第1話

文字数 897文字

 ティーカップから立ち上る芳醇な香りを含んだ湯気が鼻腔を刺激する。春雄はひとしきり香りを愉しむと、ティーカップを口へ運んだ。
「いつもありがとう。毎日紅茶をいれてくれるのはとても嬉しいのだけれど、自分の用事をしなくていいの?」
 春雄は秋子に話しかけた。秋子はこの一ヶ月間、春雄の看護を担当している看護師だ。業務の看護の時以外にも、休憩時間や勤務明けなども春雄の部屋にやってきて話し相手になってくれる。
「私、他の看護師さんとのおしゃべりはあまり好きじゃないし、一人暮らしだから早く帰っても大した用事はないの。それに、こうしてあなたにお茶を飲んでいただくのがとても楽しいの」
 秋子にしてみれば思い切った発言だった。春雄に早く自分の思いを伝えなければ、あと五日で退院してしまう。
 いつもそうなのだ。懸命に仕事に打ち込み、好きな人に想いを打ち明けないでいるうちに、自分の前から消えている。でも、この人にはそうさせない、と秋子は考えていた。
 紅茶を飲みながら春雄は一ヶ月の入院生活を振り返った。毎日の退屈な繰り返しの中で、秋子の紅茶が、一番の楽しみだった。だが今は退院後の生活を思い描いている。
「私、実は明後日から整形外科病棟に配置換えになるんです。でも、退院までの間紅茶をいれに来ていいかしら」
「や、嬉しいな。ぜひお願いします」
 秋子の申し入れに、春雄はにっこり笑って答えた。
 秋子はこの病院ではとても優秀な看護師として重宝されている。それだけにいろいろな部署に配置換えになることが多い。

 三日後の朝、目を覚ました春雄はいつものように窓のカーテンに手を掛けた。カーテンからは朝の日差しが漏れている。カーテンを引くと、レールに何かがひっかかる。春雄は少し乱暴に引いてみた。すると上で何かが外れる音がして、吊り戸棚が落ちてきた。春雄はベッドとの隙間が狭くて逃げることが出来ず、頭をかばいながらベッドへ身を投げた。吊り戸棚には前の入院患者が残したらしい雑誌がいっぱい詰まっていた。その重さは足と膝を攻撃した。
 全治三週間の怪我だ。退院間近だった春雄は整形外科病棟へ移り、また秋子の篤い看護を受けることになった。
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