(9) もうひとつの夢

文字数 1,463文字

 人気絶頂だったアイドルグループを卒業し、一人で仕事をしていくプレッシャーに圧し潰されそうになっていた時期だったのだと、あとから聞いた。何だか弱みにつけ込んだみたいじゃないかと愚痴ってみせたら、フォローもしてもらえず、酷い男だと笑いながら(ののし)られた。

 アイドルを卒業したとはいえ、まだまだ彼女の人気は絶大で、人目を気にしながらのつき合いが始まった。

「人の目が気になるのは、アイドルになったときからの宿命だと思っている。二人きりになったときに気を使わなくていい相手がいることが大事なの」

 二人のつき合いについてはそう語り、二人のときは少しずつ口数が減っていった。何をするでもなく、二人でぼうっと過ごす時間も増えていき、それがお互い苦痛ではなかった。同じ部屋に住むようになるのにも、さほど時間を要さなかった。

 本音を言えば、早い段階で結婚も意識するようになっていた。いつだったか。彼女には内緒でアイドル時代のインタビュー記事を検索してみたことがある。ありきたりな質問――将来の夢。実は彼女の答えは、小料理屋を開くことの他にもうひとつ。

——可愛いお嫁さんになること。

 それを知っていながら、ずっとその夢を叶えてやれずにいる。もうお互いずいぶんと歳を重ねてしまった。アイドルグループの元同僚たちも、多くが結婚して母親になっている。

 小料理屋を開く夢は叶った。そう言って彼女は笑うが、決して結婚のことには触れようとしない。

「着いて来いとは言わないのね」

 東京を出ると伝えたとき、彼女が沈黙のあとに発した言葉。

 着いて来て欲しい。心底そう思っていた。だが、そうすれば彼女は全てを捨てることになる。二つの夢のうち、叶った方のひとつ。もうひとつの夢を叶えてやれない自分に、それを捨てて着いて来いとは言えなかった。

 だが、主導権は常に彼女が握っている。

「わたしがお店を出せる場所を見つけてね。それが条件」

 彼女はやはり笑っていた。
 気づけばこっちが泣いていた。

「あらあら。ハンカチもポケットティッシュもないわよ」

 ボックスティッシュが投げるように無造作に置かれた。

「返さなくていいから」

 もちろんそんなものは返していない。頼まれて五箱セットのティッシュを買って帰ったことはあったから、とっくにちゃらだとは思っている。

 彼女の希望に沿った立地で、希望通りに内装を施した小料理屋「夏雪」。東京の店に比べればかなり狭くはなったけれど、これくらいが丁度いいと、現役アイドル顔負けの笑顔で喜んでくれた。

「東京のお店はいろんな人が来てくれて、いつも賑やかで、予約でいっぱいで。とっても繁盛したけれど、わたしが本当にやりたかったのはこういうお店だったの。

 元アイドルだから来てくれるお客さんばかりじゃなくて、わたしのことなんか知らない普通のサラリーマンとか普通のカップルとか、一人でも、とにかく誰でもいいから予約なんかなしでふらっと立ち寄ってくれる、そんなお店。

 東京のあの店をいつ閉めようかと思って悩んでいたから、あなたが東京を出るって言ってくれたのは渡りに船だったのよ。わたし一人じゃ、あれだけ来てくれるお客さんが大勢いるお店を閉めるなんて言い出せなかったもの」

 それは彼女の本心でもあり、強がりでもあっただろう。できれば東京のような店も持ちつつ、一方でちょっと寂れたような小さな店もやってみたいという、欲張りな気持ちはあったはずだ。

 彼女は昔からちょっとだけ欲張りなところがある。それも知っていた。だからこそ、結婚に対する願望も強かっただろうと思うのだ。
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