〇8章

文字数 5,144文字

「……ふう、ただいま」

マンションのドアが開き、
僕の大切な女性が入ってくる。

スカーフを取り、スーツのジャケットを脱ぐと僕に預ける。
母さん……百合子はブラウスの一番上を外すと、
グラスに水を注いでごくごくと飲み干す。

そうだ僕……私は、百合子の夫。宗太だ。
妻は義父の会社を継ぎ、社長職に就いている。
私はというと、そんな彼女を家庭的に支える主夫をやっている。

「お父さ~ん、今日の夕飯はなあに?」

娘の理穂は勢いよく私に抱きついてくる。
親バカと言われるかもしれないが、本当のうちの娘はかわいい。
将来きっと、美人になるに違いない。
飛びついてきた理穂と目線を合わせるようにしゃがむと、
私は今晩の夕飯が何か教える。

「今日は母さんの好きなオムライスだぞ」
「お母さ~ん! オムライスだって!」

理穂が大声で百合子に言うが、
百合子はあまり嬉しそうな顔をしなかった。

「オムライス……ね。先日ランチで食べたばかりだわ」
「じゃあ、献立を変えようか?」
「いいわよ、もう作っちゃったんでしょ」

最近百合子の様子がおかしい。
仕事が忙しすぎるのだろうか。
それをサポートするために、普通のサラリーマンから
主夫になったのに……。
私はダメだな。妻のことを思いやれていないのかもしれない。

「百合子、肩でも揉むか?」
「いいわよ、別に……ぐっ!」
「百合子?」

百合子は口を押えると、トイレへと走る。

「大丈夫か?」
「ええ、まあ……」

胃薬か何か用意しておいた方がいいかとたずねると、
何もいらないという。
百合子は夕飯も残していた。

疲れたから、と食事後すぐにベッドルームへ行ってしまった百合子。
理穂も心配そうにしていたが、まさか……。

『今、母の胎内に僕はいるのか?』

父の人生を乗っ取った僕は、
今母の腹の中にいる僕自身を殺さなくてはいけない。
……いや、時期尚早だ。
赤ん坊がいるとは限らない。

しかし数日後、産婦人科で検診を受けた百合子は、
私に告げた。

「ふたりめができたみたい」

決定打だった。

「そ、そう」

病院を出て、百合子を助手席に乗せた私は、
嬉しそうな表情を浮かべる。
優しげに笑う百合子を見ていると、
罪悪感がわく。
だけど……今腹部にいるのは殺人鬼だ。

車のハンドルを持つ私は、スピードを上げた。

「ちょ、ちょっと、あなた! スピード……」

百合子の声を無視して、120kmで大通りを走行する。
パトカーの音がしても知ったことか。
私は思い切りブレーキを踏む。
計算通り、車は電柱にぶつかった。

「あ、あ……!」

腹部を押さえていた百合子だったが、
彼女の太ももには血が流れていた。

この事故のせいで、
子どもが生まれることはなかった。
これでよかったんだ。
私自身もスピード違反で免許はく奪。
罰金刑に処された。

妻はしばらくの間ショックで入院していたが、
1週間で出てきた。
なんでも仕事が心配だったらしい。

妻は何事もなかったかのように仕事に没頭していた。
私とのこともだ。
事故は不注意だった――。
それで済ませることになった。
大きな会社の社長の夫が起こしたものだ。
できるだけ内々に済ませようと、各所が手を回したと
後から聞いた。
家庭内では、妻と私の会話がまったくなくなった。
寝室も別になり、
妻は家に帰らない日が数日続くこともあった。
離婚の話も何回か出たが、さすがに実現しにくいとは
誰もがわかっていた。
会社社長のスキャンダルはご法度だ。
それだけの理由で私はこの家で飼い殺されていたのだ。

そんな中、私の救いは理穂だけだった。
この子は母よりも私を慕ってくれていたし、
私も何よりこの子をかわいがっていた。
大事な大事な我が娘だ。

事故から数年――。
久々に家に帰ってきた妻に、料理を作る。
何の因果か、この日もオムライスを作っていた。
妻がまたトイレに籠る。
私はあの日を思い出した。
自分の命を省みず、自分の息子を殺したあの日。
だけど今度は私の子どもではない。
あの日以来、妻とは関係を持っていない。

トイレから出てきた妻を、私は問い詰めた。

「どういうことだ? 体調不良じゃないだろう。つわりなんて……」
「あなたには関係ないでしょう?」
「関係はあるさ。私は君の夫だ」
「そうね。何もできない無能な夫。さらに言えば実の息子を殺した人間だわ」

そうだ。息子……私は殺人鬼を殺さなくてはいけない。

「しばらく家を空けます。理穂をよろしく」
「待て、百合子――!」

私は運動用に使っていた金属バットで、
妻の腹を打ち付けようとした。
それを止めたのがあの男だった。

「おや、宗太さん。百合子社長の夫であるあなたが、
何をしようとしていたんですか? これは暴行だ」

相田幸次……。
夫だからかすぐにわかった。
妻の相手で、この子どもの父親は相田だ。

「暴行でもなんでもいい! 私は百合子の子どもを殺さなければ
ならないんだ!!」

金属バットを振り回す私から、百合子を守りながら止めに入る
相田。
こうなったら相田にも死んでもらうしかない。
相田も、百合子も、子どもも、全員私の手で殺す――!

「やめて! お父さんっ!」
「理穂!?」

声がした方を向いた瞬間、
相田の肘が私の鼻に当たる。
私はそのまま気を失った。


気づいたときには海岸近くに転がされていた。
服は着ているが、靴はない。
財布もスマホも、何もない。
それにここがどこなのかもわからない。
あれからどのくらい経ったのだろう?
子どもは……僕は生まれてしまったのだろうか。

私……僕は見覚えのない海沿いをはだしで歩きまわる。
空腹だ。いつから食事をしていないんだろう。
真っ暗な空に真っ暗な海。
僕は父さんの子どもじゃなかった。
姉を襲った男……そいつの息子だ。
ふふっ、まったくもってイカれてる。
不運な人生ね。
僕もその不運な人生を生きるひとりだったってことか。
だってそうだろう?
父さんの実の息子じゃなかった。
母親の不倫相手の息子。
しかもそのせいで父は失踪。
穢れた母親は何事もなかったかのように、僕の穢れた父と再婚。
再婚相手の男は、姉を凌辱して、さらに
売春させた。
その弟である僕は、不運な姉を見ないフリをして
笑いながら全員を殺した。
生まれながらにしての殺人鬼。
それが僕だ。
もし今……姉の父である状態で死んだら、
僕はどうなるんだろう。
ただの男が自殺した。
それで終わりだろう。
『僕』は今、母親の胎内にいる。
今、僕がここにいる以上、『僕』に手は出せない。

腹がぐるぐると鳴る。
なんでもいい。何か食べ物――。
僕がうろうろしていると、人影が見えた。
誰だ?
こんな冬の海に一体何の用なんだ。

「おっさん、なんでこんなところでうろうろしてんの?
怪しいんですけど」

まずい、地元のヤンキーか?

僕は逃げようと走ろうとした。
が、ヤンキーのひとりが脚を伸ばし、それにつまづく。
一度転がると、身を起こすことができなくなっていた。
男が僕の上に馬乗りになり、ボコボコに殴る。

「がはっ!」
「うわ、汚ねぇ」

思わず血を吐くと、ヤンキーたちは
眉間にしわを寄せた。

「なぁ、こいつ金持ってないの?」

「財布も携帯も見当たらねえぞ。ちっ、マジでただの浮浪者だったのかよ。
損したぜ」

「でも、憂さ晴らしはさせてもらえそうだよ」

ヤンキーたちが僕を殴る。蹴る。
唾を吐きかける。
まるで自分がゴミになったような気分だ。
しばらく僕を痛めつけると、やっと飽きたようで
その場からヤンキーたちは去っていく。

胸も、腹も、背も痛い。

身体はズタボロで、動ける要素なんてないはずだった。
それなのに……。

僕の目の端に映ったのは、尖った木の棒。
建築資材か何かを放置しておいたのだろう。
それも1本じゃない。
ヤンキーたちを倒す分、余裕である。
それが目に入った瞬間、血がたぎるような気がした。

僕は静かに立ち上がると、その棒を1本引き抜き
ヤンキーのひとりをうしろから刺す。

「……え……な、に……」

ヤンキーは血を吐きながらその場に倒れる。

他のやつらは何が起こったのかわからないという顔をして
突っ立ったままだ。

僕はすぐに2本、3本と棒を砂から引き抜くと、
怖くてちびっているやつや、放心状態のやつらの
心臓に突き刺す。
逃げていくやつもいたが、そいつも追いかけて
仕留めた。
……ひとりでヤンキーを全滅させたんだ。
僕はいつも通り、血を浴びた。
冷え切っていた身体だったけど、
今は温かい。
浴びた血の温かさが、今の僕には心地よかった。

――雨が降ってきた。
僕は落ちていた青いビニールシートを身体に
巻く。
多分、夏場海の家で使ったものだろう。

季節は冬だ。
こんなもの気休めにもならない。
足も凍りそうだ。
雨に濡れた身体は冷えていた。
雨宿りできるようなところは……。

浮浪者のような格好で、街の方へと向かう。
もしかしたら警察に捕まってしまうかもしれない。
さらに言うと、地元のヤンキーを殺したんだ。
それならそれでいい。
拘置所の中はここよりもマシだろうし、
食事も出る。

やっぱり僕は殺人鬼なんだ。
僕という人間は、どんなに他人の人生と入れ替わっても
必ず人を殺してしまう。
人を殺すという運命の元に生まれたのだ。

街はどこかしら見覚えがあるように感じた。
寂れた商店街。
この通りは……。
『デ・コード』がある僕の街だ。

シャッターが半分開いている店がある。
僕は光に誘われるように近づく。
そこから人が出てくる。
見覚えのある人間だ。

「リツ……なんでここに?」
「神出鬼没なのが売りなんでね」

もうこいつに関してはどうでもよくなっていた。
こいつは時空も人間の運命でさえも操ることができる。
僕の想像を超える男だ。

「それにしても汚いなぁ。さすがのボクでもこれは勘弁。
一旦、元の姿に戻ってもらうよ」

指を鳴らすと、僕は小学6年生の『月城天馬』の姿に戻る。

「天馬は本当にボクを楽しませてくれるね?
父親と人生を交換して、自分を生まれなくさせる……か。
よくそんなことを思いついたもんだ。
頭がいいのか、それとも……残酷なのか」

「リツ、もう一度勝負してくれないか?」

僕の気持ちは決まっていた。
父親……本物ではなかったけど、親が殺せなかったら
最後の手段を使うしかない。
どうしてこんな簡単なことを思いつかなかったんだろう。
それは心の奥底で、やつぱり恐怖を感じていたからかもしれない。
他人を使って自分を殺す。
最低な方法だったなと今からなら思う。
元の自分に戻って自殺する――。
それが一番間違いのない方法で、誰も傷つかない。
僕の大っ嫌いなきれいごとが一番正しかったなんて
笑っちゃうよ。

「ふふっ、あははっ……!」

「天馬、ずいぶん楽しそうだね。
何人もの人生を乗っ取って人を殺しまくって……
よっぽどよかったみたいだ」

「ああ、よかったよ! 僕の人生は最高に刺激的だったんだ!
でもね、やっぱりラストシーンっていうのは必要みたいでさ」

「それって、キミが死ぬってことかな?」
「まあね。そこまでわかったなら、僕と勝負してくれるよね?」

たずねると、意外にもリツはすぐにうなずかなかった。
あごに手を当てて、考え込んでいる。

「何? 問題でもあるの?」

「天馬が勝てば、天馬自身の人生を戻すことになる。
でもボクは? 何の得があるの?」

それを言われてしまうと、僕も答えに困ってしまう。
今まではなにも言わず、取引に応じてくれていた。
きっと理由は『面白そうだから』だ。
だけど今回の勝負……というか、僕が勝った場合、
リツにとっては面白くない結果になるんだろう。
彼が期待しているものを見ることができない……とか。

「言っちゃなんだけどさ。天馬はボクの大事なオモチャなんだ。
早々に壊したいと思わないんだよね。
だから自殺はしないでほしい」

……嘘だろ。
リツの言葉に僕は驚く。
あれだけ人を殺してきた僕に対して、『自殺はしないでほしい』だなんて。

「でも僕は、自殺しないといけないくらいの罪を背負ってる!」

「自殺は逃げだよ。全部の責任を放棄することになる。
自分が楽になるだけの、ボクが一番許せない行為だ」

逃げと言われても……。
ボクは今までやってきたことに責任を取ることはできない。
理穂ちゃんと男の関係をどうにかすることもできないし、
太陽を虐待から守ることも無理だ。
南雲にいじめをやめさせることだって。
千雨が赤坂を事故で失ったことだって……。

「じゃあ、ボクから新しいゲームの提案だ。
キミにもう一度『柊虎太郎』になってもらう。
キミはこたくんとして、すべての人間の運命をひっくり返し、
不運な人生を幸福な人生に変えてみて。
それができたならキミの勝ち。願い通り本当に『月城天馬』に
戻してあげるよ。
そこから先、死のうが生きようが僕は関知しない」

「僕にそれができなかったら?」

恐る恐るたずねると、リツはにっこり笑った。

「そうだなぁ……それはヒミツってことで」
「フェアじゃないぞ!」

文句をいう僕に、リツは冷たく言い放った。

「何言ってるの? フェアな勝負なんて、この世に存在しないんだよ?」

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