第2話 朝のオフィスとファインマン物理学

文字数 4,269文字

  (二) 朝のオフィスとファインマン物理学
 朝のオフィスは気持ちが良い。誰もいない広いオフィスは快適だ。僕はいつも通りThe Feynman LECTURE ON PHYSICSを開いた。物理学者であるリチャード・ファインマンによる物理学の教科書だ。日本では「ファインマン物理学」として有名な教科書の英語版の原著だ。
 弁理士は科学に精通している必要があるし、英語の文献もよく読む。また、外国の弁理士や弁護士との連絡にも英語を使う。英語で書かれた教科書で物理学を勉強すれば、物理学と英語を一緒に学べると考えたのだ。大学・大学院で一般的な物理学や化学の勉強はしたが、弁理士として2年目の今のうちに学び直してしっかりとした基礎力を身に着けたいと考えたのだ。

 やりたいことに対しては1日のうちのできるだけ早い時間を使う、というのが持論だ。朝ならば頭も冴えているし、身体も疲れていない。だから、この時間をやりたいことに使う。仕事が終わってから勉強しようとしても、必ずしも仕事終わりに時間が作れるとは限らない。また、仕事終わりだと身体や頭が疲れていて能率も悪くなる。一日のうちの最初に仕事以外のやりたいことをやってしまって、残りの時間で仕事をするのだ。そうすると、なぜか残りの時間で仕事をやり遂げることができる。逆は難しい。

 39-1 The Kinetic Theory of Gases(気体分子運動論)
 今日は39章の気体分子運動論(きたいぶんしうんどうろん)を復習しておきたい。この章では物理学の恐るべき力を感じた。先人の科学者の天才的な思考を追体験するような興奮があった。昨日、最初に読んだときは驚きと興奮が大きく、感覚的に理解したつもりではいるが、いささか冷静さを欠いていた。なので、もう一度、想定モデルと数式を丹念に検討しながらしっかりと理解したいと思っていた。教えてもらって理解し、感激するだけでなく、自分の頭で考えて再現できるレベルに理解したい。自分の血肉としたいのだ。
 まずは想定モデルを確認する。気体が充填されたシリンダ(容器)の一端に摩擦力無しで移動できるピストンがある。シリンダの中に気体の分子(原子)が多数入っている。ピストンの反対側には気体は存在しない、つまりシリンダの外側は真空であると仮定するモデルだ。気体の分子は質量を持つピンポン玉のようなもので、ピストンに衝突してピントンに力を与える。そのままの状態であれば、シリンダ内の気体の分子の衝突によりピストンが外側に移動することになる。ここで、ピストンが外側に移動しないように静止させておくために必要な力Fはどれほどか、ということを考えていく。


 ピストンが外側に移動しないようにするためには、シリンダ内の気体分子が外側に向かってピストンに与える力と、ピストンを外側から押さえつける力Fとが釣り合わなければならない。
 シリンダの中の気体の分子1つがピストンに衝突して反対側に同速度で跳ね返る場合にピストンに与えられる運動量は2mv_xとなる。ここで、mは気体の分子の質量、v_xは気体分子のピストン方向(x方向)の速度成分のことだ。これは、いわゆるニュートン力学であり、高校の物理でも習うF=maの原理によるものだ。力は運動量の時間変化で定義されるから、シリンダ内の気体分子がピストンに与える運動量を考えるのは妥当な考え方だろう。
 当然、シリンダの中には多数の気体の分子が含まれているし、シリンダの中の気体分子はそれぞれランダムな方向に飛び回っていることを考慮しなければならない。もちろんこれらは考慮される。シリンダ内の原子の数をNとし、論理的かつ統計的に丁寧に仮定に基づいて、ファインマンと共に自ら計算していくと、PV=N(2/3)<mv^2/2>に到達する(^2は二乗の意味)。
 全身の血液が沸き立つ。また昨日の興奮が蘇ってきた。しかし、冷静にならなくてはいけない。興奮と感激で理解した気になってはいけない。今日はしっかりと理解するための復習なのだ。昨日は興奮のあまり早く先に進みたくて、自分の頭と手を使って検証していくことが疎かになってしまった。統計的な前提に妥当性はあるか。教科書を閉じて自分で考え、自分で計算してみて同じ結論に辿り着くか。一つ一つ検証していくのだ。
 僕は意識的にゆっくりと深呼吸をする。まずは冷静になる。そして1つ1つ仮定に基づいて紙の上で計算をする。1行ごとに深呼吸をする。酸素が血液中のヘモグロビンに結合して全身の細胞へ運ばれるように、1つ1つのファインマンの考え方のプロセスを血液に載せて全身の細胞に送り届ける。心拍数は上がったままだ。だが、冷静に計算できている。理解できている。身体の全体に物理学を取り込んでいくのだ。
 そして自分でもPV=N(2/3)<mv^2/2>辿り着いた。Pはシリンダ内の圧力、Vはシリンダ内の体積、<mv^2/2>はシリンダ内の分子(原子)の運動エネルギーの平均値となる。速度vで運動する質量mの物質の運動エネルギーはmv^2/2であることは、これまた高校物理の範疇だ。高校の物理・化学で習ったのか大学の熱力学で学んだのか、どちらかは忘れたが、気体の温度が気体の運動エネルギーの平均値に比例することは承知している。とすると、運動エネルギーの平均値<mv^2/2>は、温度Tで置き換え可能となる。
 ということは、PV/T=一定という、高校の物理・化学で習う、いわゆるボイル・シャルルの法則が導けたことになる。また、比例定数をRとすれば、かの有名な理想気体の状態方程式PV=NRTが導ける。これは驚くべきことだ。
 僕ははやる気持ちを抑えるために深呼吸を繰り返す。焦ってはいけない。自分の血液と細胞に物理学が取り込まれるよう時間をかける。さきほどの検証作業をもう一度紙面で追ってみる。自分は理解できている。細胞に取り込まれた。これで予定していた復習は完了した。

 ファインマンの教科書を閉じたが、僕の身体はまだ少し熱を持っている。体温と心拍数がまだ少し高い。仕事に取り掛かる前に、静かに物理学の余韻に浸って頭の中で反芻しておくことにした。
 ボイル・シャルルの法則や理想気体の状態方程式は、もちろん高校の化学で学習済だし、わざわざ導かなくても今でも覚えている。ボイル・シャルルの法則は、実験により経験的に導かれた法則だと思っていた。なぜそうなるのかは分からないが、気体の現象を観察して測定すればこうなる、という経験則だと思っていた。まさか、気体が充填されたシリンダとピストンの簡単なモデルをベースにニュートン力学から演繹的に、つまり合理的な計算により導かれるものだとは思っていなかった。
 いや、ボイル・シャルルの法則が実験により経験的に導かれた法則だとすれば、その驚きはさらに凄まじい。簡単なモデルによる演繹的な計算と、実験結果が一致しているのだ。これは、まさに理論と実験結果が一致したことに他ならない。現象としては知られていたが、なぜそうなるのかの理論はなかったという状況において、実験結果を説明する理論構築が出来上がったということだ。まるでファインマンのような稀代の科学者が成し遂げてきたことを自分自身で実感できたのだ。
 ということは、逆に正しい原理に基づいて正しい推論をしていけば、正しい結論に到達できる、ということだ。簡単なモデルをベースにしても合理的な推論と計算をしていくことで、正しい推測を行うことができる、ということか。なんと恐ろしい力だろうか。

 僕はThe Feynman LECTURE ON PHYSICSの赤い表紙を眺めていた。そして表紙がなぜ赤なのかが分かった。ファインマンがとても情熱的な人だったというのもあるだろう。しかし、それよりもこの教科書で学ぶ者を赤く、熱くさせるからだろう。物理学を学ぶことで沸き立たつ全身の血液の色を表しているのだろう。

 弁理士として仕事で扱う特許の技術についても物理学と同様に考えることができるように思う。一見難しそうな技術内容であっても、簡単なモデルをベースに理論的に考えていけば理解できるはずだ。確立されている基本的な原理や法則と矛盾する場合は、モデルが間違えているのだ。
 特許出願を行うためには、発明の内容を詳細に文章に記載しなければならない。弁理士は依頼者からの委託を受けて特許出願のための発明の内容を詳細に文章にする。その中で特許権の権利範囲を定める最も重要な部分である請求項は、言ってみればこのモデルを文言で記載するようなものだ。実は、弁理士は発明技術のモデル化をしているのだ。そして、明細書と呼ばれる詳細な説明文章は、請求項に記載したモデルの具体的な例を説明し、そのモデルでなぜそのような技術的効果が得られるのか、を説明する文章だと言える。
 発明技術を正確にモデル化できるのが優秀な弁理士だ。新しい技術を正確にモデル化でき、そのモデルを説明できれば、特許を成立させることができる。特許権は特許権を侵害する製品を販売停止にしたり、賠償金を支払わせたり、という強力な力をもっている。
 逆に、正確にモデル化できる弁理士ならば、正確でないモデルを見抜くこともできる。正確でないモデル(請求項)のまま特許が成立している場合が多々ある。日本だけでも年間で数十万件の特許出願が行われている。もちろん特許庁で審査を経た上で特許権は成立する。しかし、そもそも難しい技術なのだから間違ったモデル(請求項)のまま特許が成立することはやむを得ない。
 クライアント企業が競合他社から特許権侵害を疑われている場合はどうだろう。特許権侵害が認められると、その侵害製品は販売禁止となる。また、賠償金も億単位になることもある。しかし、特許権の請求項に記載されているモデルが間違っているのであれば、特許を無効化できるのだ。つまり、クライアント企業のビジネスを防衛できる。
 技術を理解し正しくモデル化でき、そのモデルを説明できる、という能力がこれほど大きな力を持つのだ。僕は今まさにこのような力を身に着けようとしている。少しずつ、だが確実に自分の能力が向上してきていることを実感している。

リチャード・ファインマンによる真紅の教科書によって。

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参考文献
1. 書籍『The Feynman LECTURE ON PHYSICS』: Richard P. Feynman
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