第3話

文字数 1,875文字

 そんなある日。
 仕事が休みだった蓮江は、中学時代からの友達とショッピングに出かけ、一人で帰りのバスに乗り席を探していた。あいにく、どの席も埋まっており、諦めてつり革を握ろうとしていたところ、奥から二番目の左側の席に、あの紳士が座っているのが目に入った。
 一瞬で胸が高まる。
 彼も蓮江に気づいた様子で、軽く手を挙げると、隣の席に置いてある鞄を膝の上に乗せ、空いた座席をポポンと叩く。心臓が飛び出る程に緊張しながらも、感謝の弁を述べながら着席すると、彼は柔らかい口調で話しかけてきた。
 彼は新島(にいじま)と名乗り、蓮江は自分の名前を告げると、「知っています」と笑い声が返ってきた。当然だ。仕事中は胸に名札を晒(さら)しているのだから。
 それから新島は蓮江を見つめながら、自分のことを語りだした。
 今は隣町のショッピングセンターで映画を観てきた帰りである事、小さな雑貨屋を経営している事、それから最近パスタにハマっている事など……。
 相槌を打ちながら聞いていると、やがて彼はおもむろにチャイムを押し、次の停留所で名残惜しそうに降りて行った。
 蓮江は七つ先のバス停で降り、荷物を抱えながら家に着く。
 そのまま部屋に入り、布団にもぐりながら、大きめの枕をぎゅっと抱きしめ、年甲斐もなく思春期の少女のように転がりまわった。

 やがて次の木曜日がやってきた。
 化粧が濃くなっているのを福子から指摘されると、誤魔化すように宝くじを必要以上に何回も繰り返し数えだす。
 夕方になり、いつもの時間に新島が現れると、「この前はどうも」と話しかけた。彼は黙って三百円と、二つに折ったメモ紙を蓮江に差し出すと、クジを片手に去っていった。福子に悟られないよう、こっそりメモ紙を開くと、そこには『もっとお話がしたいので、良かったら、今度お食事でもいかがですか』とあり、一緒に携帯番号とメールアドレスが記してあった。
 一瞬で顔が紅色に染まるのを感じ、胸が苦しくなった。目が虚ろになり、膝の上でメモ紙を軽く押さえながら、彼のぬくもりを感じていると、やがて福子の声で、目の前にお客さんが立っていることに気づかされた。

 仕事が終わり家に帰ると、早速携帯を開き、メモを見ながらメールを打つ。なんと書けばいいか散々迷った挙句、『私でよければ、是非お願いします』とありきたりな言葉を送った。すると五分もしないうちに返信があり、週末にランチを取る運びとなった。

 土曜日になり、流行遅れのワンピースを引っ張り出した蓮江は、ばっちりとメイクを施す。午前中に美容室へ行き、駅の近くの喫茶店へと向かう。
 約束の十分前に到着したにもかかわらず、新島はすでにテーブルの席に着きながら、コーヒーを傾けていた。
 慌てて「遅れてすみません」と頭を下げながら椅子に座ると、「自分も今来たところです」と新島はメニューを差し出す。彼の勧めもあり、日替わりのパスタセットを頼むと、緊張で震える自分を落ち着かせるために、コップの水を一口飲む。
 そんな蓮江を気遣うように、彼は易しい微笑みを浮かべながら、天気や芸能ゴシップを語りだす。蓮江はうんうんと相槌を打ち、次第に自らも口を開くようになっていった。
 やがて料理が運ばれてくると、今日のパスタはナポリタンだった。パスタを絡めたフォークをゆっくりと口に運びながら、たまに目が合うと、はにかみながら視線をそらし、再び一言もしゃべられなくなっていた。
 フォークを置いた彼は、自分のプライベートを語り出す。雑貨屋の経営状態や最近読んだ本、三年前に離婚して、二人の子供は相手が引きとった事や、趣味の映画の裏話、それから弥生丸という豪華客船でのダイヤ盗難事件と殺人事件があったのをニュースで見て、それが副船長の手柄で解決したらしいという、うわさ話まで話題に上った。
 蓮江はそれを黙って聞いていたが、やがてフォークの動きを止め、お返しとばかりに今度は自分の事を話し出した。
 宝くじ売り場にやってくる変わった客や、前の職場だった郵便局でのハプニング。趣味のガーデニングのうんちくや、宝くじ売り場で働くきっかけになった叔母への愚痴。友達と行ったかっぱ寿司専門店。その友達の亭主の悪口に辟易している様子――そして、さりげなく現在恋人募集中である事実……。
 その時、初めて気が付いた。男の人に、これほどまで自分の事をさらけ出した事が無かったことを。
 吸い込まれるような優しい笑顔が、つい蓮江を饒舌にしていたのだった。
 時には笑い声を漏らし、時には感心しながら、新島は輝く瞳を蓮江に向けていた……。
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