3:お好み焼くでイソタニさん

文字数 8,834文字

 俺の実家である「お好み焼くでイソタニさん」は、 俺が生まれた二十一年前に開業した。
父、 磯谷元気(いそたにげんき)は生まれも育ちも岸和田市。 趣味は野球観戦で、 好きな球団はタイガーズ。

生粋の“大阪人”であった父がこの緑丘に移り住んだのは、 今から三十五年前。 父が十六歳の時だ。
 今では緑丘市をこよなく愛する父が、 タイガーズが優勝した三十八年前に“ハーズ・掛石・岡畑”の『バックスクリーン三連発』を甲子園で拝めなかった事だけが、 唯一の心残りであると今も悔しそうに言う。

 洋菓子店で購入した菓子折りと日本酒を片手に、 俺は四ヶ月ぶりに「お好み焼くでイソタニさん」の看板が掲げられた店の前に立っていた。
 職業柄、 世間で言う所の『ゴールデンウイーク』とは無縁なのでまとまった休みは諦めていたが、「実家に帰って親孝行してこい」という、 野津隊長と稲葉先輩の計らいで、 大型連休最後の三日間、 休暇をもらう事ができたのだ。
 最後に家族と顔を合わせたのは、 確か正月だったか……。


「ただいま」


 店の引き戸をガラリと開けると、 店の奥の廊下を横切ろうとしていた笑美(いもうと)と鉢合った。
磯谷笑美(いそたにえみ)、 十六歳。 磯谷家の末っ子だ。 高校のお受験がどうのって、 元旦から教科書片手にお雑煮を啜っていた。 念願の学校に合格して、 今は高校生活を謳歌しているはず。


「うわ直兄ッ! チョ~会いたかったぁ!」


 笑美は俺の顔を見るなり高く声をあげた。
 俺は玄関に腰を下ろして靴を脱いだ。 笑美が体重を押し乗せるように俺の背中に抱き着く。 甘えん坊な妹に、 俺は問いかけた。


笑美(えみ)、 高校は楽しいか?」
「バブルしてるー。 ツレもいっぱいできたし、 まさに人生満喫ってカンジ? みたいなーっ!」
「お前、 さては 遊んでばっかだろう? 髪まで染めちまって…… 不良にでもなるつもりか?」


 正月に会った時は黒髪おさげだった笑美。 自宅着はもっぱら学校のジャージ姿で田舎の女子中学生だった妹も、 たったの四ヶ月で渋谷系ギャルに大変身だ。


「見てよ直兄、 これ流行ってんの。 バリかわちぃっしょ?」


 笑美が歌劇団も驚きのバサバサな睫毛を揺らしてウインクした。 容姿は勿論だが、 心なしか喋り口調までも変わった気がする。 ……どんな奴と友達になったのだろう。 バリ不安だ。


「父さんと母さんは?」
「リビングに居るよ! ダディマミー、 直兄が帰って来たよー!」


笑美が走って奥の居間へ向かう。 俺は脱いだ靴を揃えながら、 ゆっくりと後を追った。


「あら直くん、 お帰りなさい」


 笑美の言葉を聞いた母さんが、 台所から出てきて俺を迎えてくれた。 父さんは居間に座って、 卓袱台に肘を置きながらビール片手に野球中継を見ている。


「ただいま母さん。 久しぶりかな?」
「お正月以来ですものね。 全然帰って来てくれないからマミーは寂しかったです」


 涙を拭う素振りをしながら、 母さんの視線が俺の手荷物に集中している。 俺は思い出したように菓子折りの方を差し出した。


「仕事が始まる前に一度帰ろうとは思ってたんだけど、 引っ越しやら何やらでバタバタしちゃってさ。 ごめんな」
「まー、 笑美ちゃん。 お兄ちゃんがお菓子を買ってきてくれましたよ。 お礼を言ってくださいね」
「ありがと直兄! って、 マカロンの詰め合わせじゃん! 直兄ちょっと意識高い系ってカンジ、 マジウケるぅ!」


 笑美が早々に菓子折りの封をビリビリと開ける。 母さんは「洋菓子なら珈琲か紅茶ですね」と呟きながら、 ポットに火をかけてお茶の用意を始めた。
 俺は居間に進んで、 父さんの向かいに座った。


「タイガーズ勝ってるの?」


 俺は手土産である日本酒の一升瓶を父さんの前に置いた。 いつもは剽軽な父さんが、 険しい表情で画面を見たまま、 重く口を開いた。


「開幕戦は調子良かったのに、 ここ数日は連敗ですわ。 今日はあんな感じや」


 父さんが顎でテレビを指す。 俺はテレビ画面に目を移した。 今日のタイガーズの対戦相手は、 宿敵シャイアンツ。 伝統の一戦、 というやつだ。 試合状況は……


「七回表で六対一か……。 この点差だとタイガーズの負けかな?」
「ド阿呆がッ! 野球はラッキーセブンからが勝負なんや! 甲子園には魔物がおんねん! 奇跡が起きてもおかしないんや! ……どや賭けるか?」


 些細な事でも賭け事をしたがるのは、 父さんの昔からの癖だった。 これは不器用な父さんが親睦の為に使うギャグの一つだと、 俺は思っている。


「いいよ。 じゃあ俺はシャイアンツが逃げ切る方に五百万円」
「タイガーズのサヨナラ勝ちに同じく五百万円や」


 この場合の“五百万円”とは“五百円”の事を意味する。 関西のローカルギャクをサラっと使いこなす俺。 伊達に、 父親の血は流れちゃいない。
 珈琲カップとグラスを乗せたお盆を持って、 母さんも居間へやってきた。 母さんが俺の前にはグラスと枝豆を。 自分の前には淹れたての珈琲を置いた。


「ほら笑美ちゃん。 お兄ちゃんにビールをついであげてください」


 母さんが台所に立っている笑美を呼んだ。 少し恥ずかしそうにモジモジしながら、 笑美が俺の横にちょこんと座った。


「言っとくけど、 笑美が注いだら高いんだよ?」
「ぼったくり嬢かい」


 笑美が俺のグラスにビールを注いでくれた。 さすがお好み焼き屋の看板娘。 ちゃんと店の手伝いをしてるだけの事はあって注ぎ方は完璧だ。


「笑美、 部活には入ったのか?」
「うん手芸部に入った」
「ギャルってるくせに地味だなお前。 つーか、 お前が入学したのは音楽学校だろ? なんで手芸部なんだよ」
「いいのー。 笑美の唯一の得意分野なんだもん」


 まぁ確かに。 手芸以外はさほど取り得が無かったな。……あぁ、 そうだ。 手芸だけが得意な妹に、 ひとつ頼みがあったのを思い出した。


「笑美、 ワッペンって作れるか?」
「ワッペン?」
「そう、 カッパの…… こんな感じのワッペンなんだけど」


 そう言いながら、 俺は職場や星辰医科大学で何度も見たカッパのイラストを、 新聞広告の裏面に殴り書きした。
 絵心が皆無な俺のイラストを目にして、 笑美が微妙な表情で笑った。


「なにこれ、 キメラ?」
「カッパだよ」


 俺はきっぱりと言い放った。 歪な線で描かれた広告のイラストを見据えながら笑美が唸った。
 俺は口頭でカッパの容姿を伝え直す事にした。 もっと可愛い感じで、 ゆるキャラで居そうな…… などなど。

「なんとなくで良かったら、 作れないこともないけど……」
「助かるよ。 こういうのはお前にしか頼めないからな」


 俺が言うと、 笑美は難しい顔をしてスマートフォンを触り始めた。 カッパのイメージを練っているのか、 友達と連絡をとっているのかは謎だ。
 …… ふと思い出した様に、 俺は室内を見渡した。



「そう言えば拓哉は?」


 グラスに口を付けながら母さんに問いかける。 少し困ったように、 母さんは笑った。


「実は拓ちゃん、 全然家に帰って来ないんです」
「え? いつから?」
「もう半月くらいになりますね」


 母さんが、 ティースプーンでカップを掻き混ぜながら呟いた。 俺の土産の菓子折りを抱えながら、 笑美が居間に戻ってきた。


「タクくんね、 ヤンキー友達の家に入り浸ってるらしいよ」
「は? あいつまだ暴走族なんかに入ってんのか?」
「確か今は特攻隊長に昇格してたはず」
「…… ったく、 高三にもなってなに粋がってんだ」


 俺は思わず項垂れた。
 父親の野球好きの影響を受けて、 拓哉は幼い頃からプロ野球選手になる事だけを夢みてきた。 ポディションはピッチャー。 中学校ではリトルリーグを優勝に導いた立役者だ。 幾つかの高校からスポーツ推薦枠で入学の誘いもあった。
真面目な野球少年だった拓哉。 その夢を砕いてしまったのは、 他でも無い俺だった。

俺が高校三年の時に遭遇した不慮の事故。 相手が政治家の息子であったのが不運で、 俺は訴訟を起こされた。 目立ったニュースが無かった次期も祟ってか、 メディアは面白がって、 事故のニュースを晒し上げた。 ある事ない事、 週刊誌に書き殴られた。

 俺は就職の内定が取り消しになった。 そしてその皺寄せは、 弟の拓哉にまで及んだ。 拓哉のスポーツ推薦が突然取り消しになったのだ。 高校側は取り消しの理由を述べずの言葉を濁したが、 理由は分かりきっていた。 原因は俺にあるのだろう。

拓哉は、俺が星辰医科大学に入院していた時、 俺の病室にやってきてグローブを投げ付けた。 俺がバイトの初給料で買って、 拓哉にプレゼントしたグローブだった。


「この疫病神ッ! お前なんか死んだら良かってん!」


 泣き叫んだ拓哉の悲痛な顔と声は、 今も俺の記憶に痛く刻み付いている。

 ―― 公立の普通科に入学した拓哉が、 所謂“不良デビュー”を果たしたのも元を辿れば俺の責任だ。 俺が事故に遭わなければ、 拓哉は今頃、 夏の甲子園に向けて練習に励んでいた事だろう。
 拓哉の顔から笑顔が消えたのも、 野球選手の夢を絶ってしまったのも…… 原因を辿れば兄の俺に辿り着く。
 テレビから流れる野球中継は、 いつしか八回表まで進んでいた。 六対三。 七回裏でタイガーズは一点を奪い取ったが、 依然としてシャイアンツが有利な状況だ。


「…… その、 あれやな」


 俺が思いつめた様な顔をしていると、 向かいに座ってる父さんが咳払いをしながら話し出す。


「男にはな、 悪ぶってみたい時期ってのがあるもんや。 直哉かて中学の時に煙草吸っとったやろ。 それと同じや。 せやから、 あいつがグレとんのは誰の所為でもない。 まぁ、 そういうこっちゃ」


 ぎこちなく言いながら、 父さんはビールを煽った。 そういうこっちゃ、 いや、 どういうこっちゃ。
 恐らく父さんは、 俺に「自分を責めるな」と伝えたいのだろう。 相変わらず不器用な父だと思った。 空になったジョッキを机に置いて、 父さんは言葉を続ける。


「ワシかて高校時代はツッパリやっとったんやで?」
「え、 なになに!? それ初耳なんだけど! ダディ野球部だったんじゃないの!?」


 笑美が興味深げに机から身を乗り出した。


「あら元気さんは不良だったんですか? 知りませんでした」


 母さんが珈琲を啜りながら他人事の様に言った。 父さんは少し誇らしげに、 口端を吊り上げて笑った。


「ワシは長ランとリーゼントで渋く決めた、 部活も不良も両立する正統派のツッパリやったんやで?」


 なんだそれ。 思わずビールを噴出しそうになった。


「ダディ! アレかな!? 金蠅のツッパレハイスクールズ的なカンジかな!?」


 笑美の言葉に、 父さんが「それや」と頷いた。 八十年代の横浜金蠅を引き合いに出すのが、 我が妹ならがに面白い。
 笑美が目をうっとりさせた。


「笑美はお堅い昭和のヤンキー好きだなぁ、 渋いし根性座ってそうだし、 恋人になったら大切にしてくれそうだもんね」
「まずヤンキーって選択枝を外せ不良娘」
「真面目だけじゃ面白くないじゃん? 直兄タイプの真面目クンなら、 笑美は歓迎してあげてもいいんだけど?」
「そりゃどうも」


 こいつは近い将来、 どんな奴と付き合って結婚するのだろうか。 高校生になった途端、 阿呆そうな発言が増えた様だが…… 人を見抜く力は衰えていない事を信じたい。
 俺達の話しを黙って聞いていた母さんは、 唐突に大きな溜め息を漏らした。


「拓ちゃんがそういうのに憧れるのは仕方ありませんけど、 遊んでばかりで就職できなかった時が心配ですね」
「そん時はウチの看板継がせたらエエねん」
「元気さん、 拓ちゃんはお好みは焼けませんよ? いつも引っくり返すのを失敗して“もんじゃ焼き”にしちゃうんですから」
「ほなもんじゃ焼き屋に屋号変えたれや。 腹ん中に入ったら何でも同じや」
「そうですね、 もう元気さんたら天才だわ」
「ワシも自分の知恵の深さが末恐ろしいわ」


 うちの両親の心の広さは、 まるでユーラシア大陸だ。 笑美がギャルに豹変しようが、 拓哉が暴走族に入ろうが、 決して俺達の生き方を否定する事は無い。
 思えば、 事故を起こした俺を責めるずに優しく見守ってくれたのも…… 救命士になりたいという俺の夢を無償で応援してくれたのも、 この両親だった。


「あら元気さん、 満塁になってますよ!」


 母さんがテレビを見て声をあげた。 テレビの野球中継は最終回の裏。 二死満塁を迎えていた。 もし次の打者がホームランを打てば、 一気に四点追加でタイガーズの逆転サヨナラ勝ちだ。


「うわうわーっ、 チャンスきてるじゃん! 次のバッターだれ?」


 笑美の手に貼り付いていたスマホは、 いつの間にかちゃぶ台の上に置かれていた。 俺達の会話は自然と野球中継に移り変わる。
 父さんがテレビを見たまま呟いた。


「代打を送るやろな」
「代打と言えば影山だな」


 俺は打者を予想した。


「対抗馬でルーキーの嘉納くんかもしれませんよ」


 母さんが珈琲を啜った。


「いや、 スズはベテランの留目じゃないかなぁって思うんだよね」


笑美は卓袱台に頬杖を付きながら言う。
“#虎吉__とらきち__#”の父さんや、野球少年の拓哉の影響を受けてか、この家の人間は野球の知識(主にタイガーズ)が無駄に深いのが特徴だ。

 俺達は次に打席に現れるであろう代打を待った。 しかし、 打席に姿を現したのは“虹野”だった。
#虹野栄治__にじのえいじ__#。 俺達の住む緑丘市出身の選手が、 事も在ろうかここ一番の大勝負の舞台に代打として現れたのだ。
 俺と笑美は、思わず「はぁ!?」と身を乗り出した。


「おいおい、 ここは影山だろ」
「ハイ出ましたー、 岡畑監督の謎采配」


 俺と笑美が不服そうに言った。 甲子園球場もブーイングが起こっているようで、 テレビ音声から野次や怒号が飛び交っていた。 騒音に被さる様に、 テレビの実況アナウンサーと解説の元プロ野球監督の野々村がコメントする。


『代打の神と謳われる影山を使わず虹野を采配したタイガーズの岡畑監督。 解説の野々村さん、 これをどう見ますか?』
『なんだろうねぇ。 僕には分からないねぇ。 アレかな、 岡畑監督は、 虹野選手が稀に起こす“奇跡”にでも期待してるんじゃないんかなぁ?』
『永遠の高校球児の異名を持つ虹野は、 ここぞという場面で高校野球の様なドラマティックな試合展開に導くことで有名です』
『それも稀にだけどね』
『えぇ、 極稀に』


実況も解説も言いたい放題だ。 しかし、 この『稀に』と言うのが虹野が持つ不思議な魅力の一つでもある。

 虹野はここぞという場面で、 極稀にタイムリーを打つ。 虎吉の多くは虹野の活躍に愛想を尽かしているが、 野次や他人の評価に心乱される事無く、 飄々淡々と己の道を突き進む虹野を支持するコアなファンも多い。 父さんや拓哉も、 そのコアなファンの一部だ。
 アナウンサーが実況を続ける。


『この回を抑える投手は、 今季より大リーグからシャイアンツに移籍となった守護神、 ルーク・マルセス。 球界のエリートコースを歩いてきた若き英雄が、 なぜ海を渡ってこの日本プロ野球界に固執するのか。 その理由はひとつ。 英雄マルセスの不敗神話を打ち砕いたのが彼、#虹野栄治__・__#に他ならないからです』


 虹野は決して華があるような選手ではない。 しかし度胸だけは一人前だ。 そして、 ここぞと言う時には稀に奇跡を起こす。 そんな虹野の背中に、拓哉はずっと憧れてきた。
 アナウンサーの声が光る。


『伝統の一戦においての宿命の対決、 試合は二死満塁でタイガーズにとっては最高のチャンス襲来。 役者は揃い、 舞台も整いました。 五年前のWBCで起こした奇跡の再臨となるか! 注目の一戦、 ピッチャーが第一球を、 投げました!』


 第一球目のスライダーは、 ワンバウンドしてキャッチャーグローブに飛び込んだ。 ワンボール。
 数々の死戦を潜り抜けてきたであろうマルセスも、 プレッシャーを感じているのか。 それともワンバウンドでさえも計算の内か。 第二球目、 真ん中に投げられたストレートを、 虹野は不動のまま見送った。


「なにしとんねん虹野、 今のは打てるやろうが!」


 父さんがテレビに向かって吠えた。 ワンボールワンストライクだ。 第三球目、 外角低めへ沈むチェンジアップにバットが空を切る。 ワンボールツーストライク。
 アナウンサーと解説の野々村が「あーあ」と落胆の声を漏らした。 ベンチから身を乗り出していたタイガーズの選手達は、 がっくりと肩を落す。
 岡畑監督は瞼を伏せた。……寝てんのか?

虹野は表情ひとつ変える事なく、 飄々と素振りを二回繰り返して打席に立った。
第四球目、 内角高めのストレート。 虹野は果敢にバッドを振った。 打球音が響き渡って球はレフトの外野に運ばれる。 ファウルボールだ。
第五球目と六球目、 虹野はバットを振らずに見送った。 いずれもボールだが、 六球目の判定はストライクゾーンか否か、 チャレンジが要求されるほど際どかった。


「あーあ、 こりゃ詰んだな」


 フルカウントを迎えて、 俺は諦めたように呟いた。 笑美も「人生って漫画みたいに甘くないからね」と悟った様に言った。


「マルセスさんはカッコイイですけれど、 強すぎるのも面白くないですね。 マミーいっそ、 マルセスさんの推しになろうかしら…… イケメンですし」


 母さんはつまらなさそうに皮肉を吐いてマカロンを頬張った。 両頬が膨らんでハムスターの様になっている。

パターン的に言えばタイガーズの黒星は確定した様にも思えた。

 しかし、 父さんは瞳の深くに輝きを宿しながら、 テレビ画面の一点を強く見据える。 既に諦めてしまった俺達とは違い、 父さんだけは虹野が起こす奇跡を深く信じている様だった。
 父さんが低く囁いた。



「人生は下駄履くまでわからんもんや」


 今と同じ言葉を、 過去の父さんも言った。 五年前のWBCでの事だ。
 絶体絶命の九回裏二死満塁、 米国の英雄守護神であるマルセスと対峙するのは、 侍ジャパンの、 名も無き代打だった。
 俺達はテレビ画面を、 絶望混じりの虚ろな瞳で見守っていた。 拓哉は涙を拭いながら侍ジャパンが辿るであろう結末を悔しがっていた。 そんな拓哉に、 父さんは今と同じ台詞を囁いた。 その数秒後、 英雄マルセスの不敗神話を名も無き代打、 虹野栄治が打ち砕いてホームランを放った。 まさに奇跡の一打だった。


 第七球目、 マルセスが投球ポーズを取り、 投げた。
 虹野が、微かに笑った――

  虹野がバットをフルスイングするのと同時に、 乾いた打球音が響いた。 飛んだ球は大空に高く舞い上がって見えなくなった。 内野手は揃って天を仰ぎ、 球の落下を待った。 フライか? …… いや、 違う。 打球はゆっくりとレフトへ伸びている。 左翼手が上空を見上げながら、 打球を追ってゆっくりと後ろに下がった。 しかし打球は更に伸びていた。 左翼手は慌てて後方に走った。 しかし、 その足は諦めたように歩みを止めた。
 大きな虹のアーチを描いた打球は、 フェンスを越え、 客席を越え、 後方に設置された看板の中央に直撃して、 落ちた。

 父さんが膝を叩いて吠えた。


「よっしゃもろた!」


 その声に続いて、 テレビ画面の向こうから大歓声が沸き起こった。


『何と言う事だ虹野! 何をしてくれるんだ虹野! 代打で満塁サヨナラホームラン! まさにWBCの再臨となりました! これぞ永遠の高校球児の異名を持つ男です! 甲子園の魔物とは虹野の事だったのでしょうか! 六対七でタイガーズの逆転サヨナラ勝ちです!』

――…… 嘘だろおい。

 高校野球というよりも、 漫画の様な試合展開だった。 優勝騒ぎの様に歓喜に狂う客席や実況とは打って変わって、 虹野は涼しい顔でゆっくりと塁を蹴ってホームベースを踏んだ。
 待ち構えていた選手達に囲まれる虹野の姿が、 テレビ画面いっぱいに映し出された。

 俺達は唖然としながら、 それを見るしかできなかった。


「ヤバイ…… ヤバイヤバイ! 虹野マジヤバイんだけど!」
「あら~ あらあら、 元気さんタイガーズ勝っちゃいましたね!」


 父さんはビールをジョッキに並々と注いで、 一気に飲み干すと、 空になったジョッキをちゃぶ台に叩くように置いて、 口端を吊り上げて笑う。


「野球の試合は人生の縮図みたいなもんや。 人生も試合と同じで、 下駄履くまで何が起こるか誰もわからん。 お前らも覚えとけよ」


 これまで虹野が起こしてきた奇跡を何度も目にしてきた父さんだから、 絶望的な状況であっても奇跡を信じる事が出来たのだろうか。
 呆然とテレビ画面を見る俺を、 父さんは意地の悪い笑みを浮かべて見つめながら、 テレビ横に置いてあった豚の貯金箱を手に取って机に置いた。


「ほら直哉くん、 いつもニコニコ現金払いや」


 俺はズボンに突っ込んであった五百円硬貨を豚の貯金箱の中に落とした。 チャリンという音を立てて硬貨は豚の内部へと沈む。


「まいどおおきに」


 父さんは何処ぞの金貸し帝王宜しく、 歯茎を出してにんまり笑った。


「父さん」
「なんや、 返金はせぇへんで。 この豚さんがもっと肥えたら家族旅行に行くんや」


 父さんが豚の貯金箱をジャラジャラと揺らしながら言う。 そうじゃないと、 俺は首を振った。


「…… 拓哉も一緒に見たかったな。 今日の野球中継」


 俺が呟いたら、 父さんが小さく頷いた。
 少し切ない空気が、 俺と父さんの間に流れた。
 


【05.04 ...Last 78day】
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登場人物紹介

【磯谷 直哉*いそたに なおや】

緑丘消防に所属する救命士の青年。 十八歳の時に事故に遭い、 星辰医科大学病院に搬送された。 


【貝塚 真緒*かいづか まお】

星辰医科大学病院附属高度救命救急センターで勤務する医師。 麻酔科と救急部を兼任している。

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