第3話 蛍光灯の口癖

文字数 3,743文字

給料を貰った直後にパチンコで大敗してしまった。かろうじて家賃や電気、ガスなどの光熱費は支払えたものの携帯代が滞った。しばらくの間(携帯代を支払うまで)着信は取れるがこちらからは電話できない、という状態になったのだ。

恥ずかしいことであるし、もちろん都合が悪い。だが、それでも着信を受けれるだけまだましか、と開き直ることにした。

ということで仕方なし、次の給料日までの辛抱だ、と思って俺は電話のない日々を送っていた。

その日は残業で家に帰って来たのが夜遅くだった。二十四時間営業のスーパーで買った半額の弁当を食べ、シャワーを浴びてすぐに寝るつもりでいた。

浴室から出て、ふと携帯電話を見るとランプが点滅している。シャワー中に着信があったことを示していた。

確認すると姉からだった。両親が死んで唯一の肉親。十歳離れた姉は嫁ぎ先から時折こちらの近況を気にかけて電話をくれた。

しかし、この時期にタイミングの悪いことで、俺は舌打ちをしてしばし途方にくれた。

とにかく、こちらから連絡できないわけで、どうしようもない。また掛かってくるのを待つか、明日公衆電話からでも電話するかである。結論として、姉貴だし放っておこう、ということだ。

と思ったが、ここで邪な考えが浮かんだ。姉貴にお金を借りよう、と。できることなら生活費プラスおこずかい。最悪でも携帯の代金だけでも借りられれば御の字だ。

この名案はいたく心を弾ませ、残業の疲れなどぶっ飛び、俺は意気揚々とジャージに着替えて外に出たのだった。






公衆電話は近所のパチンコ店の前にあったのを覚えていた。暗く静まりかえったパチンコ店の前でその公衆電話のボックスは一際光輝いて見えた。

俺はボックスの中に入った。懐かしいな、と何十年かぶりに利用するそれには若干の感動を覚えた。

受話器を取り、硬貨を投入口に入れる。姉が承諾してくれたら彼女の家の近くまで行こう。少し距離はあるがお金のためだ。などと、皮算用的なことを考えていたら、受話器から音がしていないことに気付かなかった。受話器を戻し、何回か同じように繰り返したが結果は変わらない。故障中なのか、もう使用されていないのかわからないが、とにかく俺はボックスの外に出た。

携帯電話の普及が公衆電話の数を減らしているのは知っていた。その数少ないそれは、ここから離れたコンビニの前にあったような、なかったような、あやふやな記憶でしかない。

当てが外れた落胆は仕事の疲れをぶり返させた。だから、引き返してもう寝よう、と思った。

それで、帰りかけたとき、すぐ先の電信柱の陰に電話ボックスが見えた。運が良い、と少しの疑問も抱かずに俺は素直にそう思った。

普段、携帯電話があるから公衆電話は気にも留めない。それで、今まで気が付かなかったのか。俺はその電話ボックスに向かった。




だか、間近で見て、ぎょっとした。電話ボックスのガラスは汚れでくもっていて、中の照明はチカチカと点滅している。その照明の周りは蜘蛛の巣だらけで、床にはスナック菓子の空き袋や週刊誌、それに折れた傘などが散乱していた。そして、何よりも驚いたのが電話ボックスのガラスに書かれた落書きだ。赤いマジックで大きく「危険!」と書かれていた。

何が「危険」なのかわからないが、さすがに入るのは躊躇した。それにボックス内の荒れ模様は明らかに故障以前の問題である。廃墟の電話ボックスバージョンだ、と思って俺は戦いていた。

その電話ボックスは見なかったことにして、帰るつもりで歩き始めた。入ったところで繋がらないだろうし。

だが「やっぱり、お金がほしい」と思って立ち止まった。それも、今夜中に。お金があるのとないとでは心理的に活力が違うのだ。最悪、携帯代金だけでも。

俺は戻って電話ボックスの前に立った。何とも禍々しい佇まいであるが意を決して中に入った。

何かが腐敗した臭いと埃っぽさに思わず顔をしかめた。多分駄目だろうという思いは強いが、受話器を取って硬貨を入れた。

ブー、と音がして、番号のボタンを押すと電子音が鳴った。俺はほっとしながら姉の携帯の番号を押した。

それでも、まだ安心はできない。誰からなのかわからない公衆電話からだと不信がって出ないかも知れない。でも、姉貴なら気づいてくれるはずだ。弟のピンチを。そして、お金を貸してくれ……

そんな不安を他所に数コールで繋がった。

「良かった。俺だよ。公衆電話だし出てくれないかと思った。」

電話口の向こうではゴゥゴゥとくぐもった雑音が響いて、姉貴の声はぼそぼそとしか聞き取れない。外にいるのか風が吹いているような音に聞こえた。

「今どこ?それって風?全然声が聞こえない。俺の声は聞こえる?」

「……」

やはり(風か?)雑音が大きくて、姉の声がはっきり聞こえない。

「何言っているのかわからない。俺、携帯止められてしまって、だから公衆電話からかけているんだ。」

「……」

苛立ちが募ってきた。堪えなければいけない立場だが、残業で疲れていたし、明日も早い。

「……」

諦めて、もう切ろうかと思った。その時、

「後ろ!」

え……

雑音が消えて、受話器からはっきりと聞こえた。

「私、後ろよ!」

姉の声のようであったし、だが別人の声のようでもあった。姉の声に間違いないと思うが、それならなぜ俺の居場所がわかったのか?たまたま通りがかかったのか?様々な疑問を振り払い、恐る恐る振り返った。

電話ボックスの外に女の人が立っていた。姉ではない。汚れたTシャツにスカートから伸びた素足は針金のように細かった。それに何よりも首から上が見当たらなかった。

うわっ、と声を上げ、俺は思わず受話器を離した。

きゃはははは!

下の棚に当たって、派手な音を立てた受話器から女の狂ったような笑い声が響いた。

すかさず出入口のドアを開かないように押さえた。恐怖で身体中が震えたが、女を中に入れないことに必死で、俺は叫び声を上げることも忘れていた。本体から垂れ下がってユラユラと揺れている受話器からは女の笑い声が続いている。

バン!

女が電話ボックスのガラスを両手で叩いた。細い腕のどこにそんな力があるのか、大きな音が響いた。

ひっ、声を漏らして俺はへたり込んだ。腰が抜けてしまったのだ。かろうじて、片足を伸ばして力を入れドアを開かないようにした。


女が再び、バン!、と叩いた。

逃げ場はない。ドアを開ければ女が入ってくる。その前に俺は腰を抜かして動けないのだ。

いつの間にか電話ボックスを猫が囲んでいた。白い猫や黒い猫、ブチ模様の猫などが何十匹もびっしりと体を寄せあって並んでいる。中には立ち上がってガラスにガリガリと爪を立てている猫もいた。その猫達の赤子のような鳴き声があちらこちらから聞こえ不気味な雰囲気を醸し出している。

異様すぎる光景に俺は泣いた。助けて、助けて、と無意識に呟いている。女は三度、四度と何度もガラスを叩いた。しばらくして、受話器の笑い声が止まった。

「上……」

俺の耳元でぶら下がっていた受話器から聞こえた。言われるまま、誘導されるように俺は上を見た。

天井一面を覆い隠す大きな女の顔がそこにあった。満面の笑みを浮かべている。その顔が大きく口を開けて威嚇するように俺を睨んだ。

天井の女の顔には見覚えがあった。いや、見知った顔だった。

それは姉の顔であった。

きゃーははは!

ひときわ、大きな笑い声が受話器から聞こえて、そこで俺の意識は途切れた。









気が付くと空が白くなっていた。

俺は電信柱に背中を預けて座りこんでいた。ひどく腰が痛い。足も痛くて、立ち上がろうとしてよろけた。それでもなんとか電信柱を支えに立つことができた。

辺りを見回してもどこにも電話ボックスはない。もっともそんなもの見たくもないが。

すると民家の塀の上にいた猫と目があった。真っ黒の毛並みのその猫は怯えたように身をすくますと塀の向こう側に消えていった。


俺は昨夜の恐怖が甦り、逃げるようにその辺りから離れた。








後日、姉が家に来た。電話をしたが折り返しの電話がなかったことを気にかけ、ついでに飯でも作ってあげようとやって来たのだった。

俺は信じてもらえないことを念頭に、体験した出来事を話した。姉が言うには、その夜に公衆電話からの着信なんてなくて、俺の返信を待つ間に眠ってしまったそうだ。

姉は俺の話を聞きながら、その節々で信じているのか、いないのか分からない微妙な顔で頷いていた。

「猫ならあり得る話ね。」

最終的に信じてくれたようだった。姉が猫を嫌いなのは知っている。その理由も。彼女が小学生のとき、友人の家からの帰宅途中、道の真ん中に一匹の猫がいた。その猫が人間のように満面の笑みを浮かべて「きゃはははは!」と笑ったのだそうだ。それを見て以来姉は猫が苦手になってしまった。

「とにかくパチンコは禁止。」

姉がいたずらっぼく笑って言った。

「わかってる。いろんな意味でもう懲りた。」

姉が爆笑し、つられて俺も笑ってしまった。









姉が帰り際、玄関から出るとき、

にゃーお

と言った。

えっ?と思わず俺は口にした。


「冗談よ」

振り返った姉の顔は無表情でその目がキラリと光ったように見えた。

確認する間もなく、玄関のドアは閉められてしまった。

あっ、とそこでお金を借りるのを忘れてしまったことに俺は気づいたのだった。

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