(1) 手酌は禁止

文字数 1,482文字

 何の味付けもしていない玉子焼きに、ほんの少しだけ醤油を垂らして食べるのが好きだ。

 昔から玉子焼きの味付けについて、甘い方がいいだのしょっぱい方がいいだのといった伝統的な論争とは一線を画し、常に第三の立場を貫いて来た。

 最近になって、その立場は方向を変えつつも、さらに先鋭化していると言ってもいいかもしれない。

 この味付けじゃないなら、はじめから味なんか付けずに醤油だけ垂らして食べるべきだ、と。

 ほんのりと甘い出汁(だし)がきいたその玉子焼きは、より上品かつ高貴に出汁巻き玉子と呼ぶべき一品だと思う。

「何度も言うけど、それは商品じゃないの。わたしのプライベートの味。あくまでも玉子焼き」

 秋庭(あきば)という苗字を持つ親が、どんな思いを込めて娘に真冬と名付けたのか。一度聞いてみたいと思いつつ、未だ機会を得られていない。

 そんな、名前に二つの季節を持つ彼女は、何歳(いくつ)になっても人懐っこい笑顔で相手を(けむ)に巻くのが得意技だ。もう何年もの間、巻かれ続けている。

 女将に似て季節感が倒錯した名を持つ小料理屋「夏雪」は、坂の途中、海よりも山が近いあたりの古いビルの一階にある。

 女将の希望で、通路の一番奥という外からは分かりにくい場所をわざわざ選んだ。一切の取材を受けず、ホームページも公式アカウントも持たない。この地では数少ない、店主の個人的な繋がりの他は、飛び込みの一見(いちげん)客と人伝(ひとづて)だけが頼りということになる。

「歯を全部抜いて、歯茎だけで味わいたくなるんだよな」

「また馬鹿言って」

 それでもそれなりに繁盛しているのは、彼女の料理の腕前はもちろん、少々特殊な前職で培われた人垂らしのスキルの賜物(たまもの)だろう。それとて持って生まれた人柄あってのものには違いないのだが。

「でも、実は分かる。わたし、けっこう大人になってから親不知(おやしらず)を抜いたんだけど、そのあと、もともと親不知があった場所でものを噛むと、どういうわけか妙に美味しく感じちゃうのよね」

 笑いながら割烹着を脱いだ和装の女将と、広々と六席あるカウンタの真ん中に並んで座った。
 目の前には二人分の晩御飯が並んでいる。玉子焼きメインの質素なものだが、味は絶品だ。

 出汁巻き玉子というメニューも、実はある。だが、目の前にある玉子焼きとは味付けが根本的に異なるらしい。この玉子焼きはあくまでもプライベートでしか作らないと(かたく)なだ。ただし、彼女が気に入った極一部の常連客には、玉子焼きという注文でこの玉子焼きを出すこともあるらしい。見た目にはそれと分からない裏メニューだ。

 どうせなら正式にメニューに載せて売ればいいのにとも思うが、売らないで欲しいとも思う。男心もその程度には複雑だ。だが、女にかかるとそんな心理も単純のひと言だろう。

「いただきます」

 二人同時に手を合わせて箸を取った。
 暖簾(のれん)はとっくに仕舞い込んで、支度中の札をぶら下げてある。

「ビール飲む?」

「いいよ。自分で出すから」

 立ち上がって、瓶ビール一本とグラスを二つ用意した。
 彼女が両手で持ったグラスにビールを(そそ)ぐ。絶妙な割合で泡が立ったのは、注ぎ方が上手いからではなく、彼女のグラスでの受け方が絶妙だからだ。

 そのまま自分のグラスにも()ごうとすると、瓶を取って注いでくれる。
 今回も泡の配分が完璧なのは、もちろんこちらの受け方が上手いからではなく、彼女の注ぎ方が匠の技だからに他ならない。

「二人のときは手酌(てじゃく)は禁止」

「いいじゃないか。その方が効率的だし」

「効率化は一人のときに推進して頂戴。二人のときは禁止です」

 二人でいると主導権は常に彼女だ。
 軽くグラスを合わせて、半分ほどを一気に呑み干した。
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