで換えようと思っていたんですけど……同じ様なベルトがありますか?」
「時計に対してはちょっと細いけど、赤いベルトならあるよ」
「でしたら、換えて頂けますか?」
「分かった。それじゃ、そっちも預かるよ。其処に座って待ってて」
 片桐はふたつの腕時計を手に、奥の作業台に向かい、慣れた手つきで電池とベルトの交換を済ませた。そして、彼が領収書を書き付けていると、カウンターの奥、律子の正面にある置時計が三時を告げ、音を鳴らして動き始めた。
 金色の城を模した時計の、文字盤の下にある扉が開き、踊り子と道化師が姿を見せる。
「良い時計でしょ?」
 領収書を手にした片桐はいたずらそうな笑みを浮かべ、律子の斜め向かいに腰を下ろす。
「えぇ、とても素敵です。でも、なんだか古めかしいですけど、アンティークか何かですか?」
「元はジャンク品だよ」
「え?」
 扉が閉まるとともに、律子の視線は片桐へと向けられる。
「親父は部品が無くて直せなかったらしいんだが、面白そうでさ、俺がなんとか直したんだよ」
「そうだったんですか……凄いですね」
 律子は差し出された領収書に目を遣り、その額面を財布からカルトンへと移す。
「丁度頂きました……ところで、今日は何かお仕事かい?」
「あ、いえ……」
 律子は目を伏せ、言葉を濁した。
「ま、人生いろいろあるけどさ、生きてたらどうにかなるもんだよ」
 苦笑いを返そうと顔を上げた律子が見たのは、遠くを見る様に悲しげな影を湛えた片桐の笑顔だった。
「そう、ですよね……ありがとうございました。また来ますね」
「毎度ありがとうございます……でも、次に会うのは稽古場の方だね
「そう、ですね……では、その時は、よろしくお願いします」
 律子はぎこちない笑みを浮かべて立ち上がり、店を出た。
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