第2話

文字数 2,356文字

 紳士が最初に現れた日から、三か月が経ったある日の夕方、事件が起こった。
 黄色のサングラスをした、チンピラ風の若い男が、Bサイドに現れた。かと思うと、当たりを確認して欲しいとクジを十枚差し出してくる。受け取った蓮江は枚数を確認すると、一枚ずつ判別機に投入していく。六等が一枚だけ当たっていたので、預かった残りのクジと三百円をトレイに入れ、男に差し出した。
 するとチンピラ風の男はクジを手に取るなり、急に怒りだし、クジを入れ替えたと主張し始める。
 もちろん身に覚えのない事だったので、必死にそう説明したが、チンピラの男の怒鳴り声が止むことは無かった。しまいにはデジカメを取り出して、画像を蓮江に見せる。
「ここに出す前に撮影しておいた画像だ。ほら、番号が違うだろうが!」と言い出した。そして新聞を窓口に無理やり入れると、当選番号を確認しろと迫りだす。
 見ると確かにデジカメの画像の中の一枚が、三等の数字になっていた。三等と言えば十万円だ。新聞の日付を見ると、今日の日付に間違いない。
 困り果てて福子に助けを求めると、彼女は携帯を取り出して、取りあえずマネージャーに連絡してみると、指を素早く動かし始めた。
 怒りが頂点に達したのか、チンピラ風の男は、アクリル製の仕切り板を平手で何度も叩き出すと、「おいクソババア! 弁償しやがれ!!」と喚き散らす。
 福子は携帯を切ると「すぐにマネージャーが駆け付けるから」と言ったが、今は県外にいるので、少なくとも一時間以上かかるという話だった。
 肩を撫でられながら、怯える手を互いにぎゅっと握る。恐怖で全身が震え、周りの人達も遠目から眺めるばかりで、誰も助けに来ようとはしない。罵声を浴びせる男の剣幕は益々激しくなっていく。何とかこの場を抑えようと、蓮江はバッグから自分の財布を取り出し、中から一万円を抜き取った。こうなったらこれで納得してもらうしかない。
 その時だった。
 チンピラ風の男が急に唸り声を上げると、一人の男が背後から腕を捻り上げている。見ると背後の男は、あの一枚しかクジを買わない例の紳士だった。紳士は男のデジカメを取り上げると、中の画像を確認し、あることを指摘した。
 紳士が言うには、手元のクジと画像のクジの番号は確かに一致しているが、そもそもの大会の番号が違っているという。蓮江はデジカメとクジを受け取ると、手元のクジは第百二十一回、デジカメの画像のはかなりギリギリに映ってはいたが、確かに第百十三回とある。二年前のクジだったのだ。
 チンピラ風の男は、紳士の手からぶんどるようにデジカメを奪い返し、「バカヤロウ、余計な事すんじゃねえ!」と捨て台詞を吐きながら、逃げるように走り去っていった。
 窓口に立った紳士は仕切り板越しに、「大丈夫でしたか」と声を掛け、またクジを一枚だけ買い、そのまま帰って行った。結局、お礼は言わずじまい。
 残された二人はお互いを見合い、安堵のため息を吐くと、そのままシャッターを降ろす。しばらくしてマネージャーが現れると、事の顛末を話した。
 マネージャーからの話で、最近そんな因縁をつけてくる輩が出没していることを知った。

 その日、家に帰った蓮江は、シャワーを浴びながら夕方の出来事を思い出していた。怒鳴り声を上げながら、仕切り板をバンバン叩く男の顔が浮かぶと、恐怖がぶり返し、体が震えてくる。やがて助けてくれたあの紳士のことを思い直すと、急に心が休まり、きちんとお礼を言わなかったことに気が付いた。
 今度もし、あの紳士がやってきたら、その時こそお礼を言わなければ――。
 そう肝に念じてシャワーを終えると、ベッドに入り、まぶたを閉じた……。

 その機会は直ぐに訪れた。
 あの事件から一週間後、いつもの時間にあの紳士が現れたのだ。すぐさまあの時のお礼を述べると、彼はにっこりと微笑んで「大したことないですよ」と答え、トレイに三百円を置くと、この日もクジを一枚だけ購入していった。

 いつしか蓮江は、その紳士を待ちわびる様になっていた。夕方の四時半が近づくと、時計を見ながらそわそわし出し、渡す予定の宝くじに、どうか当たりますようにと、しっかりと念を入れる様になっていった。
 そんな蓮江の行動に、年下の福子がからかう時もあった。彼が去った後で、福子はさり気なく話しかけ、「もし、その気があるんだったら、一度、外で会う約束でもしてみたら?」とアドバイスをくれた。
 彼女に言われるまで、蓮江はそれが恋心だとは気づかなかった。
 これまで、いわゆる本気の恋愛というものを経験した事が無い。
 短大に通っていた頃、合コンで知り合った男性と、なし崩し的に何度かデートをし、あっちの方も人並みに経験があった。だが、恋愛感情とは違う気がして、結局三か月もしないうちに自然と連絡を取らなくなっていた。
 それ以来、以前の仕事先である郵便局の男性から何度か誘われたり、一人居酒屋で飲んでいる時に酔っ払いに口説かれたりしたことはあったが、嫌な気はしないものの、毎回逃げるように断り続けていた。自覚するまでもなく蓮江は恋愛に対して臆病になっていたのだ。
 全てを犠牲にしてでも、決して離れないという燃え上がるような大恋愛は、小説やドラマの中だけの世界だと信じていた。男が女に、女が男に互いに惹かれ合うのは自然の摂理なのだろうけれど、蓮江には、どこか異世界の出来事のような絵空事として感じていた。
 だが、今の蓮江は違う。明らかにあの紳士を男性として意識している。彼の姿を想像するだけで胸が高鳴り、実際に目の前にすると、緊張して声が震えるのが判る。クジを販売した時に、さり気なく左の薬指が空いているのを目ざとく確認すると、いつしか恋に焦がれる、うら若き乙女のような心情になっていた。
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