第1話 熊倉亜美との偶然のランチ

文字数 8,759文字

  (一) 熊倉亜美(くまくらあみ)との偶然のランチ
「この前、市川さんが請求書の送付先の宛先でccに入れる人を間違えて送付しちゃったのだけど、市川さんが『所内システムにそう書いてあったから書いてある通りに送付しました』って言うんだよね。わざわざパートナーの前で。確かに所内システムを更新したのは私だけど、それはそう変更するように市川さんに頼まれたから更新しただけなのに。暗に私のせいだって言ってるのかな」
 亜美(あみ)さんはサラダのセロリをよけながら言う。そういえばセロリが嫌いだと言っていたことを思い出した。イタリアンレストランを背景に亜美さんの存在がくっきりと浮かび上がる。顎から耳にかけてのシャープなライン、薄く横に引かれた唇、すっきりとした鼻、大きく真っ黒な瞳、それら全体を柔らかに包み込むショートカット。このレストランの内装は亜美さんを引き立たせるために設計されているのかと感じる。まるで、磁性を帯びた物体が周囲に磁場を形成するかのように、熊倉亜美(くまくらあみ)という存在があたかも『熊倉場(くまくらば)』を形成して、この空間に影響を与えているかのようだ。まさか『熊倉場』が距離の二乗に反比例する影響力を持つわけではないだろうが、この空間で『熊倉場』の一番強い影響下にあるのは最も近い距離にいる僕だろう。『熊倉場』の影響のせいか、僕の目には一度来たことがあるこのイタリアンレストランが別の場所のように映る。
「市川さんのことはよく知らないから何とも言えないけど、別に熊倉さんのせいにしているわけじゃないと思うけど。単に、いつもと同じように所内システムに登録されている通りに請求書を送った、ということを言っているだけじゃないかな。誰がシステムに登録したかとか、誰がシステムへの変更依頼をしたかとか、そういうことは念頭にないかと思うけど」
 僕は正直な感想を口にした。ちなみに「亜美さん」というのは僕の心の中だけの呼び方だ。口に出すときは「熊倉さん」と苗字で呼んでいる。
「ん~、でもなんか気になっちゃうんですよね。市川さんに悪気はないのかもしれないけど、なんか遠回しに私のせいにされているような気がして。それに、市川さんは、いつもテキパキしていて仕事ができる人だから、市川さんに言われてしまうと、なんか私が間違えたのかな、って思えてきちゃう」
 亜美さんはセロリを僕の皿に載せてくる。「セロリ苦手だから食べてくれる?」と聞くわけでなく、当然のように僕のお皿に載せてきた。
 デートみたいだな。お互いの好き嫌いを熟知している恋人どうしがいつも通りことをしているかのような仕草だ。『熊倉場』の影響下にある僕は、それが当然の現象であるかのうよう受け入れる。
「自分に非がないことが明らかなら、そんなに気にしなくてもいいじゃないですか。なんなら市川さんに頼まれたからシステムを変更したのですよ、とはっきり言ってしまってもいいかも。まあ、それは言うと角が立つので言わない方がいいかな」
 デートの定義とは何だろうか。
 恋人どうしが一緒に過ごすこと、か。
 僕と亜美さんは恋人どうしではない。
 ゆえにこれはデートではない。
 三段論法から当たり前の結論が導き出される。でも、お付き合いする前に一緒に遊びに行ったり食事をしに行ったりすることをデートとも呼ぶこともある。そうなるとデートは必ずしも恋人どうしに限定されないはずだ。今の状況をデートの概念に含めたい、という願望でデートを定義しようとしていることに気付いて、僕は急に恥ずかしくなった。
「私もあまり気にしないようにしたいけど、なんか気になっちゃう」
 亜美さんは意外に他人の目を気にしている。容姿に恵まれた人は他人の目など気にせず自信を持って生きているのだろうと思っていた。亜美さんの言葉を信じれば必ずしもそうではないらしい。亜美さんの周りには人が集まる。そして周りにいる人たちは笑顔で楽しそうにしている。『熊倉場』がそういう影響を与えるのだろう。亜美さんはクラスでも目立つグループでその輪の中心にいたような人だ。そういう人は、どこにいても自分が中心にいて、自分に自信があって、堂々としているのだと思っていた。でも、考えてみればそんなのは思い込みかもしれない。ステレオタイプな評価をしていたのなら失礼な話だ。亜美さんは、「クラスで最も目立つグループの中心にいる人」というようなカテゴライズされた存在ではなく、こうして僕の正面に座っている一人の人間なのだ。
 勝手な先入観は捨てて僕が実際に亜美さんから感じ取ったことだけを信じよう。僕はまだ亜美さんのことをほとんど知らないのだということを自覚せざるを得ない。
「僕はあまり言葉の裏を考えるのは得意じゃないし、考えても結局のところ本人にしか分からないから考えて悩むことが無駄というか。だから基本的には人の言うことは言葉通りにしか受け取らないようにしてるんですよね。少なくとも市川さんは、熊倉さんのことを悪く言っていないわけだし」
「まあ、野々宮(ののみや)さんならそうだよね。月が綺麗ですね、って言っても、月が綺麗なのか、って受け取りそうだし。なんかモヤモヤしちゃうなぁ」
 またやってしまった。
 気づくのが遅かった。亜美さんはべつに市川さんが亜美さんのせいにするつもりかどうかにつての僕の見解を聞きたいわけではない。僕としては、亜美さんのせいではないのだから気にしなくてよい、という正直な気持ちとともに亜美さんの気持ちを楽にしてあげようと考えた。
 違う。違うのだ。亜美さんが共感を求めていることは明らかだった。僕はそれに気づかなかった。女性は共感を求めている。そして、今は明らかにその場面だった。知識としては知っているけど、実践は難しい。言うは易し行うは難し、というやつだ。
 どうも僕は人の気持ちを察するのが苦手らしい。

 弁理士資格を取得したのを機にハラダ国際法律特許事務所(こくさいほうりつとっきょじむしょ)に転職してきて1年半が過ぎた。特許を専門に扱う弁理士だ。科学技術を保護する理系の法律業といったところだろうか。ハラダ国際法律特許事務所はこの分野では名の知られた大手事務所だ。ちなみに、正式名称のハラダ国際法律特許事務所だと長いので、この業界ではハラダ事務所と呼ばれている。僕はハラダ事務所がある丸の内周辺の都会的な雰囲気が気に入っている。
 普段はコンビニのおにぎりやパン、お弁当などでお昼を済ませてしまうのだけど、週に1回くらいは外にお昼ご飯を食べに行くことにしている。丸の内周辺だと外食すると1000円を超えてしまうので、あまり頻繁に外で食べることはしていないが、自分の席で食べるよりも外で食べる方が気持ちが良い。弁理士はデスクワークだからずっとオフィスの自分の席にいると気が滅入る。たまにはお昼に外に出てリフレッシュしたいのだ。
 上司である北条さんとのミーティングが少し長引いて12時を超えてしまった。その後に、お昼ご飯を食べに事務所を出ようとしたところで亜美さんに遭遇した。
 亜美さんも一人でランチに出かけるところだったようだ。亜美さんは秘書仲間と一緒にいることが多く、一人でいることは珍しい。仕事で時間がずれてしまったのだろう。チャンスというのは予想していないときに急に訪れるらしい。心拍数が上がってきて、耳の後ろの方で脈打つ音が聞こえてきた。慌てているところを悟られてはいけない。いつも通りの平静を装いながら出てきた言葉は「今からランチですか」だった。この時間に外に出るのだから、そんなのは当たり前だ。発すべき言葉はそれではないだろう。
「野々宮さんも今からお昼?どこに食べに行くの?」
「実は決めずに出てきてしまって、東京駅地下あたりでどうかと思っていたところなんですよ」
 僕はとりあえず会話を続けたかった。その間にどうするかを考えよう。今ならまだ亜美さんは僕の隣で一緒に歩いている。亜美さんはどこへ向かうつもりなのだろう。どう誘えばいいだろうか。今のところ僕らは同一方向に一緒に歩いている。亜美さんの目的地は僕と同じ方向にあるのだろうか。
「野々宮さん。どこかいいランチを知りませんか。いつも同じようなお店に行っちゃうから、たまには新しいところを探したいなと思って」
 確かに僕も面倒なのでいつもの場所に行きがちだ。予期せず亜美さんに遭遇したことに慌てたものの、少し落ち着いてきた僕は思い出すことができた。
「前に外国出願グループの新人歓迎会に呼ばれたときに行ったイタリアンは美味しかったですよ。ピザを焼くための窯があって、ちょっとお洒落な感じでしたね」
「私ピザ好き。なら今度行ってみようかな」
 今度か。いや、今度じゃなくて今でしょ。どこかで聞いたことがあるようなセリフを思い出して自分のハードルを下げてみる。
「東京駅の隣のビルにあるので、こっち方面ですよ。なんなら今から一緒に行ってみます?」
 語尾を上げて「行ってみます?」じゃないだろう。「今から一緒に行きませんか」とちゃんと誘え、と自分で自分にツッコミたくなる。だが、僕にしては上出来だった。もちろん、偶然一緒に外に出た同僚女性をランチに誘うことに特別な意図はありません、という大人な態度を装いながら。でも、亜美さんの黒くて大きな瞳の奥には、そんな僕の心の動きの全てが写されているような気がした。心臓の鼓動がさらに大きくなっていく。全身を血液が駆け巡るスピードが速い。
「うん。行きたい。やった。野々宮さんと一緒にランチなんて嬉しいな」
 以外にも亜美さんはなんの躊躇(ちゅうちょ)もなく笑顔で応じた。勇気を出してみるものだ。亜美さんは同い年ということもあり、事務所ではフランクに話をする間柄だ。でも、亜美さんと二人でランチは初めてだ。というか、職場の女性と二人でランチに行ったことは無い。なんとなく女性と二人で会うのは(はばから)れるし、他の同僚たちも男女二人は避けているように思う。勘違いしたりされたり、面倒なことになりたくないのでセクハラのグレーゾーンには近づかない、という判断だろう。

 どうも僕は亜美さんをモヤモヤさせることがあるらしい。そして、僕はまたやらかしたようだ。モヤモヤというのがよく分からない。人に悪口を言われて嫌な気分になる、というのは分かる。だが、モヤモヤと言うのは分かりにくい、いや、分からない。僕は亜美さんの悪口を言っていないし非難してもいない。それどころか僕は亜美さんに好感を持っている。市川さんだって亜美さんのことを悪くは言っていない。気にするようなことは何もないと思うのだが。

 専用の窯で焼かれたマルゲリータが運ばれてきた。テーブルにマルゲリータを置いたウエイターが、ちらちらと亜美さんを見ている。『熊倉場』がそうさせるのだ。亜美さんは特に気にも留めていない。いつものことなのだろう。
 イタリアの王妃マルゲリータが気に入ったから『マルゲリータ』との名が付けられた、という話を聞いたことがある。トマトソースの赤、モッツァレラチーズの白、バジルの緑がイタリアの国旗の色と同じだから、ということらしい。もちろん、そんなうんちくを得意げに亜美さんに披露するほど僕は間抜けではない。他愛のない話をしながら僕らは焼きたてのマルゲリータを食べ始めた。
「野々宮さんは、自分の意見をはっきり言う人が好きなんですよね」
 ん。言われてみれば確かにその通りだけど、なんで亜美さんがそれを知っているのか。
 そうか。僕がハラダ事務所に入って歓迎会があったときだ。亜美さんは僕とは違う部門で秘書をしているけど、僕と同い年ということもあって、幹事が亜美さんもお誘いしていたのだ。そして、その時にそんな話をした。お約束の新人いじりなのか、何人かの女性がいる席でオジサン弁理士から好みの女性のタイプを聞かれて、そんなことを言ったはずだ。確かにその場に亜美さんもいた。でもまさか1年半も前のことを覚えているとは。凄い記憶力だ。言った張本人なのに僕はすっかり忘れていた。
 そして、ついでに余計なことも思い出した。そのとき、亜美さんは、自分はあまりはっきり言えるタイプじゃない、って言っていた。そう、僕はそのときフラれていたのだ。
「それって、もしかして歓迎会の時の話?覚えてるんだ」
「覚えてるよ。ちょっとモヤモヤしたから」
 またモヤモヤか。さっきの共感を示せなかった失敗を思い出す。亜美さんは僕を見透かしたように微笑んでいる。気分を害しているようには見えない。人の気持ちを察するのが苦手な僕の判断なので、自分の判断を信頼していいのか自信が持てない。
「そうですね。はっきりと言葉にしてくれないと僕には分からないことが多いので。自分の意見をはっきり言ってくれる人が好きというか、はっきりと言ってくれないと困ってしまう、というのがより正確かもしれないけど」
 亜美さんははっきりと物を言えるタイプではないらしい。亜美さんが言うには、だが。見た目の雰囲気からは必ずしもその人のことは(はか)れない。そして、僕の発言にモヤモヤすることがあるらしい。亜美さんは不思議だ。僕が理解できないものを抱えている。知らないことはやはり理解したい。どうしても聞いてみたい。

 最後にコーヒーと小さなデザートが運ばれてきた。小さなプリンだ。相変わらずウエイターは亜美さんをちら見している。注目されていることを気に留めない、というのもすごいことだ。
「ちょっと熊倉さんに聞いてみたいのだけど、もし失礼なことだったら申し訳ないのだけど、どうしても聞いてみたいから聞いてもいいかな」
 やっぱり聞きたいことは聞くしかない。亜美さんと二人で話をする機会などそうそうないだろう。取り巻きがいるときでは聞きにくい。
「えっ、なに。改まって。いいよ。答えられるか分からないけど」
「熊倉さんは前にも空気を読みすぎたり人に気を使ったりしすぎる、って自分で言っていたじゃない。それって、どうしてだと思う?」
 ストレートすぎるかもしれない。だけど、僕はどうもこういう聞き方しか思いつかない。
「どうしてって、原因のこと?」
「原因というか、熊倉さん自身はそのことをどう思っているのかなって思って」
「そうだね。野々宮さんにそんな風に改まって真剣な顔で聞かれちゃうと、私も真剣に考えて答えないといけないね」
 僕は真剣な顔をしているらしい。たしかに本当に心から聞きたいことを素直に聞いている。そして真剣に聞きたいのだ。
「でも、その前に1つ教えて。なんでそんなこと聞きたいの?」
 そう聞き返してきた亜美さんの顔も真剣だ。だから僕も真剣に考えてこの質問に答えなくてはいけない。
 亜美さんは不思議なのだ。事務所内で見かける亜美さんはキラキラしている。そして人を惹きつける。亜美さんと話している人は男性も女性もみんな楽しそうで幸せそうだ。亜美さんはとても美人だし、話をしていてもとても感じのいい女性だ。だから、それは当然そうだろう、と思っていた。ただ、亜美さんは、空気を読みすぎたり人に気を使いすぎたりする、と僕に言っていた。そしてよく分からないモヤモヤというものを抱えている。事務所内で見かける亜美さんの印象と、亜美さんが僕に話してくれた内容にズレを感じるのだ。もちろん、今、僕の前にいる亜美さんもとてもキラキラしていて、とても感じがいい女性である事には変わりはないのだけど。
「事務所で見かける熊倉さんの印象と、今、僕と話をしている熊倉さんの印象が少し違っていて、不思議なんですよね。だからそれを理解したいというか」
「そっか。うーん。私にとっては野々宮さんの方が不思議なのだけど、まあ、それは別の話だしね。たしかに野々宮さんと話しているときは、他の人のときとは違うかもしれない」
 僕は人の気持ちを察するのが苦手だからかな。変なことを言う人だと思われているのかもしれない。それが亜美さんをモヤモヤさせるのだろうか。
「私の経験だとね。あまり自分の意見をはっきり言わない方が、全体として上手くいくと感じることが多いのかな。あと、私は野々宮さんのようには自分に自信を持っていないのだと思う」
 自分に自信を持っていない人が、人のお皿に勝手にセロリを載せたり、ちら見してくる人を気に留めないでいたり、そういうことをできるとは思えないんですけど。。。ただ、自分の意見をはっきり言わない方が全体として上手くいく、そういうことは可能性としてはあるだろう。だけど、可能性があるからって、なぜ亜美さんがそうなのかはやはり疑問だ。
「気を悪くしたら申し訳ないのだけど、熊倉さんは事務所でも、なんていうか人気があるでしょう。みんなから好かれているし。女性に容姿のことを言うのは問題あるかもしれないけど、熊倉さんは客観的にいってとても美人だし、オシャレだし。熊倉さんの周りにはいつも人が集まってきていて、熊倉さんはその中心にいる感じ。きっと子供の頃からそうだったんじゃないかな、と思ってさ。勝手な思い込みなのかもしれないけど、そういう人が自分の意見を言いにくい、ってことがあるのかな」
 すごく雑にいうと亜美さんは「一軍女子」だ。一軍女子は可愛くてクラスの人気者で、クラスで自由に振る舞うことができる。亜美さんが笑うことが皆にとって面白いことで、亜美さんが好きな服が皆にとってオシャレな服で、亜美さんが欲しがるものが、みんなが欲しいものだ。誰の顔色を伺う必要もない。乱暴にいってしまえば「可愛いは正義」というやつだ。もちろん、それは学校という同世代だけが集まる限られたコミュニティの中だけのことで、社会に出てからは同じではないだろう。が、その正義は少なくともハラダ事務所では通用していると思う。
「一つ思い出したことがあるの。小学生のときに英会話を習ってたの。4人で1グループのレッスンがあって、そこに私と同い年の女の子がいたの。先生はアメリカ人の男の先生だった。ジェームス。それで、レッスンの最後にお遊びとしてゲームをやるの。UNOとか。私と同い年のその女の子はゲームで負けると泣いたり怒り出したりして、ちょっとクラスの雰囲気が悪くなっちゃってたの。そしたら、ある時ジェームスが私にこっそりと、その子にわざと負けてあげて欲しい、って言うの。だからその子がいるときはゲームにわざと負けてあげていたの。それでその子は気分良くレッスンを終えることができたし、クラスの雰囲気も悪くならなくなった。私がわざと負けてあげることでね。その時に私が我慢することで全体が上手くということを学んだのかな。そして周りの人も私にそれを求めてくるのかもしれない。あの時のアメリカ人のジェームスみたいに」
 なるほど。腑に落ちるとはこういうことか。確かにそんな状況では、誰かがわざと負けてあげるしか解が思いつかない。亜美さんが我慢することでクラス全体が上手くいった。そのとき亜美さんがわざと負けることを拒んだとしても、誰も亜美さんを責めることはできない。小学生の僕なら拒んだかもしれない。しかし、亜美さんはわざと負けて全体の利益を優先した。亜美さんはそういうことができる人なのだ。
 そうしてもう一つ分かったことがある。亜美さんの説明はとても分かりやすい。分かりやすい説明ができる人はとても頭のいい人なのだ。
 理解できなかったことを理解できたという感覚は、感動を生じさせる。理解できたときは、新しい感覚が血液を通して全身の細胞に取り込まれていき、自分がアップデートされたように感じる。
 亜美さんが僕のストレートな質問に真正面から返事をしてくれたことに感動すら覚える。上辺(うわべ)だけの言葉ではなく、本当のことを語ってくれた。たいていは、こういう立ち入ったことを聞くとはぐらかされる。もちろん、それは大して仲がいい訳でもない間柄なのに立ち入ったことを聞くからだろう。だけど、聞きたいことはすぐに聞きたい。答えてくれないのであれば、もうそれは仕方がない。まずはもっと仲良くなってから、とか面倒なのだ。なんでそんな遠回りをしなければいけないのか。
 どうにか僕はこの感激と感謝を亜美さんに伝えたい。そして、僕も亜美さんに対しては上辺(うわべ)の言葉ではなく、本当の言葉で向き合おうと誓った。
「熊倉さんは秘書という仕事に向いているのかもね。もちろん、秘書は主張せずに我慢するべき、という意味じゃないのだけど。熊倉さんは周りが見えていて、全体の利益のために自分が我慢することができるという寛大さがある。なかなかそうなれるものじゃないと思う。そして、凄く頭がいい。分かりやすい説明ができる人って、そうそういないと思う。熊倉さんが優秀な秘書なのはそういう資質があるからなのかな。そして、なにより僕の失礼な質問に対してはぐらかさずにちゃんと答えてくれたことが嬉しかった」
「なんか大げさだね。小学生のときにゲームでわざと負けてあげていただけなのに。でも野々宮さんにそんな風に言われると、私は本当に秘書に向いているのかもって思えてくる。私も嬉しい」

「私、ちょっとそこのドラッグストアでリップクリームを買ってから事務所に戻るね。それに、野々宮さんと一緒に事務所に戻ったら怒られそうだから」
「怒られる?誰に?」
「野々宮さんと二人でランチに行ったなんて知られたら女性陣に怒られちゃう。人気あるんだよ。野々宮せんせー」
 そう言うと亜美さんはさらりと東京駅構内へと向かっていった。僕は大きく息を吸い込み、「野々宮先生」ではなく「野々宮せんせー」と言った亜美さんの言葉を全身に巡らせようとした。そうしたら、うっすらと春の匂いを感じた。見上げると銀杏(いちょう)に小さな若葉がたくさんついていた。

(つづく)
2022.2.27
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