第6章 イエス復活作戦

文字数 4,860文字

6 イエス復活作戦
 キリスト教を他のセム系の一神教と分かつのは、イエスの復活である。正教会は、最近まで、クリスマスではなく、復活祭の方を盛大に祝っている。福音書によれば、イエスはまさに死んだと思われた三日後に復活している。出エジプトを率いたモーセも、イスラムの預言者ムハンマドも復活してはいない。

 泰淳は、この作品で、イエスをキリストにするのが復活の奇蹟だというキリスト教の核心を見抜いている。数多くのイエスをめぐる独自の聖書解釈に則った作品が創作されているが、キリスト教の本質が復活にかかわっているという点を認識しているものは必ずしも多くない。

 ダン・ブラウンは、『ダ・ヴィンチ・コード』において、イエスにはマグダラのマリアとの間に子供がいたという説を重要視している。カトリック教会がその後継者問題を隠蔽してきたと物語っている。しかし、キリスト教のメシアは、処女懐妊や神の子が象徴しているように、血縁幻想から無縁である。

 また、イエスの神性=人性の論争──「イエスは神なのか、それとも人間なのか」──も後継者問題と無縁ではないとされている。確かに、それは八度の亘る公会議における中心的議題であり、そこから単性論や両性論、単意論、三位一体が生まれている。公会議はコンセンサスではなく、多数決を意思決定の原理として採用し、正統=異端を争う場である。しかし、カトリック教会や東方正教会に敗れて追放された単性論は東方教会として、オリエント世界を見る限り、影響力は正統派以上である。政治的勝利が宗教的勝利に結びつくとは限らない。このように、後継者はキリスト教において本質的な問題ではなく、このベストセラーはイエスを口実としたミステリーにすぎない。

 日本の文学においても、事情は同様である。太宰治は、ユダの悪が強ければ強いほど、イエスの善が光るという主旨の『駆け込み訴え』を書いている。しかし、この解釈はキリスト教と言うよりも、ゾロアスター教的である。「反キリスト」を自称するフリードリヒ・ニーチェがゾロアスター(ツァラトゥストラ)の口を借りて、善悪の彼岸や永遠回帰を語った意味をまったく理解していない。

 キリスト教の核心に迫った作品の執筆には、ユダヤ教=キリスト教=イスラム教のセム系一神教とその諸宗派に関する理解もさることながら、ゾロアスター教などのオリエントの諸宗教についての知識も要求される。

 武田泰淳がこのようなキリスト教の本質を把握しえていたのは、おそらく彼が僧侶だったからだろう。彼は仏教を自らの内面性の危機を救済するために選んだわけではない。本郷の檀家300軒を抱えた湖泉寺の住職の次男として生まれた彼は、宗教を組織として捉えている。キリスト教に限らず、数多くの宗教的作品が書かれてきたが、それらは「信仰」についてとり扱われていても、「宗教」とはあまり関係がない。

 武田泰淳は、『私の中の地獄』において、宗教が語る地獄だけでなく、その宗教自身が堕ちている地獄があると次のように述べている。

 地獄を知りつくすことはできない。地獄の地獄性は、それほどかぎりないものである。ここまでが地獄、これが地獄の本質と、簡単にとり出して見せることができるくらいなら、これは「地獄」とは言えない。宗教が解説する地獄ばかりではない。宗教そのものまでが落ちこんでいる地獄がある。

 宗教は、信者の内面ではともかく、現実的には組織として運営されているのであり、信仰の問題だけに限定されない。この世を超越している教義を持っていたとしても、その宗教が組織体としてあるならば、社会的・時代的条件の下にある。

 大江健三郎は、「性的人間」との対比によって、「政治的人間」を捉えている。性的人間は他者との対立を避けて同化し、絶対者とも同一化しようとする。一方、政治的人間は他者に対立し、その関係の中に生き、絶対者を拒否する。その上で、大江は政治を性の比喩をオ用いて語る。しかし、大江は組織の問題に十分に意識が届いていない。

 イエスを復活させられるのは、もはや「おれ」しかいない。最高顧問間も、ユダも、それを託して、この世から去っている。

 おれが誰の命令によってそんなばかばかしい「実行」をやっているのか。誰にもわかるはずはあるまい。最高顧問官殿どのか、裏切者ユダか,母マリアか,それともお前の意志がそうさせたのか,そんなこと判明したところで何の意味もありやしなかった。

 政治的陰謀は、概して、思わぬ方向に進むものである。さまざまな人たちの思惑と偶然の出来事が重なり、「おれ」がイエスをメシアへとしたところで、顧問官やユダの計画通りにならないことは明白である。けれども、マリアは「おれ」に向かって「あなたのなさろうとしていることは、神様もなさろうとしていなさる」と言っているが、何ものかに促せられるように、「おれ」はイエスをキリストにするために動く。それが「おれ」の「役目」であるからだ。「おれ」も政治的人間、すなわち「無かった人間」となることに同意する。「おれ」にはイエスをメシアへと仕立て上げることが自分のアイデンティティとさえなっている。なるほど、それは手段を目的化する店頭である。しかし、「おれ」だけではない。すべてのアイデンティティがイエスをキリストとすることで確認される。

 イエスを十字架にかけるのは、ローマ皇帝ではなく、総督ポンティウス・ピラトゥスでも、パリサイ派でも、サドカイ派でもなく、「神」であると「おれ」は考えている。「『神』と呼ばれるお前の『父親』が、お前を苦痛と死と栄光の高みへ連れ去るのを、もう一人の父親たるおれは、うつろに、うろたえながら、また他人ごとのごとく見守っていたのだった」。イエスには二人の父がいる。一人の父が彼を殺し、もう一人の父が復活させる。霊の父が彼を殺し、肉の父が復活させる。現世において、子は父殺しを行って、王となる。「おれ」によるイエスの復活は、確かに、父殺しの神話や伝統に対する一大転倒劇である。

 「おれ」にはイエスがキリストでないことはわかっている。しかし、復活をやり遂げなければならない。駐ユダヤ属州ローマ軍の士官クラスであれば、イエスの遺体を安置した場所へも自由に入れる。しかも、その人物がよく似たイエスの父であるなら、彼が釘の傷痕をつけ、イエスのふりをして姿を見せれば、イエスが復活したと信者たちが思っても無理はない。これが泰淳による復活の真相である。

 イエスよ、かくしてお前は復活した。そして神の子イエス・キリストとなられた。誰がそれを疑うことができようか。

 イエスは復活することでキリストとなる。復活は奇蹟である。しかし、その復活さえも、実は、世界の内部に属している。武田泰淳は「キリスト」を否定しているのではない。復活はイエス自身だけでなく、時代的・社会的状況に加えて、最高顧問官や「おれ」、ユダ、マリア、ヨセフなどの思惑、偶発的な事件が絡み合い、それらを内包する世界の生成である。イエスはキリストとしてあったのではない。キリストにならしめられる。

 『わが子キリスト』は、ゴルゴダの丘へと十字架を背負って歩みを進めるイエスを見つめる「おれ」の独白から始まる。なぜイエスがこうなってしまったのかという必然性を遡って語る「ロマンス」であるかのように書き出されている。ロマンスはある出来事が起きるまでの物語である。始まりに終わりが提示され、そこに到達する目的で物語が展開される。終わり=目的の円環構造を有し、すべての要素はその必然性に奉仕しており、無駄・曖昧・剰余さは一切排除される。そのため、ノースロップ・フライの『批評の解剖』によると、「ロマンスは、あらゆる文学の形式の中で願望充足の夢にいちばん近いもの」である。登場人物たちは等身大と言うよりも、いささか超人的であることが多く、同時に、精神的に未熟で、作者の操り人形という印象がぬぐいきれない。しかし、『わが子キリスト』はイエスの刑死で終わらない。その復活の真相が開かされて幕を閉じる。この小説はロマンスを破綻させている。

 さらに、武田泰淳は、注意深く、個々の出来事自体を記述することを避けている。イエスがゴルゴだの丘へと向かう道すがらを記しながら、刑死の瞬間を飛ばし、その後を物語る。通常、ドラマはあるきっかけによって出来事が生じ、発展してピークを迎え、静まっていく起伏の過程を有している。けれども、泰淳はそのピークに触れず、迂回する。それにより、作品は目的論的構造を持ち得ず、「願望充足の夢」から遠く離れてしまう。

 この作品の政治的人間たちは歴史劇の中の「役目」を理解し、それを演じきろうとする。ところが、それは自分たちが望む物語の中の居場所ではない。登場人物たちがイエスをキリストとしたとしても、結局、歴史から見れば、彼らの願望は充足されていない。しかし、だからこそ、彼らは「無かった人間」たり得る。政治的人間の「役目」とはそういうものである。『わが子キリスト』はその一つの記録にほかならない。
〈了〉
参照文献
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武田泰淳、『わが子キリスト』、講談社文芸文庫、2005年
『武田泰淳全集』全二一巻、筑摩書房、1971~80年
『日本の文学67』、中央公論社、1967年
『日本文学全集79』、集英社、1978年
『日本文学全集69』、河出書房新社、1969年
『現代の文学2』、講談社、1974年
『筑摩現代文学大系67』、筑摩書房、1975年
『昭和文学全集15』、小学館、1987年
『ちくま日本文学全集42』、筑摩書房、1992年

大江健三郎、『性的人間』、新潮文庫、1968年
小栗康平、『映画を見る眼』、日本放送出版協会、2005年
小滝透、『神の世界史 ユダヤ教』、河出書房新社、1998年
同、『神の世界史 キリスト教』、河出書房新社、1998年
同、『神の世界史 イスラム教』、河出書房新社、1998年
柄谷行人、『反文学論』、冬樹社、1979年
同、『マルクスその可能性の中心』、講談社文庫、1985年
同、『批評とポスト・モダン』、福武文庫、1989年
同、『終焉をめぐって』、福武書店、1990年
高橋正男、『死海文書』、講談社選書メチエ、1998年
高橋正男、『物語イスラエルの歴史』、中公新書、2008年
太宰治、『走れメロス』、新潮文庫、1967年
藤原帰一、『国際政治』、放送大学教育振興会、2007年
前田耕作、『宗祖ゾロアスター』、ちくま新書、1997年
村川堅太郎他、『ギリシア・ローマの盛衰』、講談社学術文庫。1993年
チャーレス・スズラックマン、『ユダヤ教』、中道久純訳、現代書館、2006年
フリードリヒ・ニーチェ、『 ツァラトゥストラはこう言った』上下、氷上英広訳、岩波文庫、1967~70年
ノースロップ・フライ、『批評の解剖』、 海老根宏他訳、法政大学出版局、1980年
ダン・ブラウン、『ダ・ヴィンチ・コード』上下、越前敏弥訳、角川文庫、2006年
ジークムント・フロイト、『モーセと一神教』、渡辺哲夫訳、ちくま学芸文庫、2003年
共同訳聖書実行委員会、『聖書 新共同訳』、日本聖書協会、1987年
『コーラン』上中下、井筒敏彦訳、岩波文庫、1957~64年

西オーストラリア州パースの旅と暮らし PetitCommerce、「アボリジニー オーストラリア先住諸民族について」
http://members.westnet.com.au/petitcommerce/aborigine.htm
DVD『パッション』、東宝、2004年
DVD『裸足の1500マイル』、アット エンターテインメント、2005年
DVD『エンカルタ総合大百科2006』、マイクロソフト社、2006年
DVD『NHKスペシャル こうしてベルリンの壁は崩壊した ヨーロッパピクニック計画』、NHKエンタープライズ、2009年
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