まえがき

文字数 1,793文字

「世界中どこにでもあるような小さなものでも、とても特別なのだ」
「この世には、生きたくても生きられない人がいるんだ」
そんなどこかのお偉いさんが言いそうな、世間受けするメジャー曲の歌詞にありそうなセリフも、夏の太陽は己もろとも焦がしていく。
とある地方都市のビルの谷間。毎朝7時の通勤の為に歩いている僕も、その例外ではない。
首筋に汗がつたうのを煩わしく思いながら、幅数メートルの大通りを突っ切り、街の駅の改札に向かう。
この地方都市の中では一番大きい駅だが、東京などの大都市の駅と比べると、まぁたかが知れてるよね。それでも通勤通学時間は混むんだけど。
改札を抜けて、いつも僕が通勤で乗る電車が来る1番、2番線のホームに歩みを進める。
毎朝ここからが少し大変なんだ。
改札からホームに向かう途中に凡庸な広間があるんだけど、幾つかの番線のホームを登り降りする人間が密集するんだ。だからその人混みの中をかき分けて進んでいかないといけない。
昔から人混みが苦手な僕からしたら、その作業だけでも吐きそうになるよ。
何故人混みが苦手なのか。それは後で話すよ。
それで今日も疲弊しながら人混みをかき分け、僕は駅のホームにたどり着いた。
ホームの真ん中に、発車時刻表の看板が立っている。僕はいつものように背負ったリュックサックを足元に置いて、看板に寄りかかって体重を預けた。鼻の下から吹き出す汗を半袖のパーカーの袖口で拭い、7時54分発の普通電車を待つ。
一応ホームにはベンチも幾つか置いてあるけど、いつもサラリーマンのおじさん達で満席だから、仕方なく看板に寄りかかって休んでいるんだ。
ズボンのポケットからスマホを取り出して、電源を入れて時間を確かめる。
電車が来るまで、あと4、5分あった。スマホをズボンのポケットに直す。
特に理由もないが、少し周りを横目で見回してみる。
このホームにいる大勢の人間達の半数以上は、近くの高校に通っている学生達だ。
4人ぐらいで集まってスマホゲームをしている男子達。
同じく3人か4人ぐらいで漫画を見せ合っている女子達。
逆に1人で参考書を熟読している生徒も何人かいる。
多くの学生達一人一人を見ていると、それぞれの学校生活での立ち位置というか、それぞれの青春を覗き見た気になる。それぞれの若い学校社会での格差みたいなものを見ているようで、少し胸が痛んだ。
そして何より、クソみたいな僕の学生時代、特に中学時代が思い出された。
何度も絶望した理不尽の数々。
そんな中でも僕に手を差し伸べてくれて、結局離れていった人達。
特にこの夏の暑さのせいで、とある夏の日々に逝ってしまった昔の知り合いの姿がちらついた。
僕は周りの学生達を見渡すのをやめた。
学生をずっと見ていたら、不審者扱いされそうだし。黒いリュックサックを背負い、帽子を目深に被っている僕の格好からして、初めから不審者と思われても仕方ないのかもしれないけど。
でも何より、これ以上昔のことを思い出して胸の痛みが続くのが嫌だった。
視線を前方に定めて、ぼんやりと見知った景色を眺める。
2つの線路を挟んで、3番、4番線のホームが見える。向かい側のホームは、少し離れた都市部へ向かう方面の為、多くのサラリーマン達が並んでいた。
手下げ鞄やリュックサックを持ち、スーツの袖を捲ったり軽装にしたりして、それぞれが少し険しい顔つきでスマホを眺めている。
きっと彼ら彼女らにとって、この生活はいつものことなのだろうな。
そう言う僕も、毎朝決まった時間に起きては仕事に向かって、駅のホームで乗る電車を待っているんだけど。
今の僕のこの状況も、なんてことのない、世界中どこにでもある光景なのだろう。
でも僕は知っている。
嫌ほど思い知らされた。
このありふれた光景も、かつての僕が夢こがれていた物なのだいうことを。
世界中どこにでもある光景も特別なものだと、そのことを否定できないことを。
今の僕だからこそ言える、今の僕だけの為の教訓だ。
こんなこと、あまり大きい声で言いたくはないさ。
昔の僕自身や、弱い立場の人や苦しんでいる人には口が裂けても決して言いたくない。
でもここまで来た僕にとって、それが真実だった。
そう思い知らされる出会いが、出来事が昔あったからだ。
そんなことを思いながら、目の前を通過電車が過ぎていく。
夏の風が僕の体を横滑りしていった。

これは昔の僕と、夏の日に逝ってしまった彼のお話し。
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