第4話

文字数 3,729文字

 その人物の名はアメミヤツルギといった。

 名が現すほどには冷たくもなく、かと言って必要以上に親切過ぎる事も無かった。声を失ったせいか、常に穏やかな気性に見えた。必要な会話は筆談か、唇の動きで伝えてきた。そこからもう、三年は経つのか。
 どうしてこうも思い出すのだろう。昼間が騒がしかった反動だろうか。

 不眠に飽き、外へ出た。
 行く当てがある訳でもなく、漫然と灯りの落ちた通りを歩く。時折速度超過の車が通り過ぎて行くが、ゴーストタウンと呼んでも差し支えがないくらい、人の気配がしなかった。治安が悪くなるほどの活気もないのは助かるが、気が向いたところで娯楽もないというのは些か不便かもしれない。コノエが行きつけの喫茶店が欲しいと駄々を捏ねる気持ちも理解できないではない。選択肢こそ限られてくるが、昼夜いずれも飲食店はあるし、何ならコーヒー専門店もある。しかし喫茶店と呼べる店は成程全て廃業してしまっていた。
「通り過ぎるだけの奴が贅沢なんだよな……」
 誰に聞かせるでもない愚痴が溢れる。コノエが現在拠点にしているのは両側の街どちらもらしい。自称青年実業家だが業務内容はわざとらしくはぐらかして教えようとしない。興味無いでしょ、と指摘は受けるが。
 あの後、半分ちょうだい妖怪は別皿に盛った自分の分のナポリタンを譲ろうとするチトセを制して、鉄板皿の方のそれをきっかり半分自分で皿に移して食べていった。誰にでも図々しいのではなく俺にだけ図々しいのかと問い質したくなる。嬉しそうに提供者に礼を伝えて去っていく姿を見れば、単なる喫茶店メニュー愛好者だった。「スープ付きで最高でした。出来ればクリームソーダも欲しい」じゃないんだよ。

 町並みが途切れる辺りで引き返そうとしたとき、遠雷のような音がした。但し、地上から。続いて高い位置から響く軽い足音が、老朽化したアーケードの屋根伝いに俺の頭上に近付いてくる。猫だと思いたいが猫よりは質量がある。身構えていると足音は一旦頭上を通り過ぎて――――戻って来た。
「逃げてっ」
 聞き覚えのある声が頭上から降ってくる。足音の主が走って来た方の暗闇を振り返るが人の気配は近くには無かった。ただ、遠くから白い薄布を被ったような誰かがこちらに向かって歩いてきているようだった。
 歩き方に既視感がある。
 心臓が握り潰されるような衝撃が走った。呼吸が止まる。
「ツルギ……?」
 屋根の切れ目から降りてきた小柄な人影が俺を背に庇うように立ち塞がる。昼間見た黒い髪が視界に入る。
 向こうからやって来る白い人影は、それ以上近付いてくることはなく、その場に佇んだ。白い薄布に見えたものは、地面へと流れる長い長い白髪だった。
「だめ」チトセが厳しい口調で言い放つ。
「あなたのこと好きになれない。イエモリの腕を捻じ切ったよね」
 白い人影は理解しているのかいないのか、暫く動かなかったが、やがて地表に溶けるように消えていった。
 明らかに人間ではない。では、あれは?
「今」チトセが俺を振り向く。「名前を呼びましたよね」
 何が起きたか分からない。
「あの個体を知ってるんですか」
 チトセが俺の目を覗き込んでくる。彼女と初めて会ったような気がする。現実とも思えない出来事のせいだろうか。
「ここで話すのは良くないですね。移動しましょう」
 凍りついたように立ち尽くす俺を促し、チトセが進む方向を示す。
 「こっち」
 彼女に腕を引かれて、漸く足が動いた。
 どこをどう連れて行かれたのか、気付けばイエモリ商会のビルの中だった。裏口から入ったらしい。更に、室内の錆びかかった重い扉を潜る。
「イエモリ、場所貸して」
 物に埋もれたバックヤードから「返してや」と店主の声がした。声の辺りだけ薄暗い明かりが点いている。
「こちらにどうぞ」
 チトセから応接用のソファを勧められる。
「シャワーとベッドは一番上やで」
 天井を指差し、最低な台詞を吐きながらイエモリが物の間から出てきた。
「もう一回もがれたらいいのに」
「えっ、やめて。また出たんか?」
 深夜だというのに色眼鏡を外さない怪しい出で立ちの男はホラー映画のヒロインのように自らの両腕を抱いた。
「何やイオリくんやないの。そんで? イオリくんも見たん? 幽霊」
 野次馬のような気軽さで話を振ってくる。
「幽霊?」
 チトセは『あの個体』と言った。『腕を捻じ切った』とも。訝しさと警戒心を滲ませた俺の返答に、何故かすまなそうにチトセが説明する。
「ああいうのが、その、何て言うか寄って来やすいみたいで」
 姿に見覚えがありましたか、と今度は俺に説明を求める。
 あの場では亡くなった旧友に酷似しているように見えたが、冷静になってくると人相も不明瞭で、第一あんなに髪が長い訳がなかった。それとも、幽霊なら非常識なまでに伸びても不思議ではないのだろうか?
「人違い……だと思う」
 幽霊でも会いたいと思った事は有ったか? そういえばツルギが化けて出るという発想が全く無かった。
 あれはツルギじゃない。でも、例えば変わり果てていたら? 判らない。どうすべきか解らない。
「あれは死者なのか?」
 チトセとイエモリが目線を交わす。
「全自動腕捻じ切り機や」
「今そういうのいいから」
 大家に対して店子が終始容赦ない。どういう関係なんだ。
「あの個体に関して言えば、」
 チトセは言いにくそうに、それでも適切な言葉を選ぼうとしているように見えた。
「人として生きた経験は無さそうでした。だから、……名前を与えてしまったかもしれません」
 どうやら俺がやらかしてしまったらしい。
「取り敢えずー、」
 両手の指先を顔の前で合わせて首を傾げ、三日月のように微笑んだ丸眼鏡が言う。
「休んでいきや、イオリくん。君の方が死人みたいや」
 じりじりとソファの方に押し出そうとしてくる。俺は脈絡を無視して握手を求める右手を差し出した。イエモリが素直に応じてきた為そのまま捻り上げる。ガコッ、と厭な音がしてイエモリの腕が外れた。
 本当に外れる事があるか? 全自動腕捻じ切り機? 俺が?
「まだくっついてなかったわ」
 広い袖口からするりと男の前腕が出てくる。義肢ではない。少なくとも、俺の知っている技術ではない。イエモリは無事な方の手でそれを回収した。
「キャ! えっち」
 悪びれもせず元居た牙城に戻って行くと、チーちゃんお茶淹れてぇ、と呑気な声を投げて寄越した。
 チーちゃんは鎮痛極まったという表情で眉間を押さえていた。


 明るくなってから改めて確認してみると、あの時聞こえた音以上に被害は酷いものだった。
「雷でも落ちたの?」
 何だか大きい音はしてたけど。斜向かいのパン屋のオーナーが気の毒そうに尋ねてくる。
「落ちたみたいです……」
 チトセが困ったように頷く。後方で諸行無常といった表情のイエモリが腕組みをしている。地面で『本日のブレンド:野菜スープ(かぼちゃ・玉ねぎ・セロリ)HOT』と書かれた黒板が割れている。
 耐用年数を幾らか誤魔化していそうなコンテナの店舗は、うっかり踏んでしまった模型のように倒壊していた。
「作戦会議しよかぁ」
 イエモリが指揮を執る。俺は謎の草の答え合わせで忙しい。抜けさせてもらいたい。

 あの後、問答無用で最上階に軟禁された俺は、夜明けと共に漸く開放された。最早人外であることを隠さなくなった男と少女は、ものすごい力で外側から鉄扉を押さえ続けた。
「今夜は戻らないほうがいいです。明日安全の確認を取りましょう」
 見た目はやや年下だが今や年齢不詳のチトセに諭されて、渋々朝日が昇るのを待った結果がこれだった。

 パン屋に呼ばれたチトセが紙袋を持って戻ってくる。「差し入れ頂きました!」と元気な報告があった。
「ええなあ。ほなイオリくんの喫茶店を本拠地としよや」
「喫茶店……じゃない」
 もう声がカスカスである。全て夢だったで済ませたら駄目か? 帰る家が無い訳ではない。休暇を切り上げても、…………駄目だ、今度はもっと面倒なことになるだろう。既にうんざりしてきた。
 養家とは血縁関係に無い。無いと思う。養親たちは天才児を集めて成長を見守るのが趣味で、しかし良識的な愛情を持って養子たちを育んできた。分け隔てが無さ過ぎて、実子が誰かも判らない。代わる代わる自分を構いに来る尊属やきょうだいたちを思い浮かべる。ほらうんざりしてきた。あれだけ人数がいるのに誰とも合わないというか、俺だけにストレスが掛かるなんて事があるのか? 実際にあったので災難だった。彼らの名誉の為に明確にしておくが、決して蔑ろにされていた訳ではない。むしろ距離感は常に適切であった。ただ、養家に来る前から、ずっと場所を間違えたような違和感があった。自力で環境を変える為に利用可能な制度を駆使して家を出た。
 そしてツルギと出会った。得難い友人を得たと思った。漸く、欠けていたものを取り戻せたと感じた。
 しかしそれも失った。この目でその死を確認している。もう、取り戻せるものは無い。無いものに期待も持ちたくない。

「鍵、開けてくださいイオリさん」
 先を歩いていたチトセがにこにこと俺を振り返る。何故そうも善良なのだろう。彼女の責ではないというのに。
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