第3章 ローマのユダヤ人

文字数 2,968文字

3 ローマのユダヤ人
 当時のユダヤ属州は分裂し、混迷を極めている。何が起きてもおかしくないという状態である。

 バビロン捕囚が終わった後も、ペルシア帝国領内にとどまるユダヤ人も少なくなく、また、エジプトや小アジアなど各地にユダヤ・コミュニティが形成されている。彼ら、すなわちディアスポラ・ユダヤ人はヘレニズム文化と出会うことになる。この異国のユダヤ人たちはヘブライ語を解さないものも多く、アレキサンドリアで、ギリシア語訳聖書『セプトゥアキンタ』が編纂されている。ギリシア語は、当時、地中海世界で広く使われていたため、ユダヤの聖典に初めて接した異教徒の中からユダヤ教への改宗者が続出する。反面、ユダヤ教は高度に発達した体系的な自然哲学に触れ、急速に洗練されて、抽象的な思想へと展開していく。

 けれども、こうしたユダヤ教のヘレニズム的概念による説明は、次第に、ユダヤ教のアイデンティティを危うくする。セレウコス朝シリアとの抗争も、元々は、ヘレニズムとヘブライズムの対立が一因である。紀元1世紀前半、アレキサンドリアのフィロンはユダヤ教をプラトン哲学によって再構築しようとし、「神はロゴスによって世界を創り、ロゴスをもって姿を現わし、ロゴスをもって人と交わる」と唱えている。この説はあまりにヘレニズム的であり、一般のユダヤ学者には受け入れられるものではない。その後、ローマ帝国による弾圧のため、アレキサンドリアのユダヤ・コミュニティは事実上消滅したが、フィロンの意見が『ヨハネによる福音書』の冒頭部分に影響を与えたように、ヘレニズム的ユダヤ教はキリスト教に引き継がれていくこととなる。

 こうしたユダヤ社会の多様化は内部での厳しい対立を招いている。紀元1世紀頃、神殿が破壊される前のエルサレムでは、フラウィウス・ヨセフスの『ユダヤ戦記』によれば、サドカイ派とパリサイ派、エッセネ派の三大勢力が争っている。特に、サドカイ派とパリサイ派はユダヤ・コミュニティの自治機関であるサンへドリンを支配し、お互いに一歩も譲らない。これは大祭司を長とする70人から構成され、議会であると同時に、最高法院廷の機能も果たしている。特徴的な点としては、満場一致の議決は無効とされることがあげられる。背景や利害が異なっている人が集まっているのに、全会一致となったとすれば、一時的な感情に流されたか、裏でグルになっているかのいずれかだと考えられるからである。この原則が破られたことが一度だけある。それはあのナザレの男を査問したときである。

 サドカイ派の支持者は支配者階級と結びついた神殿貴族や富裕商人である。彼らは神殿での犠牲祭儀を重視し、書かれた法、すなわちトーラーにのみ規範の根拠を認める。魂の不死や肉体の復活を律法にその記述が見たらないという理由で斥けているように、現世肯定主義であり、社会秩序に関しては現状維持を望み、ローマとの関係は妥協やむなしという保守派である。一般民衆からの評判は芳しくない。

 一方、パリサイ派は、時代の変化を考慮し、トーラーのみならず、口伝律法にも権威を容認する。律法を柔軟に解釈し、ユダヤ教を新しい社会に適応させることを志向する。パリサイ派は、後にイエスから激しく批判されたため、律法を金科玉条にする教条主義者あるいは排他的で狭量な形式主義者と見なされることもある。だが、実際には、イエスの教えに近い。また、神殿だけでなく、シナゴーグを重要視している。ラビはトーラーの解釈者であると同時に教師であり、シナゴーグはその律法を教育する場所である。こうしたパリサイ派は一般民衆から秘録支持されている。

 ただし、両者共その出自がハスィディームであり、ヘブライズムの純化運動である点は共通している。パリサイ派の拡大解釈路線は、硬直した態度をとり続ければ、時代遅れあるいは社会の実態に適合しないとして律法全体が無視され、異教的な教えにユダヤ教が乗っ取られてしまうことへの防御策にほかならない。実際、彼らは呪術や瞑想、神秘主義体験などをヘブライズム的ではないとして排除している。

 第三の勢力エッセネ派は熱狂的なメシア待望論者である。彼らは光と闇、生と死、善と悪、正義と不正などの二項対立が激化していき、その果てにメシアが到来し、光の側に勝利をもたらすという終末観を信じている。僧院を築き、それを本部としたネットワークを形成し、伝統的なユダヤ社会とは一線を画す。彼らは自分たちこそ神との新しい契約、すなわち新約を結んでいるという強烈なエリート意識を抱き、それ以外の宗派を旧約の徒と批判している。

 『わが子キリスト』では、エッセネ派に関する記述はない。その代わりに、顧問官の暗殺を企てる熱心党の言及がある。このグループも、エッセネ派同様、メシア待望論者の一種であり、宗教的熱心さから民族独立を志向するセクトである。ゼーロータイと呼ばれる彼らは目的のためには手段を選ばず、テロリズムさえ辞さない。メシア主義を標榜する無数のセクトやコミュニティがあったが、その構成員は、概して、少数にとどまっている。メシア待望論者の中で有力という点では、エッセネ派の方が上であり、三派対立として当時のエルサレムを捉える場合、エッセネ派を代表格とすることは妥当である。

 メシアは、元々は、宗教的預言者に限定されておらず、サウルやダビデ、ソロモンといった世俗的な政治権力者もそう呼ばれている。当初、メシアはダビデの家系に限定されていたが、キュロスがメシアと扱われているように、その資格は拡大されていく。終末論や救済願望といった黙示思想が盛んなのは、紀元前2世紀から紀元後2世紀にかけてであり、ユダヤ教徒がセレウコス朝シリア及びローマによる過酷な圧政下に置かれている時期と重なる。

 このメシア信仰と深く結びついているのが「復活」である。のうのうと悪人がのさばっている反面、善人が彼らに殺されていく。『ダニエル書』はこの不条理さに対して「復活による神の裁き」を提起する。神はすべてのものを復活させて、裁きを下す。その際、よき人は永遠の生命を与えられる。

 夜の幻をなお見ていると、
 見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り
 「日の老いたる者」の前に来て、そのもとに進み
 権威、威光、王権を受けた。
 諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え
 彼の支配はとこしえに続き
 その統治は滅びることがない。
(7章13~14節)

彼はいと高き方に敵対して語り
いと高き方の聖者らを悩ます。
彼は時と法を変えようとたくらむ。
聖者らは彼の手に渡され
一時期、二時期、半時期がたつ。
やがて裁きの座が開かれ
彼はその権威を奪われ
滅ぼされ、絶やされて終わる。
天下の全王国の王権、権威、支配の力は
いと高き方の聖なる民に与えられ
その国はとこしえに続き
支配者はすべて、彼らに仕え、彼らに従う。
(7章25~27節)

 結局、この三派対立は、神殿の破戒によるユダヤ人の離散と共に、終わりを迎える。彼らの間でパリサイ派のユダヤ教が受け入れられ、サドカイ派は消滅する。また、エッセネ派などのメシア待望論セクトはローマに対するユダヤの抵抗運動に加わり、壊滅している。現在にまでつながっているユダヤ教はこのパリサイ派の流れをくむものである。
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