俺が自殺を保留にした理由
文字数 7,044文字
この世界は生きていてもくだらない。
恵まれている人と、そうでない人の差が大きすぎる。 俺はもちろん、 後者に該当する者だ。
この考えに至るまでは、 半年前まで話を遡らなくてはならない。
人生なにも怖くありません、 全てが楽しいです。 そんな青春真っりの十八歳。 俺は二輪車同士の接触事故を起こした。
相手は時速四十kmオーバーの速度超過と信号無視で交差点に突っ込んできた、 所謂「暴走族」だった。 一方の俺は、 原動付自転車で最大速度三十㎞を規則正しく守っての安全走行だ。 どう考えても俺が被害者だろう。
ところがどっこい。 過失は俺側にあると訴訟を起こされたのだ。 理不尽だ! 意味が分からない。 現場検証をした警察が無能だったのか? 否、 そうでは無かった。
暴走族の少年は、 某有名政治家の息子であったらしく、 事故を揉み消せないと知るや否や、 金に物を言わせて敏腕弁護士を味方に付け、 真っ向勝負に打って出たのだ。 俺はあれやこれやと因縁を付けられ、 無実の罪を着せられてしまった。
中学時代に悪ぶって一度だけ吸ったタバコが原因で停学になるという、 ダサい素行も晒された。
裁判に縺れ込んで敗訴になった場合、 多額の賠償金を支う事になるだろうと、 こちら側の弁護士はやる気がなさそうに言う。 学生の俺には到底払えない額の金だった。
俺が加害者である事を認めたら和解が成立するらしいが、 やはり理不尽だ。 納得できない。
病室に来て俺を事情聴取していた警察の目は、 何故か日に日に厳しくなった。 まるで俺を加害者として見ているようだった。
卒業後に決まっていた就職先の内定が突如、 取り消しになった理由は、 恐らく、 ご察しの通りだ。
病院に押しかけていたマスコミが、 とうとう俺の家の前にまで集りだした。
『小さい頃からお利口さんで、 とても優しい子だったんですよ。 だからニュースを見た時はとてもショックで…… あぁ、 でも確かに怒ったら怖そうでしたよね。 やっぱり最近の子は、 頭の中では何を考えてるかわからないって言うのか……』
偶然、 病室で見たニュースには、 加害者少年の近所にむAさんという名の隣人インタビューが映っていた。 まるで俺を昔から知っているかの様な口調であったが、俺は隣人のおばちゃんに、 こう言ってやりたい。
「アンタが引っ越してきたの二年前だろうが!」
とうとう、 俺の家族には「加害者の親族」というレッテルが貼られてしまった。
野球の高校推薦が決まっていた弟は、 俺の病室に乗り込んでくるなり、 俺に向かってグローブを投げつけた。
「この疫病神ッ!」
そう叫んだ弟の瞳は、 俺に対する憎悪に満ちていた。 俺は本当に、 ただの疫病神なのかもしれない。 俺は次第に自分を責めるようになった。
―― 事故直後、 意識不明の重体で病院に運ばれた俺は数日間、 生死の境を彷徨った。 目が覚めたのは奇跡だと言われた。俺を担当した救命医の腕がすこぶる良かったらしい。
―― 命が助かって良かった。 神様ありがとう。
天に感謝できたのは、 目覚めたその瞬間だけだった。
理不尽な現実を前にして、 何より不甲斐ない自分に絶望して…… 俺の思考は切り替わったのだ。
―― いっそ死んでればよかった。
という事で、 このくだらない世界に別れを告げるべく、 今日、 俺は病院の屋上から飛び降りる事を決意した。
* * *
深夜、 俺は看護師の監視(巡回)を掻い潜って病室を抜け出す事に成功した。 目指すのは屋上だ。 もちろん、 自殺を決行する為に。
階段を上って、 昇降口の鉄の扉を重く押し開くと、 夜空と街のネオンの明かりが俺の前に現れる。 恋人達に言わせれば〝ロマンティック〟 な景色も、 今まさしく死に逝く俺には、 色褪せて映っている。
遺書は昼間に書いた。 これを今脱いだスリッパの上に置けば、 セッティングは完了だ。 後はもう、 タイミングを見計らって暗闇に身を放り投げるだけだ。
屋上を囲む金網のフェンスを乗り越えて、 俺は向こう側に降り立った。 少し首を伸ばして、 遥か下の地上を覗き見てみる。
低い風の音が建物の間を潜り抜けて唸りを轟かせている。 真夜中の病院は静かで薄暗い。 最上階から見下ろす地上は、 不気味な闇を醸し出している。 まるで俺を、 異世界へ誘おうとしているかにも思えた。
俺は思わず、 生唾を飲み込んだ。 思ったよりも地上との距離があった事に驚き、 足が竦む。
いや、 別に怖がってるわけじゃない。 …… 少し驚いただけだ。
そうだ、 こんな世界飽き飽きしてたんだ。 俺は今日死ぬんだ。 ここから飛び降りて死んでやるんだ――
「ねぇ、 いつ飛び降りんの…… ?」
「おわっ!」
突然湧いた声に驚いて足を踏み外しそうになった。 後ろのフェンスに背中を当てながら、 俺はそのまま地面に座り込んでしまう。 動悸の収まらぬ胸に手を当てながら、俺は横を見た。
ひょろっとした細身の男が、 胡坐に頬杖を付き、 眠たげに俺を見ている。
「きゅ、急に声掛けるな! 危うく落ちる所だっただろ!」
俺は大声で男に怒鳴りつけてやった。 すると、 男は瞬きを繰り返しながら、 不思議そうに首を傾げる。
「でもお前、 自殺するつもりなんだよねぇ? こんなの書いてるし」
男は俺の書いた遺書を、 ヒラヒラと見せながら言った。
「俺の遺書! いつの間に取ったんだよ!」
「今さっき」
「それに…… いつの間にフェンスのこっちに来たんだ?」
「それも今さっき。…… もしかして気付いてなかったわけ?」
男は逆方向に首を傾けた。
正直、 まったく気付かなかった。
「ひゃっひゃっひゃ! お前鈍感過ぎるにも程があるでしょ、 バカなの? ひゃひゃっひゃ!」
…… どうして初対面の人間に、 ここまで馬鹿扱いされなきゃいけないんだ。
というか、 よく見るとこいつ……
「アンタ…… もしかしてここの医者か?」
最初は暗くてよく分からなかったが、 男が白衣を着ている事に気が付いた。 ドラマなんかでよく見る、 聴診器を首からかけた姿だ。
「そうだよ。 ボクは貝塚真緒 。救急部で働いてんのね」
「そんなお偉い先生がこんな時間にこんな場所で何してんだ? さては俺の自殺を止めるつもりか?」
「ううん。 実はボクも死のうと思ってここに来たんだけど、 先約が居たみたいだからさ。 お前が飛び降りるの待ってるんだよ」
俺は思わずずっこけそうになった。
いやいやいや!
「医者が病院から飛び降り自殺なんて何考えてんだ!? ていうか、 患者が飛び降りようとしてんだから止めろよ!?」
「何だよ、 ボクに止めて欲しいわけ~?」
貝塚がニヤニヤと笑いながら目を細めた。
何だこの医者…… 無償にぶっ飛ばしてやりたいんだが。
貝塚が大きな欠伸をひとつ。
「でぇ~…… ? なぁんでお前は死のうとしてんの~?」
その面倒くさそうな聞き方が気に障らなくもないが…… まぁどうせ死ぬんだから、 理由くらい話してやっても良いか。
俺は半年前に事故に遭った事と、 それにより多くのものを失い傷ついた事を話してやった。 話しながら…… 俺は改めて思った。 我ながらなんて不幸な人生なのだろうと。
俺の不運を目の前にしたら、このアホそうな医者だってきっと、俺に同情するに違いない。
「ひゃひゃひゃ、 お前バカじゃないの? そんな事で死のうとするなんて、 なに? 自分がこの世で一番可哀想だとか思っちゃってるわけ? ひゃひゃひゃ」
貝塚が腹を抱えながら膝を叩いて笑い転げた。 俺は再び拳を握りしめた。 こいつ、 まじで殴ってやりたい。 というか!
「人の事笑ってるけど、 そういうアンタは何で自殺しようとしてたんだよ!? 理由を言ってみろよ? あぁ!?」
「ヤだよ。 何でお前に話さなきゃいけないの?」
「俺だって今アンタに死にたい理由を話してやっただろ!」
「ボクは聞いただけでしょ? なのに、 お前が勝手にべらべらと喋り出したんじゃんか。 嫌なら断わりゃ良かったのに。 頭悪いね、 お前」
貝塚があっかんベーと舌を出す。
…… 腹が立つ以前に、 貝塚の行動に飽きれ出した。 何歳児だ、 こいつは。
「んじゃ別に良いよ。 アンタの自殺の理由なんて俺も興味ないしな」
「ボクが死にたいと思ってる理由は二つあるんだけどさ」
って、 話すんかーい。
俺は心の中でどこぞの貴族風なお笑い芸人よろしく、 ワインの入ったグラスを天に掲げた。 そんな俺の心の中を知らないであろう貝塚は、 俯いたまま静かに口を開く。
「一つ目の理由は、 半年前に受け持った患者がね、 もしかすると死んじゃうかもしれなくて…… それが…… 悲しいんだよね……」
「急変でもしたのか?」
「詳しくは言えないよ。 守秘義務あるもん」
「よく分からないけどさ、 それは仕方ないんじゃないかな?」
「仕方なくないよバカ。 どれだけボクが必至になって助けたってさ、 助からない命もあるんだって思ったら悲しくなっちゃったのボケナス。 医者やってる意味あんのかなって考えちゃったんだよスカポンタン。 …… 頭の悪そうなお前には分からないだろうけどさ」
くだらない理由かと思ったら、 真面目な理由で自殺を考えている様だ。 というか、 話しの合間に罵倒された気がするのは…… 気のせいか?
「二つ目の理由は、 楽しみに取っておいたお菓子を後輩に盗み食いされたのが腹立ってさぁ、 そのあてつけに飛び降りてやろうと思ってるんだよねぇ」
よし。 俺の優しさに免じて、 二つ目の理由は聞かなかった事にしといてやろう。 しかし一つ目の理由は、なかなか重く難しい問題だ。
「俺は医者の仕事ってよく分からないけど、 人の命って天から定められたものでもあるし、 助けられなかったとしてもアンタのせいじゃないと思う。 アンタはアンタなりに全力を尽くしたんだろ? だから、 医者としての本分は果たせてると思うぜ?」
「納得出来ないんだよ。 ボクはボクに関わった全部の人を助けたいんだよ」
「その気持ちは立派だと思うけど、 医者だって人間なんだし、 全能じゃ無いだろ?」
「全能じゃなきゃ、 ボクが医者になった意味が無いんだよ。 う、 うぇっ…… えっぐ」
貝塚がワンワンと泣き始出してしまった。 今更だが、 こんな男が過酷な救急部で働いている姿を、 どうにも想像出来なかった。
でも一つだけ感じ取れたものもある。 目の前の、 子供の様に泣きじゃくる貝塚という医者は、 高い志を持って仕事に携わっている。 それだけは俺の心に伝わってきた。
―― 少しだけ…… 貝塚を見る目が変わった。
「泣くなよ先生。 先生が居たからこそ救えた患者も大勢居るんだろ? その人たちは、 きっと先生に感謝してると思うぜ?」
貝塚が嗚咽しながら俺の顔を見た。 俺は貝塚の肩に手を置いて、優しく言葉を続けた。
「先生が死んだら、 きっとみんな悲しむよ。 だから死ぬなんて考えちゃ駄目だ。 それに、 可能だったら、 また先生がその患者を助けてあげれば良いんだ」
「…… 良い提案だけど、 自殺しようとしてるお前が言っても説得力に欠けるよね」
貝塚が目を細めながら冷たく言う。 まったくもってその通りだ。
…… 俺も半年前、 瀕死の状態でここに運ばれて、 何とか命を取り留めた一人だ。 あの時は助かって良かったって思ったし、 命を救ってくれたスタッフ達に心から感謝した。
でも、 目が覚めてから突き付けられた現実が辛くて、 逃げだしたくなって、 理不尽な世の中が嫌になって…… 死んでやろうなんて、 安易に考えついちまったんだよな。
いや、安易では無かった。 死にたいほど辛かったのだ。 でも自分の命を軽く考えていた事も事実だ。
きっと俺は自分の辛さを誰かに受け止めて欲しかったのだ。 貝塚の言う通り、誰かに自殺を止めて欲しかったのかもしれない。
なんて考えていたら、色々とどうでも良くなってしまった。
「あーあ。 何か先生見てたら、 死ぬの馬鹿らしくなってきたわ」
「なんだ、 死ぬのやめんの?」
貝塚が物足りなそうに俺を見つめる。 何だ? もしかして俺に死んで欲しかったんですかアンタ。
…… 俺は更に馬鹿らしくなってきた。
「やめるよ。 飛び降りてもちゃんと死ねるとは限らないし、 それに、 二度もここの救急のお世話になるのは、忍びないしな」
「ふーん、 そっか。 じゃあ、 ボクも死ぬのやーめた」
貝塚は俺に清々しい笑みを向けると、 金網をよじ登って安全なフェンスの内側へ、 ぴょんと飛び降りた。 俺はその動きをまじまじと眺める。 猿みたいな奴だな、こいつ。
「誰だ? 誰かそこに居るのか?」
貝塚がフェンスの内側に降り立ったのと時と同じくして、 昇降口の扉がゆっくりと押し開かれた。 どうやら警備員が見回りに来たらしい。
「ん? ……あなたは」
警備員が持つ懐中電灯の光が、 貝塚の顔を照らし付けた。 貝塚は眩しそうに目を細める。
「救急部の貝塚先生じゃないですか! こんな所で何をしてらっしゃるんですか?」
「えっとねぇ…… あの患者が自殺しようとしてるからぁ、 今必死に止めてたトコ」
そう言って、 貝塚がフェンスを隔てた俺を指さす。
え…… 今なんて…… ?
「5B病棟の磯谷さんだよ。 生きているのが嫌で死ぬんだってさ」
警備員の懐中電灯の光が、 貝塚から俺へと移動する。 ていうか、 どうして貝塚が俺の名前と病棟を知ってるんだ?
「いいい、 磯谷さん! 自殺なんて馬鹿な事は考えちゃだめだ!」
「いやいやいや! 俺は別にもう死のうとは思ってないし!」
「はい、 これ遺書ね」
貝塚が手に持っていた俺の遺書を、 警備員に差し出した。
何話しをややこしくしちゃってくれてんの! このお医者様は!
「たたたた、大変だぁ!」
警備員は血相を変えると、 遺書を握り締めたまま昇降口から走り去って行った。 静まり返る屋上。 貝塚が肩を揺らして、 くつくつと笑いだす。
「応援を呼びに行ったんだね。 こりゃ大事件になるよね」
「アンタがややこしくしたんだろうが!」
俺はフェンス越しに貝塚を怒鳴りつけてやった。 貝塚はパチパチと瞬きをして、びっくりした表情を浮かべる。
「ボクが悪いの?」
…… おんどりゃ、ガチでシバき倒したろか。
真夜中の空に、 救急車のサイレンの音が鳴り響いた。 遠くで赤色灯が移動しているのが見えた。 どうやら、 この病院を目指して居るらしい。
「あららー…… 急患かなぁ? 早く戻らないと怒られちゃうなぁ」
貝塚が踵を翻し、屋上を去ろうとした。 「待てよ!」俺は貝塚を呼び止めた。
「そういや先生は、何で死ぬの止めたわけ? 死のうとしてたんだろ?」
ふと頭に浮かんだ疑問を、 貝塚の背中に投げ掛けた。 貝塚は俺に背を向けたまま足を止める。
「だって、 一つ目の理由が無くなっちゃったから」
「無くなった?」
「半年前に助けた患者が死なないみたいだからもう良いんだよ。 それに…… 仮にお前が死のうとしても、 ボクは何度でもお前のことを助ける事にしたから。 じゃね、磯谷直哉 」
貝塚はこちらに振り返る事なく、 昇降口から姿を消した。 俺は暫くの間、 昇降口の扉を茫然と見つめていた。 …… 貝塚の言葉の意味が、俄かには理解できなかった為だ。
でも、 その真意に辿り着いた時、 俺は堪え切れなくなって、 病院中に響き渡りそうな声で笑ってやった。
――あいつだったのか。半年前に俺の命を助けてくれた救命医は……
一人残された屋上で、 俺は暫く馬鹿笑いをしていた。 バタバタ―― 慌ただしい無数の足音がこちらに近付いて来る。 先ほどの警備員が、 看護師やら医者やらを引き連れて戻って来たのだ。 血相を変えて、警備員を筆頭に、 集まった職員達が声を強張らせながら俺に言う。
「きききキミ、 死ぬなんて考えちゃ、 だ、 駄目だぞ!」
「さぁ、 こっちに来るんだ!」
「いいい磯谷さん! 死んではだめよ!」
看護師が、 恐る恐る手招きをする。 俺は目を細めると、 地上を覗き込むような動きをしてみた。
「やめろーー!」
皆が同時に悲鳴を上げた。 その反応が面白くて、 俺は噴き出しそうになった。
…… というか、よくこんな高い所から飛び降りようと思ったな。怖い怖い。
もし本当に俺が自殺をしていたら…… 貝塚も患者、 つまり俺を追ってここから飛び降りていたのだろうか?
一人の患者を後追いするなんて考えられないし、 そんな事は有り得ないだろう。 でもこれだけは分かる。
…… きっとあいつは……
『うわぁああん、 ボクが助けた患者が死んじゃったよぉー !』
とか何とか言って、 子供みたいに泣いて、 救えなかった自分自身を責めていたのだろう。
この世界は生きていてもくだらない。
恵まれている人とそうでない人間の差が大きすぎる。
なーんて思っていたけど。
俺の為に、 馬鹿みたいに鼻水や涙を流してくれる奴が一人でも居てくれるんだって思ったら……
こんな世界もそんなに悪くは無いかな?
なんて思えてきた。
よし、 自殺は保留にしておこう。
だってここから飛び降りてまたあいつに助けられるのも、 なんだか…… カッコ悪いもんな?
恵まれている人と、そうでない人の差が大きすぎる。 俺はもちろん、 後者に該当する者だ。
この考えに至るまでは、 半年前まで話を遡らなくてはならない。
人生なにも怖くありません、 全てが楽しいです。 そんな青春真っりの十八歳。 俺は二輪車同士の接触事故を起こした。
相手は時速四十kmオーバーの速度超過と信号無視で交差点に突っ込んできた、 所謂「暴走族」だった。 一方の俺は、 原動付自転車で最大速度三十㎞を規則正しく守っての安全走行だ。 どう考えても俺が被害者だろう。
ところがどっこい。 過失は俺側にあると訴訟を起こされたのだ。 理不尽だ! 意味が分からない。 現場検証をした警察が無能だったのか? 否、 そうでは無かった。
暴走族の少年は、 某有名政治家の息子であったらしく、 事故を揉み消せないと知るや否や、 金に物を言わせて敏腕弁護士を味方に付け、 真っ向勝負に打って出たのだ。 俺はあれやこれやと因縁を付けられ、 無実の罪を着せられてしまった。
中学時代に悪ぶって一度だけ吸ったタバコが原因で停学になるという、 ダサい素行も晒された。
裁判に縺れ込んで敗訴になった場合、 多額の賠償金を支う事になるだろうと、 こちら側の弁護士はやる気がなさそうに言う。 学生の俺には到底払えない額の金だった。
俺が加害者である事を認めたら和解が成立するらしいが、 やはり理不尽だ。 納得できない。
病室に来て俺を事情聴取していた警察の目は、 何故か日に日に厳しくなった。 まるで俺を加害者として見ているようだった。
卒業後に決まっていた就職先の内定が突如、 取り消しになった理由は、 恐らく、 ご察しの通りだ。
病院に押しかけていたマスコミが、 とうとう俺の家の前にまで集りだした。
『小さい頃からお利口さんで、 とても優しい子だったんですよ。 だからニュースを見た時はとてもショックで…… あぁ、 でも確かに怒ったら怖そうでしたよね。 やっぱり最近の子は、 頭の中では何を考えてるかわからないって言うのか……』
偶然、 病室で見たニュースには、 加害者少年の近所にむAさんという名の隣人インタビューが映っていた。 まるで俺を昔から知っているかの様な口調であったが、俺は隣人のおばちゃんに、 こう言ってやりたい。
「アンタが引っ越してきたの二年前だろうが!」
とうとう、 俺の家族には「加害者の親族」というレッテルが貼られてしまった。
野球の高校推薦が決まっていた弟は、 俺の病室に乗り込んでくるなり、 俺に向かってグローブを投げつけた。
「この疫病神ッ!」
そう叫んだ弟の瞳は、 俺に対する憎悪に満ちていた。 俺は本当に、 ただの疫病神なのかもしれない。 俺は次第に自分を責めるようになった。
―― 事故直後、 意識不明の重体で病院に運ばれた俺は数日間、 生死の境を彷徨った。 目が覚めたのは奇跡だと言われた。俺を担当した救命医の腕がすこぶる良かったらしい。
―― 命が助かって良かった。 神様ありがとう。
天に感謝できたのは、 目覚めたその瞬間だけだった。
理不尽な現実を前にして、 何より不甲斐ない自分に絶望して…… 俺の思考は切り替わったのだ。
―― いっそ死んでればよかった。
という事で、 このくだらない世界に別れを告げるべく、 今日、 俺は病院の屋上から飛び降りる事を決意した。
* * *
深夜、 俺は看護師の監視(巡回)を掻い潜って病室を抜け出す事に成功した。 目指すのは屋上だ。 もちろん、 自殺を決行する為に。
階段を上って、 昇降口の鉄の扉を重く押し開くと、 夜空と街のネオンの明かりが俺の前に現れる。 恋人達に言わせれば〝ロマンティック〟 な景色も、 今まさしく死に逝く俺には、 色褪せて映っている。
遺書は昼間に書いた。 これを今脱いだスリッパの上に置けば、 セッティングは完了だ。 後はもう、 タイミングを見計らって暗闇に身を放り投げるだけだ。
屋上を囲む金網のフェンスを乗り越えて、 俺は向こう側に降り立った。 少し首を伸ばして、 遥か下の地上を覗き見てみる。
低い風の音が建物の間を潜り抜けて唸りを轟かせている。 真夜中の病院は静かで薄暗い。 最上階から見下ろす地上は、 不気味な闇を醸し出している。 まるで俺を、 異世界へ誘おうとしているかにも思えた。
俺は思わず、 生唾を飲み込んだ。 思ったよりも地上との距離があった事に驚き、 足が竦む。
いや、 別に怖がってるわけじゃない。 …… 少し驚いただけだ。
そうだ、 こんな世界飽き飽きしてたんだ。 俺は今日死ぬんだ。 ここから飛び降りて死んでやるんだ――
「ねぇ、 いつ飛び降りんの…… ?」
「おわっ!」
突然湧いた声に驚いて足を踏み外しそうになった。 後ろのフェンスに背中を当てながら、 俺はそのまま地面に座り込んでしまう。 動悸の収まらぬ胸に手を当てながら、俺は横を見た。
ひょろっとした細身の男が、 胡坐に頬杖を付き、 眠たげに俺を見ている。
「きゅ、急に声掛けるな! 危うく落ちる所だっただろ!」
俺は大声で男に怒鳴りつけてやった。 すると、 男は瞬きを繰り返しながら、 不思議そうに首を傾げる。
「でもお前、 自殺するつもりなんだよねぇ? こんなの書いてるし」
男は俺の書いた遺書を、 ヒラヒラと見せながら言った。
「俺の遺書! いつの間に取ったんだよ!」
「今さっき」
「それに…… いつの間にフェンスのこっちに来たんだ?」
「それも今さっき。…… もしかして気付いてなかったわけ?」
男は逆方向に首を傾けた。
正直、 まったく気付かなかった。
「ひゃっひゃっひゃ! お前鈍感過ぎるにも程があるでしょ、 バカなの? ひゃひゃっひゃ!」
…… どうして初対面の人間に、 ここまで馬鹿扱いされなきゃいけないんだ。
というか、 よく見るとこいつ……
「アンタ…… もしかしてここの医者か?」
最初は暗くてよく分からなかったが、 男が白衣を着ている事に気が付いた。 ドラマなんかでよく見る、 聴診器を首からかけた姿だ。
「そうだよ。 ボクは
「そんなお偉い先生がこんな時間にこんな場所で何してんだ? さては俺の自殺を止めるつもりか?」
「ううん。 実はボクも死のうと思ってここに来たんだけど、 先約が居たみたいだからさ。 お前が飛び降りるの待ってるんだよ」
俺は思わずずっこけそうになった。
いやいやいや!
「医者が病院から飛び降り自殺なんて何考えてんだ!? ていうか、 患者が飛び降りようとしてんだから止めろよ!?」
「何だよ、 ボクに止めて欲しいわけ~?」
貝塚がニヤニヤと笑いながら目を細めた。
何だこの医者…… 無償にぶっ飛ばしてやりたいんだが。
貝塚が大きな欠伸をひとつ。
「でぇ~…… ? なぁんでお前は死のうとしてんの~?」
その面倒くさそうな聞き方が気に障らなくもないが…… まぁどうせ死ぬんだから、 理由くらい話してやっても良いか。
俺は半年前に事故に遭った事と、 それにより多くのものを失い傷ついた事を話してやった。 話しながら…… 俺は改めて思った。 我ながらなんて不幸な人生なのだろうと。
俺の不運を目の前にしたら、このアホそうな医者だってきっと、俺に同情するに違いない。
「ひゃひゃひゃ、 お前バカじゃないの? そんな事で死のうとするなんて、 なに? 自分がこの世で一番可哀想だとか思っちゃってるわけ? ひゃひゃひゃ」
貝塚が腹を抱えながら膝を叩いて笑い転げた。 俺は再び拳を握りしめた。 こいつ、 まじで殴ってやりたい。 というか!
「人の事笑ってるけど、 そういうアンタは何で自殺しようとしてたんだよ!? 理由を言ってみろよ? あぁ!?」
「ヤだよ。 何でお前に話さなきゃいけないの?」
「俺だって今アンタに死にたい理由を話してやっただろ!」
「ボクは聞いただけでしょ? なのに、 お前が勝手にべらべらと喋り出したんじゃんか。 嫌なら断わりゃ良かったのに。 頭悪いね、 お前」
貝塚があっかんベーと舌を出す。
…… 腹が立つ以前に、 貝塚の行動に飽きれ出した。 何歳児だ、 こいつは。
「んじゃ別に良いよ。 アンタの自殺の理由なんて俺も興味ないしな」
「ボクが死にたいと思ってる理由は二つあるんだけどさ」
って、 話すんかーい。
俺は心の中でどこぞの貴族風なお笑い芸人よろしく、 ワインの入ったグラスを天に掲げた。 そんな俺の心の中を知らないであろう貝塚は、 俯いたまま静かに口を開く。
「一つ目の理由は、 半年前に受け持った患者がね、 もしかすると死んじゃうかもしれなくて…… それが…… 悲しいんだよね……」
「急変でもしたのか?」
「詳しくは言えないよ。 守秘義務あるもん」
「よく分からないけどさ、 それは仕方ないんじゃないかな?」
「仕方なくないよバカ。 どれだけボクが必至になって助けたってさ、 助からない命もあるんだって思ったら悲しくなっちゃったのボケナス。 医者やってる意味あんのかなって考えちゃったんだよスカポンタン。 …… 頭の悪そうなお前には分からないだろうけどさ」
くだらない理由かと思ったら、 真面目な理由で自殺を考えている様だ。 というか、 話しの合間に罵倒された気がするのは…… 気のせいか?
「二つ目の理由は、 楽しみに取っておいたお菓子を後輩に盗み食いされたのが腹立ってさぁ、 そのあてつけに飛び降りてやろうと思ってるんだよねぇ」
よし。 俺の優しさに免じて、 二つ目の理由は聞かなかった事にしといてやろう。 しかし一つ目の理由は、なかなか重く難しい問題だ。
「俺は医者の仕事ってよく分からないけど、 人の命って天から定められたものでもあるし、 助けられなかったとしてもアンタのせいじゃないと思う。 アンタはアンタなりに全力を尽くしたんだろ? だから、 医者としての本分は果たせてると思うぜ?」
「納得出来ないんだよ。 ボクはボクに関わった全部の人を助けたいんだよ」
「その気持ちは立派だと思うけど、 医者だって人間なんだし、 全能じゃ無いだろ?」
「全能じゃなきゃ、 ボクが医者になった意味が無いんだよ。 う、 うぇっ…… えっぐ」
貝塚がワンワンと泣き始出してしまった。 今更だが、 こんな男が過酷な救急部で働いている姿を、 どうにも想像出来なかった。
でも一つだけ感じ取れたものもある。 目の前の、 子供の様に泣きじゃくる貝塚という医者は、 高い志を持って仕事に携わっている。 それだけは俺の心に伝わってきた。
―― 少しだけ…… 貝塚を見る目が変わった。
「泣くなよ先生。 先生が居たからこそ救えた患者も大勢居るんだろ? その人たちは、 きっと先生に感謝してると思うぜ?」
貝塚が嗚咽しながら俺の顔を見た。 俺は貝塚の肩に手を置いて、優しく言葉を続けた。
「先生が死んだら、 きっとみんな悲しむよ。 だから死ぬなんて考えちゃ駄目だ。 それに、 可能だったら、 また先生がその患者を助けてあげれば良いんだ」
「…… 良い提案だけど、 自殺しようとしてるお前が言っても説得力に欠けるよね」
貝塚が目を細めながら冷たく言う。 まったくもってその通りだ。
…… 俺も半年前、 瀕死の状態でここに運ばれて、 何とか命を取り留めた一人だ。 あの時は助かって良かったって思ったし、 命を救ってくれたスタッフ達に心から感謝した。
でも、 目が覚めてから突き付けられた現実が辛くて、 逃げだしたくなって、 理不尽な世の中が嫌になって…… 死んでやろうなんて、 安易に考えついちまったんだよな。
いや、安易では無かった。 死にたいほど辛かったのだ。 でも自分の命を軽く考えていた事も事実だ。
きっと俺は自分の辛さを誰かに受け止めて欲しかったのだ。 貝塚の言う通り、誰かに自殺を止めて欲しかったのかもしれない。
なんて考えていたら、色々とどうでも良くなってしまった。
「あーあ。 何か先生見てたら、 死ぬの馬鹿らしくなってきたわ」
「なんだ、 死ぬのやめんの?」
貝塚が物足りなそうに俺を見つめる。 何だ? もしかして俺に死んで欲しかったんですかアンタ。
…… 俺は更に馬鹿らしくなってきた。
「やめるよ。 飛び降りてもちゃんと死ねるとは限らないし、 それに、 二度もここの救急のお世話になるのは、忍びないしな」
「ふーん、 そっか。 じゃあ、 ボクも死ぬのやーめた」
貝塚は俺に清々しい笑みを向けると、 金網をよじ登って安全なフェンスの内側へ、 ぴょんと飛び降りた。 俺はその動きをまじまじと眺める。 猿みたいな奴だな、こいつ。
「誰だ? 誰かそこに居るのか?」
貝塚がフェンスの内側に降り立ったのと時と同じくして、 昇降口の扉がゆっくりと押し開かれた。 どうやら警備員が見回りに来たらしい。
「ん? ……あなたは」
警備員が持つ懐中電灯の光が、 貝塚の顔を照らし付けた。 貝塚は眩しそうに目を細める。
「救急部の貝塚先生じゃないですか! こんな所で何をしてらっしゃるんですか?」
「えっとねぇ…… あの患者が自殺しようとしてるからぁ、 今必死に止めてたトコ」
そう言って、 貝塚がフェンスを隔てた俺を指さす。
え…… 今なんて…… ?
「5B病棟の磯谷さんだよ。 生きているのが嫌で死ぬんだってさ」
警備員の懐中電灯の光が、 貝塚から俺へと移動する。 ていうか、 どうして貝塚が俺の名前と病棟を知ってるんだ?
「いいい、 磯谷さん! 自殺なんて馬鹿な事は考えちゃだめだ!」
「いやいやいや! 俺は別にもう死のうとは思ってないし!」
「はい、 これ遺書ね」
貝塚が手に持っていた俺の遺書を、 警備員に差し出した。
何話しをややこしくしちゃってくれてんの! このお医者様は!
「たたたた、大変だぁ!」
警備員は血相を変えると、 遺書を握り締めたまま昇降口から走り去って行った。 静まり返る屋上。 貝塚が肩を揺らして、 くつくつと笑いだす。
「応援を呼びに行ったんだね。 こりゃ大事件になるよね」
「アンタがややこしくしたんだろうが!」
俺はフェンス越しに貝塚を怒鳴りつけてやった。 貝塚はパチパチと瞬きをして、びっくりした表情を浮かべる。
「ボクが悪いの?」
…… おんどりゃ、ガチでシバき倒したろか。
真夜中の空に、 救急車のサイレンの音が鳴り響いた。 遠くで赤色灯が移動しているのが見えた。 どうやら、 この病院を目指して居るらしい。
「あららー…… 急患かなぁ? 早く戻らないと怒られちゃうなぁ」
貝塚が踵を翻し、屋上を去ろうとした。 「待てよ!」俺は貝塚を呼び止めた。
「そういや先生は、何で死ぬの止めたわけ? 死のうとしてたんだろ?」
ふと頭に浮かんだ疑問を、 貝塚の背中に投げ掛けた。 貝塚は俺に背を向けたまま足を止める。
「だって、 一つ目の理由が無くなっちゃったから」
「無くなった?」
「半年前に助けた患者が死なないみたいだからもう良いんだよ。 それに…… 仮にお前が死のうとしても、 ボクは何度でもお前のことを助ける事にしたから。 じゃね、
貝塚はこちらに振り返る事なく、 昇降口から姿を消した。 俺は暫くの間、 昇降口の扉を茫然と見つめていた。 …… 貝塚の言葉の意味が、俄かには理解できなかった為だ。
でも、 その真意に辿り着いた時、 俺は堪え切れなくなって、 病院中に響き渡りそうな声で笑ってやった。
――あいつだったのか。半年前に俺の命を助けてくれた救命医は……
一人残された屋上で、 俺は暫く馬鹿笑いをしていた。 バタバタ―― 慌ただしい無数の足音がこちらに近付いて来る。 先ほどの警備員が、 看護師やら医者やらを引き連れて戻って来たのだ。 血相を変えて、警備員を筆頭に、 集まった職員達が声を強張らせながら俺に言う。
「きききキミ、 死ぬなんて考えちゃ、 だ、 駄目だぞ!」
「さぁ、 こっちに来るんだ!」
「いいい磯谷さん! 死んではだめよ!」
看護師が、 恐る恐る手招きをする。 俺は目を細めると、 地上を覗き込むような動きをしてみた。
「やめろーー!」
皆が同時に悲鳴を上げた。 その反応が面白くて、 俺は噴き出しそうになった。
…… というか、よくこんな高い所から飛び降りようと思ったな。怖い怖い。
もし本当に俺が自殺をしていたら…… 貝塚も患者、 つまり俺を追ってここから飛び降りていたのだろうか?
一人の患者を後追いするなんて考えられないし、 そんな事は有り得ないだろう。 でもこれだけは分かる。
…… きっとあいつは……
『うわぁああん、 ボクが助けた患者が死んじゃったよぉー !』
とか何とか言って、 子供みたいに泣いて、 救えなかった自分自身を責めていたのだろう。
この世界は生きていてもくだらない。
恵まれている人とそうでない人間の差が大きすぎる。
なーんて思っていたけど。
俺の為に、 馬鹿みたいに鼻水や涙を流してくれる奴が一人でも居てくれるんだって思ったら……
こんな世界もそんなに悪くは無いかな?
なんて思えてきた。
よし、 自殺は保留にしておこう。
だってここから飛び降りてまたあいつに助けられるのも、 なんだか…… カッコ悪いもんな?