(11) 遺志

文字数 2,333文字

 この街は坂道で出来ている。

 数多(あまた)ある坂道のひとつ。その途中の、海よりも山に近い辺り。レトロといえば聞こえはいいが、実態はただ古いだけの、石造り風三階建ての小さなビルだ。芸人をやめたとき、手元に残った資金をはたいて購入した。おかげですっからかんだが、真冬の方はきっと堅実に貯め込んでいるのだろう。

 三階が自分たちの住まい。一階には小料理屋「夏雪」を含めて、飲食店が四つ。二階に開いた探偵事務所は、ほぼ道楽だ。贅沢をいわなければ一階のテナント収入と夏雪の売上で二人は食べていける。

 はほぼ道楽とはいえ、探偵業を開いたことには過去の経験が少なからず影響している。

 大学を卒業して一旦は就職したものの、すぐに退職し、しばらくしてからお笑い芸人の道へと進んだ。いや、進んだというほど積極的な意思があったわけではない。

 奈央が姿を消して以降、何をするにもモチベーションはほぼゼロという、抜け殻だった。何とか大学を卒業して適当に就職を決めたものの、とても会社員などが勤まる状態ではなく、仕事はすぐに辞めてしまった。ぼうっとしているときに、学生時代のバイト先の友人に誘われるままにお笑いコンビを組んだ。

 腑抜けのような人間をお笑い芸人に誘うなど、正気の沙汰とも思えないが、どうせしばらくは仕事もなくて自由時間だけは存分にあるのだから、奈央の消息を探せばいい。彼はそう言ってくれた。

 どこまで本気だったかは知らないが、道を示してくれた相方には感謝しかない。たとえ数年後に迎えたコンビの解散が彼の責任によるものだとしても、文句など言えた筋合いではないのだ。

 調査の結果、分かった彼女の母親の名は、柴田塔子(とうこ)といった。奈央本人の消息というよりも、そこに辿り着くまでに費やした時間が長かった。時間がかかったのは、ほぼニートの自称お笑い芸人の素人探偵にとっては、個人情報保護という壁が想像以上に高かったことがひとつの要因だ。それに加えて、柴田塔子が自分の痕跡をあまり残さないような生き方をしていたせいでもあり、また故人でもあったことも調査を困難にさせた。そして、そこから先の調査に手間がかからなかったのは、奈央本人もまた、すでに亡くなっていたからだ。

 奈央は死んだ。それを知って、いよいよ人生のパワーゲージはゼロを指したかに思えた。大学時代を捧げた七転び八起きや七転八倒は何だったのか。結局、最後は転んだところで終わるのか。

 だが、もう起き上がる気力は無いにしても、知りたいという思いは強かった。どうして彼女は何も言わずに姿を消したのか――。

 奈央の亡母、塔子は裕福な家庭に生まれた。だが、両親に認めてもらえない男性との間に子を宿し、駆け落ち同然に家を出たのだという。やがて奈央が生まれたものの、信じた男は事業に失敗して行方をくらました。妻とまだ幼い娘に多額の借金だけを残して。

 行き詰った塔子は、それでも実家に頼ることはしなかったそうだ。破産手続きをして債務の免責を受けたものの、筋の悪い債権者は法律などお構いなしに返済を迫り続けた。そのため何度か夜逃げ同然の引っ越しを強いられるような暮らしぶりだったという。

 そんな逃避行のような生活の中で、不幸が追い打ちをかける。病を発症し、先が長くないと知った塔子は、この()に及んでようやく実家の支援を受けることを決意し、娘の奈央を託すことにしたのだそうだ。母親として、最後には自分の意地よりも娘の将来を選んだということだろうか。
 
 実はずっと娘と孫の身を案じていた塔子の両親——奈央にとっての祖父母は、快く二人を受け入れてくれたようだが、それから間もなく塔子は息を引き取った。

 残された奈央は、祖父母のもとで何不自由のない、落ち着いた暮らしを得た。テニスを始めたのもその頃だそうだ。だが、彼女は何故か高校卒業と同時に、祖父母の反対を押し切って家を出ている。

 そこにどんな思いがあったのか。その真意を知る術はなかったが、彼女の祖母はこう推し量った。

——あの子は、母親の塔子が死んだのは、わたしたち祖父母のせいだと思っていたのではないでしょうか。

 あるいは、祖父母の世話になることは亡き母の本意ではないと感じていたのかもしれない。

 一方で、孫娘たる奈央を愛し、身を案じていた祖父母は、彼女が家を出てからも資金援助は続けていたそうだが、彼女の死後、そのお金には一切手をつけていなかったことが分かったという。

——この犬はね、あの子がチコって名付けたんです。でもわたしがチコって呼ぶと、あの子はおばあちゃん違う、チコじゃなくてティコだからって笑ってました。

 老婦人は話を聞いている間ずっと膝に抱いた小さな犬を撫でていた。死んでしまった孫の代わりに可愛がってきたのだろう。

 奈央は安定した暮らしを捨て、自立の道を——ひとりで生きることを、選んだようだった。

 彼女が大学入学前に一浪したのは、進学と一人暮らしの元手となる資金を得るために働いていたためらしい。

 ずっとひとりで生きていくと意地を張っていたのかもしれない。何度思いを告げても断れられ続けたのも、もしかしたら、そのせいだったのかもしれない。彼女に想いを寄せる男はほかにも何人もいたようだったが、誰も彼女を振り向かせることはできなかった。あのクリスマスの夜までは。

 大学生活を続ける(かたわ)らで、キャバクラでアルバイトをしていたのは知っていたが、消息調査の過程では、店で上位に入る人気を誇っていたのだと聞いた。

 上位には入ってもトップになれなかったのは、彼女が絶対に客に身体には触れさせなかったからだと、元同僚の一人が話してくれた。どんな器量良しでも、太い客をつかまえるには女の武器を使わなきゃ無理なのよ、と。
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