第3話

文字数 8,899文字



 桜は二時間もののサスペンスドラマを見ていた。中間テストを終えると急いで家に帰り、母親が作り置きしてくれた昼食を食べてからテレビのある和室の居間にうつり、クッションを抱いて足をくずし、本格的にドラマを見始めてから一時間三十分が経過していた。すでにテレビ画面はクライマックスを迎えている。美人の妹が、姉と刑事に自分の犯行を自供している。そのシーンの舞台はやっぱり定番の崖の上だ。
「ずっとあんたが許せなかったのよ!」画面の中の美人の妹が、拳を握りしめて海にむかって叫ぶ。姉が顔を歪ませて妹に近寄ろうとする。
「ごめんなさい。でも・・・・でもね。お姉ちゃんはずっと真知子のことを・・・・真知子のことを」姉が地面にひざまずき、両手で顔をおおう。
 桜は犯人を、ドラマが始まって一時間後には予測していた。だいたいラストシーンは有名女優のために用意されている。したがって犯人役と犯人に関わる重要人物は、女優の格付けと今までの役どころで察しがつく。罪を犯した妹と、過去の齟齬を清算しようとする姉。きっと、このあと妹は姉に寄り添い許すだろう。そしてふたりの姉妹は抱き合う。めでたしめでたしだ。予定調和であろうが、お約束であろうが、これでいいのだ。
 画面の中。妹が「お姉ちゃん」といって姉をふりかえった。
 そうだ。そうだ。早く、お姉ちゃんの肩を抱いてやれ、あんたは犯罪をおかしたが、お姉ちゃんはずっとあんたをこれからも見守ってくれるよ。目を潤ませながら桜は心のなかでそう呟く。
「おねえちゃーん!」妹が泣き顔で姉にかけよる。
 キター!桜のクッションを抱く腕に力がこもる。その瞬間―パチッ
 テレビ画面は不穏なメロディーとともに刀を持った中村吉右衛門を映し出した。鬼平犯科帳というテロップが出ている。
 ―桜は放心した。いったい何が起きたのだ。あの姉妹はどこに行った???あるはずのないその姉妹の場面を探そうと、思わず首をのばしてテレビの上や横を探す。あるわけがない。そしてふと部屋の中に人の気配があることに気づいた。誰?
ふりかえると、桜の斜め後ろに、テレビのリモコンを手にした美空が真剣な顔で正座していた。えっ?チャンネル変えた?勝手に変えた?うそでしょ?意味がわからない―
「美空ちゃん?」
「ん?あ、これな。鬼平犯科帳の時間だから」美空は桜に目もくれず、真剣な顔で刀をふりまわす中村吉右衛門を見つめている。
「はあ?」思わず両こぶしを握って立ち上がる。
「だからって普通かってにチャンネル変える?あたし見てたのに!まったく意味わかんない!」
「ああ。そうだったか。こりゃ失敬」そう言うと美空は元のチャンネルに変えた。が、そこにはすでに姉妹の姿はなく、主人公の刑事が家族と談笑する結びの場面になっていた。エンディング曲とともに、画面の下に制作者たちのテロップが流れていく。最悪だ・・・・この男。めっちゃ最悪だ。
「もういいわよ。お好きにどうぞ。鬼平でも林家たい平でもご自由にご覧くださいな。あたしお花にお水あげてくる」
 ぷりぷりしながら桜は居間を出て行った。
 庭の花壇にある綺麗な花たちに水をあげていると、くさくさした気分もだいぶ和らいだ。ここのところ美空は毎日のようにやってきては、兄と楽器の練習と曲作りに没頭している。美空のギターの腕は見る見るうちに上達し、兄が作った詩とコード進行を美空がひとつの曲としてまとめるようにもなった。兄は美空の音楽技術の目覚ましい成長にひたすら驚いている。
桜は美術部で仲のいい部員もいるし、家でも絵画を制作したり漫画を描いたりもするが、こんなに一緒に音楽に夢中になれる友だちをもった兄を少し羨ましく思っていた。二階から兄のベースギターの音が聴こえる。きっと必死なのだろう。自分から誘ったはいいが、その友だちの成長に自分もついていかなければならない。
 ホースからの水圧を緩めようと水道をふりかえったとき、桜の目に異様なものが映った。銅褐色の帯が庭から家の軒下へと続いている。こんなものは今まで見たことがない。おそるおそる近づいて見てみると、それは虫の大行列であった。羽をつけた同褐色の小さな蟻のような虫の大群が、列をなして家の軒下に行進中だ。虫嫌いの桜は声をあげそうになったが、それを押し殺して数歩後ずさりして考えた。
 あたしの手には負えない。お兄ちゃんは二階でベースに夢中だから助けを呼んでも無視されるだろう。母さんたちが帰るまで様子を見るか―でも家に害のある虫だったらどうしよう。何しろこの家は築三十年の中古物件だからあまりあてににならない。父が建物よりも広い庭を優先にして選んだからだ。家は古いが庭だけは立派なのだ―でもこの家になにかあったらどうしよう。キャリアのくせに、自ら出世街道から外れた道を邁進してきた佐橋刑事だ。今後も給料は上がることはないだろう。頼りにならない。あと最低でも十年は、この家に元気でいてもらわねば。
 桜は庭から居間の窓のほうにまわり、縁側に膝をついて中をのぞいた。美空がさっきと同じ姿勢のまま鬼平犯科帳を見ている。なぜか泣いている。なぜ泣ける?泣けるようなドラマなのか?時代劇だよ美空ちゃん。桜は首をかしげたまま窓をノックした。美空がこっちに涙目をむけた。
「ちょっと助けてほしいの!」
 美空が、何?といったふうに耳に手のひらをかざした。
「窓あけて!」さらに大きな声で言って、窓の鍵を指さす。
 ちょっと待てといったように美空は手のひらを桜にむけるとまたテレビに見入った。信じられない―何なの?このキング・オブ・マイペース。めっちゃむかつく。
 もう一度、窓を強くノックして「開けて!」と鍵を指さして叫んだ。しかし―なんと今度は無視された。はらわたが煮えくり返ってきた。勝手にチャンネル変えるわ、無視するわ。この外道め。あのギザギザの変な頭の後頭部をひっぱたいてやる。桜は回れ右をして、そのまま玄関に向かって庭をかけだすと中に入り、どたどたと廊下を走って居間にとびこんだ。が、美空はいなかった。鬼平犯科帳が次回の予告編を放送している。ふりかえると美空は台所でグラスを片手に、水道から水を飲もうとしていた。桜に気づいているはずだがこっちを見ない。拍子抜けして怒りの芽がぽきんと折れた。思わず「美空。冷蔵庫の水飲んでいいよ」と言っていた。
「いや、他人様の家の冷蔵庫を勝手に開けるわけにゃあいかねえ」
 でもチャンネルは勝手に変えたけどね。
美空は勢いよく蛇口から水をそそぐと、それを一気に飲み干した。
「それでなんだ?もしかして羽アリか」
「ん?何それ」
「だから庭で慌ててオレを呼んでたろう?虫かなんかか?」
「そう!気持ち悪いのがいっぱい」と桜は両腕をひろげた。
「ちっちゃいのがたくさん!ハネがついてんの。その大群が大行進中!やっつけてくれない?あたし虫が苦手で」
「桜ちゃん。殺虫剤ある?」
 桜は、ぽんと手をうつと「ある。庭の物置に」といって美空の袖をひっぱって庭に連れ出した。
 美空は殺虫剤のスプレーを受け取ると、タバコをくわえてライターを取りだした。
「一服つけにきたんじゃないよ!早くやっつけてよ」と桜がまた袖をひくが、美空は少し離れてろと言って桜を遠ざけた。
 美空は殺虫剤スプレーを噴射し、その噴射口にライターで火を引火させた。途端に噴射口は薬剤ではなく勢いよく炎を吐き出した。桜は初めて炎の音を聞いて少しおびえた。獣や強風がうなるような強い音。美空はその炎にタバコを近づけて火をつけてから、大行進する羽アリの行列の脇にしゃがみこみ、躊躇なくその炎をアリたちに放射した。あっという間に羽アリたちが黒焦げになっていく。
 桜は、急に美空を止めたくなり一歩踏み出してから、身体が膠着した。やっつけてって言ったのはあたしだ。でもなんだかアリたちが可哀想な気がしてきて思わず「アリさんたちが」と呟いてしまった。聞こえたのか、くわえタバコの美空が桜をふり返る。その子犬のような顔には表情がない。黒目がちな目がこっちを見ただけだ。どことなく気味が悪い。
 美空は、羽アリたちの大行進の始発点まで炎でたどり、目につく羽アリすべてを焼殺した。桜はなんだか痛ましい気持ちになってきた。そこまでやる・・・・やるんだ。っつーかやっちゃった。
「昨日。庭で一服つけてる時にも数匹いたから気になっててさ。どこから湧いて出てくんだか。でもこれで当分は大丈夫だろう。家に入られると面倒なことになってた」
「でもなんだか、こういうやり方って人道的に・・・・」
 複雑な表情で、黒焦げになった羽アリの行列を見つめる桜に、美空は「こいつらは蟻だ」と言ってタバコの灰をおとした。
「そして、こいつらはお前たちの家を食う」
 そう言われると、桜は返す言葉がなかった。
 さっきから一階や庭から桜の賑やかな声が聞こえていたが、修は美空とふたりで作った曲を、ベースを弾きながら歌う練習にひたすら没頭していた。オリジナル曲のベースラインを完成させたはいいが、それを演奏しながら歌うのはなかなか高度な技術がいる。
 修が、演奏しながら歌うことに諦めかけていると美空が階段を上がってくる足音が聞こえた。一緒に、小さな足音も聞こえるがジャニスだろう。ノックとともにドアがあくと美空が顔をだした。
「どう?進み具合は」
 そう言って部屋に入ってきた美空の背後には、さりげなく桜がいた。ジャニスじゃなかった・・・・
「どう?お兄ちゃん。難しい?」
 自然さを装って、桜はしらじらしく難しい顔をして修の学習机の椅子に座って足をくんだ。お前には関係ないだろと言いたいが、美空がいる手前あまり邪険にはできない。
「うん。なかなか難しい。弾きながら歌うのは」
「それより修。ドラムはどうする?スタジオで知り合った蛍坂高校のあいつで手を打つのか?」
 たまたま同じ時間帯でにスタジオで個人練習していた鈴本くんという蛍坂高校の三年生と最近ふたりは親しくなった。鈴本くんは、同級生とくんだ学内のバンドと、すでにライブハウスデビューしている年上のアマチュアバンドをかけもちしている。ドラムの腕は一級品だ。ただ忙しいだけに誘いを受けてくれるかどうかはわからない。
「彼が了承してくれたら申し分ないけど」
 美空は、自分のギターの白いストラトキャスターを抱くと、修と作った曲のイントロを奏でた。
「あとは。弾きながら修が歌えるかどうか」
 修はベースギターをスタンドにかけると腕をくんでうつむいた。
「ボーカル入れればいいじゃない」
 桜がふたりを交互に見ながら言った。
 修と美空は顔を見合わせた。
「そのほうがいいよ。自分たちのパートに集中できるし」
「たしかになあ。でもおれたちのバンドのボーカルはハードル高いぜ―。声もビジュアルもファッションも。そんな奴はなかなかいねえよ」
 そう言って、修はベッドにダイブした。ベッドに横になる修を見ながら「確かになあ」と美空が同意して頷きかける。
「いるじゃん」桜が立ち上がった。
「どこに?」修が欠伸を噛み殺しながら桜を見る。
「ここに」
「どこだよ」修が部屋の中を見回す。
「ここによ」そう言って、桜は自分を指さした。そしてスカートを揺らしながらクルっと片足立ちでスピンすると、マイクを持って歌うポーズをとった。
「あたしよ。あたしが歌う。決めた」
 修はベッドから体を起こして、美空と口を閉めわすれたまま顔を見合した。

 桜はドライヤーで髪を乾かしながら考えていた。自分がボーカルをやると言ったのは思いつきだったが、兄と美空は、あのあと何事もなかったかのように、何も言わずにスタジオに出かけて行ってしまった。答えを留保されたのか、無視されたのかさえもわからない。
さっき湯につかりながら、桜は決意していた。思いつきで言ったことだが、考えれば考えるほどあのふたりのバンドのボーカルには自分がふさわしい。そして去年から思案していた、少女から女へと変貌していく、これからの桜レディー化計画においてもボーカルをやることは重要な経験となるはずだ。ボーカルになることで、これまでの桜ちゃんは卒業だ。ちょっとゴスロリで、ちょっとコケティッシュで、ちょっとセクシーなSAKURAにあたしは変わる。
でも、なかなか身長が伸びない。今日の「各務美空 羽アリ火炎放射焼殺事件」のときに美空の横にならんだ時に気がついた。あたしの頭、美空の肘までしか届かない・・・・。母さんが買ってくれた、このオフホワイトの綿のパジャマ。中学校に上がったときに、どうせすぐに背が伸びて着れなくなるからと、大き目のパジャマを買ってきてくれた。だが、未だに捲り上げた袖と裾をおろすことが出来ずにいる。これは無視したほうがいい現実なのだろうか。今のところは気にせずに、今出来る女磨きに努めるべきだろうか。うん。そうだ。そのほうがいい。現実から目をそむけるわけじゃない。嘆いて、悲観したところで背が伸びるわけじゃなし。ともかくは、ボーカリストになって、ロリやちっぱいとかいうカテゴリーからの脱出が急務である。
桜が、ドライヤーを片づけていると、父親が帰ってきた。ただいまの声とともに、父親の足音が洗面所の扉の前を横切っていく。
チャンスだ。父さんはときどき母さんにだけ、事件の詳細を語ることがある。気づかれないように盗み聞きだ。蛍坂市連続暴行殺人事件の続報が聞けるかもしれない。
桜は、音をたてないように洗面所の扉をあけると、リビングの入り口にある観葉植物の影にしゃがんで身を潜めた。ジャニスがどこからかすり寄ってきて、桜の膝に頭をこすりつける。口に指をあて、しーっジャニスちゃんと小声で言って頭をなでる。
「咲子。役所が仕入れたワクチンが、盗まれたといったような話を聞いたことあるか?」
 はじまった。はじまった。桜の口の端があがる。
「ないわよう。そんな話。なんなの?やぶからぼうに」
「ちょっとデリケートな話だからまだプレスリリースしてないんだけどたいへんな事件が起きちまった」
 デリケート?たいへんな事件?いったい何、何があったの?佐橋刑事。桜はパラボラアンテナよろしく耳の後ろで手のひらを大きく開き、父佐橋刑事の話に耳をそばだてた。

無茶苦茶だ―おれの筋書きにはこんな話はなかったはずだ。スタジオの休憩室で修は頭を抱えていた。
今日のスタジオ練習のときに、桜が急に現れて練習に乱入してきた。センターマイクで歌おうとする桜を、美空がひょいと持ち上げてドラムセットに座らせた。美空が適当に指導すると、桜はそれなりにドラムを叩くことができた。あたしは歌いたいと主張する桜に、美空は「だったら叩きながら歌えばいい。前に出て歌いたいときはオレのギター弾いて歌えばいい。おれがドラム叩くし」と勝手に話をまとめやがった。桜はドラムが思いのほか楽しかったのか、この休憩に至るまでの一時間でそこそこ自分のものにした。しまいには三人で、サビのメロディーをハモれるようになってしまった。
これでいいのだろうか―おれがイメージしていたのはレッチリや、ジミヘンみたいな本格的なロックバンドなのに・・・・。しかも、すでに、おれを出し抜いて桜は今、メンバー気取りで美空とバンド名をあれやこれやと考えている。信じられない。このマイペースさ。こいつは子どもの頃から察しがいい。察しがいいというのは、すなわち先読みが早く、深いということとイコールだ。だから昔からいつもおれの一歩先を行く。これは才能なのか・・・・。おれがベース弾きながらコーラス入れるのに四苦八苦しているのに、桜は楽しそうにスティック振り回しながら笑顔で歌っていた。美空もマイペースで一歩先を行く傾向にある。このまま行くとバンド結成の発起人である、おれのイニシアチブがまったくなくなっちまう・・・・。
桜が腕組みをほどくと、思いついたバンド名を口にした。
「鶯丘ガールズ!」
 ガールはお前ひとりだけだ。
「鶯丘公園駅!」美空が重ねる。美空、それは単なる駅名だ。バンド名を考えろ。
 はーい!と桜が手をあげる。
「鶯丘市立図書館!」
 バカかおまえは。だめだ。ふたりとも思いついたことを言ってるだけだ。
 はーい!と次は美空。
「鶯嬢!」
 嘘だろう?それ野球場のアナウンサーだ。ぜったいにわざとだ。
 我慢できずに、修は両手をあげて話に割って入った。
「ちょっと待て。ちょっと待てふたりとも。ベンド名にはテーマが必要だ。思いつきでつけるもんじゃない。とりあえず鶯丘から離れろ」
 はーい!とまた美空。
「蛍坂農協」
 地理的に離れろと言ったんじゃない。
 はーい!と桜。
「焼き肉がんこちゃん。蛍坂店」
 それは屋号だ桜。美空が、体を折って腹を抱えて吹き出す。
「ちょっとふたりとも!真面目にやれ!バンド名だぞ!桜」また両手をあげてブレイクをかけるしかない。
「やっぱり横文字。英語のバンド名が王道だろう」
「たとえばどんな?」桜が腕をくんでふんぞり返る。生意気だ。
「たとえばだな・・・・モラルブレイカーズ・・とか?」言った途端になぜか恥ずかしくなった。
「あーりがちいー」ふたりが声をそろえる。
「じゃあなんだよ。お前らも言ってみろよ」
 はーい!と美空。
「マルシンハンバーガーズ!」
 たしかに横文字にはなるけど。
 反応を待たずに桜が「肉のハナマサファイターズ!」
「マクドナルズ」
 おい、今度は肉から離れろ。
「ドナルド」と桜。
「ドナルドナルド」と、桜が連投。
「ちょっと待て!待て!やめれ!」
「ドナルドナルド。いいじゃん」美空が桜にむかって拍手する。桜は自慢げに鼻のしたを指でこする。
「美空!美空!よくない。よくない。ぜっんぜんっよくないよ。美空くん」
 どうやったら方向修正できるんだろう・・・・
「そうか?斬新じゃねえか。サービスにその下に博太郎とつけてもいい。ドナルドナルド博太郎ズ」
そのサービスの意味がわからない。ぶっはは、と桜がふいた。「それヤバい!ドナルドナルド博太郎ズ。最近飛んでるもんねえ。本田博太郎」
 そんなもん、刑事ドラマ好きにしかわからねえだろう。
 ふたりとも、ちょっと待ってくれ。そう言って修は腕をくんで目をつむった。
「突撃!男心ーズ」美空がぼそっと言う。
「それなんかきもい!っつーか突撃いる?」
 ふたりしてクスクス笑う。パイプ椅子がきしむ音がする。体揺らして笑っていやがる。
「おい!」
 目を閉じたまま、低い声色だけで咎めてやった。
 そもそも。そもそもだ。桜が今ここにいるのは、今日の行きがかり上の話で正式にメンバーとして認めたわけではない。蛍坂高校の鈴本くん加入の話はまだ消えていないから、今後どうなるかはわからない。話を急がず様子を見たほうがいい。ともかくは、このふたりの今のテンションを落ち着かせる必要がある。そしてともかくは、バンド名を決めるのは先延ばしだ。そしてともかくは、この話を終わらせよう。
 しかし、修が目をあけて口を開こうとしたときに。桜がチャンネルをかえるように、さらりと話題を変えた。その話が重かっただけに場は一瞬にして固まった。
「あっ、そうそう。蛍坂の暴行殺人事件の犯人なんだけど、めちゃくちゃ強いんだって。なんと凶器を使用せずに犯行を実行したと」
 美空は口をあんぐりと開けて聞いている。
「おまえ、また盗み聞きしたろ」
 修が見咎めると桜は、小さく舌をだした。
「家で聞いても外で話すなよ」修は顔をしかめて桜を睨む。
 桜は首をのばして、周囲に耳がないか確認した。
「お兄ちゃんと美空に話すぐらいいいじゃない」と肩をすくめる。
「まあ。美空は軽々しく他の奴に話すような奴じゃないから、まあいいけど」美空に釘をさしたつもりだ。
「でね」桜が声をひそめる。そしてまた周囲を見回し他に人がいないのを確認すると話し出した。修も美空も思わず桜のほうへと乗り出す。
「あのね。また起きたんだって。同じ手口の暴行傷害事件が。しかも被害者は9人。うち3人は中学二年生だって。現場は、神奈川県みたい。一昨日の話だけど、まだ被害者の詳細は報道されてないでしょ?報道できない何か理由があるみたいなの。それは言ってくれなかったけど・・・・父さんたちにもまだ知らせることができない、特別な事情があるような口ぶりだった」
「今後の連続性も考えられるな」修は腕組みをして言った。
「でもよう。おっかねえな、その犯人。ひとりでそんだけの人数をやっちゃったの?」
「美空ちゃん違う違う。あんな犯行ひとりではできないよ。父さん曰く、同じ手口で暴行をはたらく複数犯によるものだって。この二つの事件は一グループの同一犯と考えて捜査するって。で、事件の類似性として被害者は数人のグループでいるところを襲われている。だから、犯行の現場となった蛍坂市と神奈川県には、夜間に人目につかない場所で集まらないようにと地域全体に呼びかけて、深夜帯のパトロールを強化していくと」
「おれたちも気を付けないとなあ」修はパイプ椅子の背もたれに深くもたれて天井を見あげた。古い蛍光灯のまわりを蛾が二匹飛んでいる。
「っつーかさ。桜ちゃんもいることだしスタジオ変えねえか?それか昼にスタジオ練習して、夜に修の家で空音で練習するとか。やっぱ物騒だよこのまま蛍坂では」
「うん。そうしよう。美空の案で行こう。あと、鶯丘市民センターに音楽練習室があって、ドラムやアンプも置いてるらしいんだ。ここほど本格的じゃないだろうけど、そこも当たってみよう」
 ここで修は重要なことに気がついた。さっきの美空の話しぶりは、今後のバンド活動に桜が参加することが前提になっている。
「っつーかさ。桜もこれからやるの?ドラムと唄」一応きいてみた。
「もちろん!よろしくお願いします!師匠」
 桜は修ではなく、美空に言った。むかつく。
 美空は、ちょっとバツの悪そうな苦笑いを浮かべて、修をみた。きっとご機嫌をうかがっているのだろう。修は渋面のままうなづいた。勝手にしろ。
「じゃあ三人でバンド名考えないとな」
 美空、それはまだ先でいい。
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