〇4章

文字数 10,226文字

夢見が悪くて眠った気になれなかった俺は、
朝になってからもう一度寝ようと布団をかぶる。
だが、今度は別の事情で眠れなくなった。

さっきから男の声や階段を何度も上り下りする音、
ドタドタ足音が聞こえて眠れやしねぇ。
もしかして引っ越しか?
俺の部屋の隣は、ちょうど先月前の住民が出て行った。
その入れ替わりで新しい隣人が入ってくるのかもしれない。

「うるせぇ……」

ここに越してきたとき、特に挨拶はしなかったし、
後から引っ越してきた他の住民も挨拶に来ない。
そういうところだから、隣と顔を合わせることもないんだろうけど、
これだけドタバタされるのは迷惑だ。
ともかく寝ることに集中しよう。
そうして俺は、なんとか眠りについた。

夕方――。
ピンポン、と珍しくインターフォン鳴る。
郵便か、宅配便か?
だが、特に何か届く予定はない。
だったら太陽?
それもどうだろう。かなり厳しいこと言っちまったからなぁ。
とりあえずのぞき穴からのぞいてみる。
外にいたのは、かわいらしい女の子だった。
え!? 何この展開。
……期待してもいいのか?
俺は静かに扉を開ける。

「……はい」
「あ、すみませんっ! 隣に引っ越した月城といいます。
ご迷惑おかけしたお詫びと、ご挨拶に来たんですが……」

キタコレ。
小さくてかわいいけど、多分俺よりちょっと年上。
女子大生だろうか。
ずいぶん中途半端な時期の引っ越しだけど、関係ない。
かわいいは正義だ。
図体がデカい俺を見ても、終始笑顔。
俺を怖がらない女の子も珍しい。

「これ、つまらないものですが……」

持ってきたのは洗剤だった。
挨拶の手土産にはちょうどいい。
それにどんなものでもよかった。
こんなかわいい女の子とお話しができるだけで、
俺は……っ!

「ありがとうございます、わざわざ……」
「あの、お名前を聞いてもいいですか?」
「俺っすか? 柊虎太郎ッス」
「実は他のお部屋にもご挨拶に行ったんですけど、誰も出なくて……」
「ああ、ここのアパートはそういうとこなんスよ」
「主婦の方がいらしたら、スーパーとかこの辺のお店を
教えていただきたかったんですけど……」

もしかして、これはチャンス?
お誘いしたら、ついてきてくれるかもしれない。
……よし。
最近ツイてなかったけど、やっと俺にも運が向いてきたようだ。

「月城さん、よかったら俺が案内しましょうか?」
「えっ……」

やっぱりダメか?
下心見え見えだっただろうか。
こういう小動物系の彼女が欲しかったから、
絶好のチャンスだと思ったんだが。
ドキドキしながら月城さんの反応を見ていると、
大きくうなずいた。

「いいんですか? だったらお願いします!
よかったぁ~……お隣さんがいい人で」

にこっと花が咲くように笑った。
これは反則すぎる。
そんな笑顔を向けられたら、簡単に落ちちまうって。
しかも俺が『いい人』って。
好感触じゃねぇか?

「じゃ、ちょっと用意してきますね!
できたらアパートのエントランスにいます!」

月城さんは隣の部屋へと戻る。
や、やった! 女の子とデートっ!
学校はサボりがちだから出会いなんてねーし、
そもそも不良だとか図体がデカくて怖いとか言って
近寄ってこねーし。
それなのに、あんなふわふわしたうさぎみたいな
女の子と一緒に出かけられるなんて……!

やべぇ、顔がにやける。
とりあえず急いで着替えて、
お気に入りのシルバーアクセサリーをつけると、
財布を尻ポケットにいれてエントランスに向かった。

「お待たせしちゃったかしら? ごめんなさい」
「い、いえ! 全然。俺も今来たところっすから!」

……月城さん、すげぇいい香りするんだけど。
こ、これは幸せすぎるっ!

「それじゃお願いします。柊さん」
「お、俺のことは虎太郎でいいッスよ。周りもみんなそう呼んでますし!」
「虎太郎くんは高校生? だったら『こたくん』でもいいかな?」
「は、はいっ!」

く~っ! 『こたくん』か。
なんて甘い響きなんだ!
あのクソ鳥星に呼ばれるのとは大違いだ。
同じ発音なのにまったく異なるニュアンスじゃねーか!

「最初はスーパーに行きましょうか」
「ええ」

俺は彼女を連れて、アパートから一番近いスーパーへ向かう。

「ここのスーパーは量も多いし、質もなかなかなんスよ。
輸入菓子も売ってるし、たまに俺も珍しいのが入荷してると買っちまって……」

「そうなの? あ、この板チョコも輸入品なのね。
え……レーズンとナッツが入って1枚1600カロリー!?」

「まぁ、海外の菓子なんてそんなもんッスよ」

月城さんは夕飯の買い物もついでにしたいからと言って、
カゴに野菜や肉を入れる。
女の子と買い物……これはもう、デートといっても過言ではないだろう!
明日の朝用にと食パンもカゴに入れて会計が済むと、
今度はクリーニング店と郵便局、銀行に案内する。
アパートに帰ってきた頃には、すっかり夜になってしまった。

「今日はありがとう、こたくん。それでね……」
「なんスか?」
「せっかくだし、今日のお礼に夕飯をごちそうしたいんだけど……
あとで持ってきてもいいかしら?」

彼女、天使か……!?
いや、女神だ!!
もう何この展開!
これ、月城さんも少しは俺に気があるんじゃね!?
女の子の手作り料理が食えるとか……今日はラッキーすぎる。
嫌な夢を見たり、引っ越しの音がうるさかったりしたが、
そんなことは全部帳消しになるくらいに俺は幸せだった。

「も、もちろんッス! 月城さんの手料理、食べてみたいですし……」

「ふふっ、大したものではないけど、そう言ってもらえるのは嬉しいわ。
それじゃ、できたら持ってくるわね」

部屋に入ると、俺は小躍りしながら部屋を掃除する。
服はクローゼットに押し込んで、雑誌はベッドの下へ。
毛布を敷きなおして、テーブルを拭く。……完璧。
元から汚い部屋はあんまり好きじゃなかったから
片すのには時間はかからなかったが、
これで月城さんをお招きしても大丈夫だっ!

彼女が来るまでテレビをつけて時間を潰す。
今の時間はニュースくらいしかやってないな。

『次のニュースです。××県〇〇市で、男性の死体が発見されました。
犯行に及んだのは、四方山優香容疑者、二十歳。
四方山容疑者は金目当てで男に近寄った、ひとり暮らしで友達もいなかったから
狙いやすかった、と……』

二十歳の女が、ひとり暮らしで友達もいない男に近寄って、殺しただって?
……は、はは。まさかな!
まさか月城さんがそんなことするわけない。
この四方山ってやつはもう捕まってるわけだし、彼女は無関係だ。
それに俺は金なんかない、ただの高校生。
……でも、初対面の男に警戒心0だよな、彼女。
そういう性格なのか?
それとも俺を何かの罠にかけようと近づいて……。

ピンポン、とインターフォンが鳴った瞬間、
俺はびくりとした。
月城さんだ。
手には鍋を持っている。

「こたくん、すき焼きを持ってきたの。
口に合うかわからないけど……」
「今開けますっ!」

鍋を持ってきた彼女は、靴を脱ぐと俺の部屋へ入った。
無防備すぎる。
相手が俺だったからいいけど、もしヤバいやつだったら、
このまま何かされるかもしれねぇっていうのに。
やっぱり彼女、何か企んでるのか!?

「ここに置いていくわね。今日は本当にありがとう。
では、おやすみなさい」

「え……?」

鍋をテーブルに置くと、彼女は特に何もせず
部屋から出て行ってしまった。

え。
えぇっ!?

鍋持ってきたんなら、一緒にここで食べるんじゃねーの!?
っていうか、ごちそうしたいって料理を置いてくだけ!?
俺が勝手に勘違いしてたってことかよ……。
そのことに気づくと、俺は顔が熱くなった。
恥ずかしすぎるだろ、俺!
期待しまくって部屋まで掃除したのに!!
……でもこれでわかったな。
彼女、無防備なだけでさっきの殺人犯みたいな
悪い女ではないってことが。
ま、男を勘違いさせてるところは確かに悪い女ではあるかも
しれないけど。
しょうがない。それでも女の子の手作り料理を食べられることには
変わりないんだから、
ありがたくいただくことにしよう。

「いただきます」

すき焼きを皿によそって、箸で口に運ぶ。
……う。

「げ、げほっ、げほっ!!」

なんだ、この味!!
すき焼きなのに、辛いぞ!?
あとからくるたれの味ではない変な甘さも混ざって、
正直言ってクソまずい。

「やっぱり今日はツイてないのか……?」

彼女は鍋ごと持ってきた。
この鍋の中身を全部食べなきゃいけないってことだよな。
食べ物を捨てるわけにはいかないし……。

最悪だ。

俺はやけになって鍋から直にすき焼きを取る。
味をできるだけ気にしないように、水で流し込みながら
なんとか完食したが、
そのあと胃腸薬のお世話になった。

「うえ……まだ口の中が気持ち悪ぃ」

何度も歯を磨いたりお茶を飲んだりしても、
あの強烈なすき焼きの風味はまだ口内に残っていた。
こうなったら横になって、寝てしまうしかない。
ベッドへ向かおうとしたとき、またインターフォンが鳴る。
……月城さん、何か忘れものでもしたのか?

「はい」
「ごめんね、こたくん。さっき渡すの忘れてたんだけど……」

月城さんが持ってきたのは、
こげ茶で封蝋印が押された不気味な封筒だった。

「なんですか、これ」

「こたくん宛に来ていたみたいなんだけど、
どうやら間違ってうちのポストに入ってたの。
ポストを見るのが遅くなったから気づかなくて。
私も早くポストを開けて、確認しておけばよかったのに……」

そうか。
うちのアパートの作りはちょっと厄介なんだった。
普通だと左から201号室、202号室と並んでいるはずなんだが、
うちの場合は逆。
右から201号室となっている。
その上紛らわしいことに表札のところに何号室かも書いてない。

封筒の消印を見ると、どうやら9月の上旬に来たものらしい。
……誰からだ?
こんな封蝋なんてモンを使う知人なんていねえし、
そもそも手紙をやり取りしている相手もいない。

「ごめんなさいね、夜遅くにお邪魔しちゃって」
「いえ、わざわざありがとうございました」
「お鍋を返すのはいつでもいいから。じゃあね」

月城さんが部屋に戻ると、俺はさっそく封筒を開けて
中身を取り出す。
入っていたのは……。

「なっ!? またこのカード!?」

鳥星が俺に押し付ける例の不気味なカードだった。
でも、おかしくないか?
鳥星と出会ったのはつい最近だぞ。
それなのにこのカードは9月に、しかもアパートに送られてきている。
消印を見ればわかる。

一体何が起こってるんだ……?

俺は鍵とカードを持つと、デ・コードへ走った。

店はシャッターが閉まっている。
18:00に一応閉店だったな。
だけどこの間は夜中に客が来ていた。
今日だってその可能性があるかもしれない。
またコンビニで監視しているか?
どうしようかと迷っていると、ふっと首に息がかかった。

「くっ! 鳥星!?」
「あったり~! なーに? また監視しようとでも思ってたの?
それとも勝負に来た?」
「あのなっ!!」

俺は鳥星の胸倉をつかんでいた。
メガネがズレても鳥星はにこにこ笑っている。
いや、違う。
『笑顔の仮面』だ。
表面上では笑っているが、内心では違うことを考えている。
そんな顔だ。

「殴りたければどーぞ?」

「……そんなつもりで来たんじゃない。
俺はただ、このカードについて知りたいだけだ」

「も~、そればっかだね、キミは」

俺が手を離すと、白のワイシャツだった鳥星は
えりを正してメガネも直す。
このカードについて知りたいのは、これを手に入れてから
胸糞悪い夢を見るようになったからだ。
あんな夢……もう見たくない。
リアルすぎるんだ。
身体に感じた痛みも、空腹も。
心に負った傷も。
すべてが。

「……お前はなんでこのカードを俺に押し付けるんだ?
しかも、9月……お前と出会う前から、
このカードを俺に送ってきてただろ!」

「9月に送ったけど、キミの手元に届いたのは今日だ。
ボクの計算通りだよ」

「だから、なんでこんなもんを俺によこす!!」

「そんなの決まってるでしょ?」

鳥星はコンビニの袋から棒アイスを取り出すと、
それを口にする。
……どうせお前はこう言いたいんだろう。
『面白いから』だって。
じゃあなんで俺なんだ?
俺みたいな学生なんていくらでもいる。
その中でなぜ、俺が選ばれた。
理由がわからない。
それでもきっと、鳥星はただでは教えてくれない。

「ひとつだけ教えてあげるよ。
キミがあまりにもかわいそうだからね」

「え……」
「キミは不運なんかじゃないよ。むしろ願いはかなってる」
「は?」
「じゃ、ボクは行くね! これでも忙しいからさ」
「ガッ!」

カチカチの氷菓子を口にぶっ刺され、
俺は頭がキーンとなる。
その隙に鳥星は行ってしまう。

「ま、待て……よ」

追いかけようと思って振り返ったが、
すでに鳥星の姿はなかった。

仕方なくアイスを食いながら家に帰る。
あのままずっと外で待っていたら、
また例の怪しい夜の商売の相手が来るのかもしれない。
でも、今日は俺がいることがバレている。
鳥星も俺がいることを知っているから、
慎重になってるかもな。
見張っていても意味はないだろう。

ベッドに寝転がりながら、3枚に増えたカードを
見つめる。
カードの絵柄は3枚とも一緒だ。
『de code』と書かれているのも変わらない。

「なんなんだよ、本当に……」

ライトにかざしてみる。
そう言えば、最初にカツアゲしたあのカードは
日にかざすとキラキラ光ったっけな……。

「ん……?」

今一瞬、手にしていたカードも光った。
もしかしてこれは……。
もう一度ライトにかざしてみると、うっすらと表面の
タロットのような絵柄とは違うものが見える。

「3枚とも別々だ」

全部同じカードだと思っていたのに、
実は3枚とも違う絵柄のものだったなんて。

今まで起こったことを頭の中で整理してみる。
1枚目のカードを手に入れた夜、虐待される夢を見た。
2枚目は親の操り人形になって、自分を押し殺す夢。
これもカードを手に入れた夜に見ていると思う。
どちらも夢を見た後にこのカードを持っていることに気がついたから、
確実とは言えないが。
そして今日、3枚目を手に入れた。
ということは、今夜も夢を見るはずだ。
どんな内容かはわからないが。

このカードに書かれている絵柄は、
『太陽』に『雲』に『月』だ。
絵柄で俺はピンときた。

さらにカードを手に入れた日のことを思い出す。
小学生からレアカードをカツアゲした日、
換金できると言ったのが、後輩の小宮『太陽』。
2枚目、神経衰弱で1位になったとき戦った相手は、
生徒会長の南『雲』拓瑠。
そして今日、カードの入った封書を持ってきたのは
『月』城さんだ。

――これは偶然なのか?
太陽のカードを手に入れたときに見た夢。
それと泊りに来た太陽の寝言。

『殴らないで……酒、盗んでくるから』

俺の見た夢とリンクするんだ。
俺が見ている誰かの夢って、もしかして
出会った人間の経験していることなんじゃ……?

「い、いやいや、そんなのあり得ねぇだろ。
カードを手に入れるたびに、人が経験した不運を体験するなんて。
マンガの読み過ぎか?」

ははは、と笑ってみるが、カードを送ってきている人間が
すでに不審者だ。
鳥星律が余計に何者かわからなくなる。
だけど、ひとつだけこの仮定が事実かどうか確認する手立ては
ある。
この、今日手に入れた3枚目の月のカード。
もし月城さんの不運を見ることができるなら……。
人の経験をのぞきみるなんて、
ずいぶん趣味の悪いことをしなくちゃならねえけど、
こうして調べるしか方法はない。

俺は覚悟を決めた。
ベッドに横になり、目を閉じる。
不安がないわけがない。
それでも自然に眠りについてしまったのは、
やっぱりこのカードの呪いなのかもしれない。


「今日から新しいお父さんになる、幸次さんよ」
「よろしくね、理穂ちゃん、天馬くん」

新しいお父さんなんて、本当は反対だった。
お母さんも勝手なのよ。
あんなに優しくて家庭のことを考えてくれた
お父さんを捨てて、
こんな金目当てでしかない男と浮気してたなんて。

うちの家は資産家だ。
おじいちゃんが大きい会社の会長を務めていて、
お母さんが社長だから。
新しい父……父なんて言いたくもない、欲深そうな男は
秘書だったらしい。

本当は認めたくない。
だけど私はお姉ちゃんだから。
それにもう中学3年だし、環境に適応する努力をしなくちゃいけない。
気分は最悪。
澄んだ川にいたカエルが、下水に落ちた感じ。
でも、もっとかわいそうなのは弟の天馬だ。
まだ小学生なのに、急な環境の変化に耐えなきゃいけないんだから。

「今日はお母さん、ちょっとパーティーがあるから。
理穂と天馬はお父さんといてね?」

パーティーなんて言って、また新しい男でも探してるんじゃないの?
浅ましい女。
私の母だから、私もきっと浅ましい女になる。
もうその運命は決まってる。

「天馬、今日は塾だっけ? 気をつけて行ってきてね」

天馬を送り出すと、あの男と私はふたりきりになる。
地獄のような時間の始まりだ。

あいつは私をソファに押し付けると、好きなように嬲る。
いつものことだ。

そのとき、耳元で悪魔がささやく。

「お母さんに言ったら、君や天馬くんは不幸になるからね?」

私だけ不幸になるならいい。
でも、天馬だけは……。

あの男が家に入って数か月経った。
忌まわしい時間が過ぎたあと、あいつはさらに恐ろしいことをつぶやいた。

「天馬くん、男の子にしてはずいぶん華奢だね。
きれいな肌をしているよ。一度舐めてみたいくらいだ」

私は一気に血が沸騰するような感情を覚えた。
天馬にまで手を出すつもり?
私が守ってきた天馬を……!

「……ダメよ。あの子だけは絶対に手を出さないで」
「理穂ちゃん。いいじゃないか。お父さんは息子をかわいがりたいだけなんだよ?」
「アンタはあの子の父親じゃない! あの子も息子なんかじゃない!」
「……そうか。わかった」

あの男は、私にある取引を持ちかけた。
天馬に手を出さないかわりに、私がその分お金を払う。
……お金? そんなもの学生の私にはない。
お小遣いだって、必要な金額しかもらっていない。

「稼ぎ方はあるでしょ? 君、女子中学生なんだから……」

すべては天馬を守るため。
私はあいつの言う通り、男をとった。

だけどそんなある日……。

「理穂ちゃん?」
「て、天馬!? なんで……塾は!?」
「熱で早退……お父さんと何してるの?」

……ああ、見られたくなかった。
天馬だけには。
私は上着だけ着ると、熱でボーッとしている天馬を抱きしめた。

「お姉ちゃんは汚れちゃったんだ。でもね、天馬だけは絶対、
どんなに泥をかぶっても守るから……きれいなままでいてね?」

「そんなの……」

『そんなのきれいごとでしょ?』


「え……?」

いつものように目が覚める。
もちろん夢見は最悪だ。
月城さん……嘘だろ。
嘘って思わせてくれよ。
本人に問いただす? 無理に決まってる。
だったら調べるしかない。
スマホを取り出すと、『月城 社長』で検索してみる。
『おじいちゃんが会長でお母さんが社長』の女の子の夢だ。
もし月城という名字の上層部がいる会社なら、検索で出てくるかもしれない。
結果は……。

「はぁ……」

あった。
大手電機メーカー、ニシジマ。

「『ニシジマ』のくせに社長は月城か。意味わかんねーよ」

初代社長で会社設立者、月城幸四郎。
2代目、月城大五郎。
3代目、月城総一郎。
4代目、月城美智也。
5代目、月城百合子。

『ニシジマ』の要素が全くないのがむしろ気になるくらいだ。
だが、気になることはある。
月城一族が会長や社長を務めていたのは5年前までで、
今は他の人間がやっているみたいだ。

「もしかしたら月城さん、家庭が崩壊したのか?
それで今、ひとり暮らしをしてるとか……」

過去に何があったのかはわからないが、
今はもう、義父からの性的虐待や売春強要から解き放たれているなら
少しはマシだ。
新しくやり直しができてるなら……。

でも、これで立証はできたと思う。
『太陽』、『雲』、『月』……。
この3枚のカードは、みんなの不運の記憶だ。

わからないのはあとひとつ。
鳥星の正体。

あいつがなぜこんな不思議なカードを持っていたのか。
そして俺になんで送り付けてきたのか……。
あいつの夜の仕事について。

今日の夕方、デ・コードに突撃するしかない。
とりあえず、心配ごとを解消してからだ。
この夢が実際の起きていたことだったなら……!
俺は珍しく登校時間に合わせ、家を出た。

……1年の教室をのぞくのは、なかなか勇気がいることだな。
俺が目立ってるのがいけないんだとは思う。
3年のデカい不良が、1年の教室前に立ってたら
恐怖でしかないだろうな。
登校途中で太陽には会えなかった。
俺はいつもサボってばっかりだから、あいつがいつ登校するのかも知らねぇ。
だからこうして来るのを待っているんだが、
なかなか姿を現さない。
病欠か何かか?
まさかあの夢の通り、親父に虐待されて……!

俺は近くにいた1年の腕を取ると、
窓際に引っ張った。

「ひぇっ!? な、なんですか!?」
「おい、小宮太陽の住所を教えろ!」
「小宮? ……誰ですか、それ」
「しらばっくれんな! ここのクラスだろっ!」
「い、いや、マジで知らないですっ!!」

知らない?
あいつ、存在感がないからクラスメイトにも
認知されていないのか?
だったらいじめてたやつを……。

「あっ! お前……」
「おい、3年がどうしてこんなところにいる!
朝礼始まるぞ! 体育館に行け」

くそっ、先公かよ……。
しょうがねぇ。
俺はひとまず体育館に向かうことにした。

朝礼はクソつまらねえものだと決まっている。
まあ、どこの学校でもそれは同じだろう。
校長の長い話を聞いて、よくわからん注意を受けて……。
そう思っていたのに、今日の校長は明らかに様子がおかしかった。

「もうニュースで知っているかと思いますが……悲しいお知らせがあります。
我が校の生徒が、校舎から飛び降りて亡くなりました」

まさか、その生徒って……太陽!?

一瞬青ざめたが、校長の口からは別の名前が飛び出した。

「2年A組の赤坂翼くんです。みなさん、赤坂くんに黙とう」

……赤坂って誰だ。
知らないやつだけど、自分の学校で自殺者が出るのは
やはりぞっとする。
何があったのかは知らないが、生徒たちがこそこそ話している内容を聞いても
なんで自殺したのか理由はわからなかった。

朝礼が終わると、また1年の教室に向かうため、
中庭を走っていた。
本当は渡り廊下があるのだが、集会終了後だと生徒で混雑する。
それに、遠回りだ。
だったら中庭を突っ切って行った方がいい。
そのとき、嗅いだことのあるにおいと、煙がちらりと
目の端に映った。
誰だ、こんなところでヤニ吸ってるやつは。
ま、せいぜい教師に見つからないようにしろよ。
俺が無視しようとしたとき、声が耳に入った。

「お嬢、ヤバいですよ……赤坂が自殺だなんて」
「問題ねぇよ。マズくなったら親父に金出してもらって、
謝罪したフリすればいい。ま、転校は免れないかもしれないけど
日本じゃなくてアメリカに留学っていう体にしてもらえば
箔もつくだろ?」

くそっ、こんなときになんで俺は
厄介ごとに気づいちまうんだよ!

そっと近づくと、校舎の陰からお嬢とやらの顔をのぞく。
黒ずくめでサングラスの大男と一緒にいる……女。
あの黒ずくめ明らかに生徒じゃないから気になるが、
あの女なんなんだ。
アイツ……赤坂の自殺に絡んでるのか!?

「ん? 誰だっ!」

やべ、ここは逃げるしかないのか?

「うわっ!!」

急に方向転換したせいで、俺は足をひねって盛大にこけた。
女と一緒にいた大男に
あっという間に捕まえられる。

「お嬢っ! こいつ、どうします?」
「ああ、知ってるよ、そいつなら。柊さんね。
初めましてか? どこまで話を聞いた」
「俺は……何も聞いてねぇよ」
「ふうん……」

俺にタバコの煙を吹きかけるお嬢。
この女っふざけてんじゃねーぞ……!
だけど相手は女。
殴ったりはできない。
俺が苛立ちを我慢していると、お嬢は自分の名前を言った。

「私、2年の千雨と申します。
お金だったらいくらでも払いますから、いつでも言ってくださいね?
これでも両親には恵まれてますの。
成績の操作でも構いません。なんでも力になりますから」

「にっこり笑われてもかわいくねえよ」
「あっそ」

そういうと千雨はあっさり去っていった。
あー……面倒くさいやつに目をつけられちまったな。
これは教師に訴えるべき……いや、それも無理っぽいな。
成績操作とか言っていたから、教師も金で懐柔してるパターンだ。

授業開始のチャイムが鳴る。
変なことに首を突っ込んだせいで、タイムアウトだ。
1年に聞かないと、太陽の家がどこにあるのか
わからない。
すごろくだったら1回休みって感じだな。
俺は仕方なく放課後まで屋上で空を眺めることにした。
いつものようにヘアピンで鍵を開けると、
カバンを枕に寝転がる。
そういや、鳥星が言ってたな。
俺は不運なんかじゃない、むしろ願いはかなってるって。
確かに不運じゃない。
俺の不運は、平凡で退屈な世の中を
なんとなく生きていることだと思っていた。
こうして現実には想像もつかないようなおかしな体験……
つまり、他人の不運を体験することができる今の状況は、
平凡なんかじゃない。
でも、こんな体験したくなかった。
みんなが背負っていたつらい経験をするなんて……。
しかもそれは表面上では一切見えず、必死に隠しているものだった。
それを知ってしまうこと自体、罪じゃないか。
だったら平凡で退屈な日々を過ごしていた方がマシだった。
こうして久々に空を見上げると、河原で寝そべっていた頃を
思い出す。
10月も下旬だ。ずいぶん寒くなったな……。
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