第3話

文字数 2,646文字

「キッチンを貸してください!」

 昨日の今日で、チトセが訪ねてきた。ノックの音で扉の外を確認してみれば、脚の生えた荷物が立っていた。重量のありそうな大袋を両腕に抱えているせいで殆ど顔が見えない。足元にも飲料水のタンクらしきものが複数並べて置いてある。何事かと錠を外してやれば、先程の台詞である。
「なぜ」
「あの店、火が使えないんです。困ってます。助けて」
 その邪とは無縁そうな顔貌で助けては卑怯だろう。断った俺が極悪人みたいになる。
 ……まあ、考えてみれば、ここのキッチンといえば元は業務用として日々稼働していたであろうもので、それを素人仕事で整備したものの、殆ど活用出来ていないのは事実で、……要するに勿体無いと思わない事もない。
「……どうぞ」
「ありがとうございます、お借りします!」
 晴れた朝のように爽やかだ。屋外を見てみれば、実際に晴れた朝だったが。
 彼女は大袋の中から寸胴鍋と大量の根菜類と謎の草を取り出し始めた。詰め放題の戦利品でも並べるかの如く、作業スペースが埋まっていく。最後に包丁と俎板を両手に持ち、スープにします! と宣言した。各位頑張ってほしい。
「基本的に入荷するのは果物なんですけど、何がどれだけ来るか分からないんです。大量に届くと昨日みたいな事になるし」
 在庫処分だったのか? 本日の何とかとは、得てしてそういうものらしいが。
「奥に居るから、終わったら……」
 語尾が消えゆく俺に、はーい! と明るい声が返って来る。眩しい。二度寝したい。

 店の奥には扉があって、そこを開けると階段がある。二階は当初、事務所兼休憩室の廃墟といった風情だったが、居住スペースとして十分使えるような設備が揃っていた。ただしキッチンの類は無い。二階だけで生活が完結出来ないというのが惜しい。そして、多少耐性と素質があるとは言え、閉ざした空間に引き籠もり続けるのも気が滅入る。だからせめて時折、階下で過ごすようにしていたのだ。窓外からの好奇の視線を除けば、あの磨き込まれたカウンターは居心地が良かった。
 事務机にうず高く積んだ有象無象の書類が寝床から目に入る。自宅へ取り寄せた分の資料は持って来られたが、職場からは個人端末すら持ち出せなかったのが痛い。データはともかく、途中で残してきた状況のその後が分からない。戻ったら俺の席は失くなってるかもしれない。他社に引き抜かれても吠え面かくなよ。

 コノエが失恋傷心旅行と言った時、内心ぎくりとした。失恋ではない。何をどう定義するかに拠るが、その感情にどうしても名を付けるなら分離不安がまだ近い。だから、傷心の方は否定できない。今もじくじくと鈍く痛んで治らない。これが一生治らないと思うと恐怖ですらある。
 その感情を向けた相手は同じ研究所に勤務していた同期の一人だった。コノエにもう死んでいるだろうと話した人物だ。俺や他の同期と似たような経歴で入所したものだと思っていたが、その実あいつだけ所属が違っていた。それを知ったのは実験中の事故にあいつが巻き込まれたらしいと聞かされた後だった。どんな状態だったのか、詳細は伏せられていた。秘匿されたと言っていい。何しろ身柄を引き取っていったのは、コノエが言うところのオカルト――――別の研究機関だったからだ。


 惰眠から覚め、水分を求めてのそのそと階下に降りると、複数人の声がした。
「あー、イオリくん。おおきになあ」
「イオリさん、差し入れ貰いました! ナポリタンを作ります。イエモリはこれ持ってって」
 ドリンクスタンドの大家が増えていた。イエモリが屋号なのか本名なのか判然としないが、いつ見ても日中彷徨いていい様相ではない。
 作業台からはあれほど散らかっていた食材が綺麗に無くなっている。寸胴鍋の中は限界まで詰まっているに違いない。それを指し示された丸眼鏡は、微笑みのままぎこちなく首を最小限の角度で横に降った。チトセは何故か決まりが悪そうに黙り込むと、「だ、台車……」と囁く声で提案した。そんな音量で喋れるんだな。「台車な……台車」イエモリの方も意味不明な小声だった。
「台車なら、」
 俺は助け舟を見切り発車した。こいつらが勝手に溺れだした理由は知らんが。
「これがまだ使える。後で戻してくれればいい」
 店名と年季の入った台車を壁際に寄せたままのテーブルとソファの山から引っ張り出した。自分で何度か使ったので動作に問題はないと思う。
「いやぁ、助かるわあ。ほな使わせてもらうでな。毎度〜」
 妙な間が流れた。
 調子の良い台詞と裏腹にイエモリは動こうとしない。チトセは明後日の方を見つめている。誰も動こうとしない。寸胴鍋だけが隠し切れない存在感を放っている。
「あのカーテンやけど」
 突然、医者が患者に余命を告げるかの如く深刻な低音でイエモリが一番奥の窓を指す。何が始まった?
「そこ、そこな」
 よく見てみろと確認を促される。訝しみながらも昨日取り付けたばかりのカーテンを検める。この一枚だけ取り付け方を間違っている訳でもない。特別不審な点は見当たらない。
「窓によう似合てるわあ」
 カウベルの音に振り返るとイエモリは寸胴鍋を乗せた台車を引いて扉から出て行ったところだった。一連の行動の理解ができない。高温になっているであろう満杯の寸胴鍋を抱えて運ぶのは難しいかもしれないが、台車に乗せる程度は彼くらいの成人男性ならば困難ではないだろう。音もなく台車に瞬間移動していたのは不可解だが、何を誤魔化したかったのかが解らない。チトセは何事も無かったように具材を刻んでいる。
「これ、勝手に使わせてもらってます」
 見覚えのある鍋とフライパンだった。俺が一式買い揃えた物の中にあったのだろう。
「あと、これ」
 新商品を紹介するように彼女が掲げたのは、所謂鉄板皿だった。さすがにそれは購入した覚えがない。イエモリからの差し入れだという。不要なんだが……。
「作ってみたかったんです、鉄板ナポリタン」
 卵を割りながら、楽しそうにされては黙るしかない。手際良く、おそらく合理的な手順で調理が進んでいく。自分のために他人が誂えた料理を待つのはいつぶりだろう。邪魔をしないよう注意を払って空いているコンロに薬缶を掛けた。もう少し丁寧なコーヒーの淹れ方を学んでもいいかもしれない。
「何かやってる! 楽しそうに! 僕だけ仲間外れ!」
 前言撤回、コーヒーなどインスタントで十分だ。一際派手な音を立てて、コノエが飛び込んできた。あのカウベルは近いうちに外そうと思う。
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