1.

文字数 1,207文字

春はまだ来ていなかった。

三月二日。
数ヶ月前どっかの国で唐突に発生してから急速に周辺諸国を飲み込み、つい先日この国にも上陸した新型感染症。
ここ数年で酷さを増している異常気象。
それらの話で世間は持ちきりだ。
どっかの国で発生した新型感染症は瞬く間に感染地域を拡大し続け、すぐ収束するだろうと言われておきながら、既に国内外で何人もの犠牲者を出す事態になっている。
異常気象に関しては、元旦を迎えた日から気温が二十度近くまで上がる暖冬かと思いきや、ここ数週間前には雪が降るといった状況。
三月に入ったかくいう今日も、冷たい北風が吹き空も黒い雲が垂れ込めていて、まだまだ春の訪れは遠く感じた。

誰も入り込まない、とある公園の緑地。
その緑地の中にある小さな拓けた草原と、その真ん中に立つ一本の大きな木があった。
春に向けて着々と花のつぼみをつけ始めていながら、続く異常気象で花開くことができずにいる桜の木だ。
その桜の木の太い幹に、僕は尻もちをつくように寄りかかっていた。

昨日、僕は山の中のある工業高校を卒業した。
だから今までの授業や実習に忙しかった学生生活と打って変わり、就職まで時間を持て余す事態になってしまった。
家でインターネットを見たり、音楽を聞いたりして過ごそうとしたが、何もかも行き詰まってしまう。
原因は明確だった。
変なオカルト宗教にハマりつつ子供に依存しきった親が一緒にいると正直うるさいし、また親がいなくてもその人が気に入った「格言」や親の仲間達からの僕宛の手紙が至る所に貼られていて、それが無数の目になって、いつも僕を見つめているんだ。
そういう物はもう気にしないと決心したのに、その攻撃に心の中では少し怯えていて、生きている心地がしなかった。
外へ遊びに行こうかとも思ったが、昨日の卒業式後に昼はクラスメイトとのカラオケ、夜は小学校からの親友との食事会の誘いがあり、今持ち金がある訳じゃない。
いや、別に一文無しという訳でもない。だけど、今残った貯金を切り崩してまで遊びたいとも思わなかった。
それで気がついたら、外套と帽子を身につけて、特に意味もなく歩き出してて、そして特に意味もなくこの桜の木の下に行き着いていたんだ。
いや、そうは言いつつも、実は本能的にここに来たかったのかもしれないとも思う。
何故なら、ここは色々と思い入れがある場所なんだ。

車のクラクション、信号の音、色んな人達の喋り声。
そういった街の喧騒を遮断し、そこに住まう生き物達の音で落ち着く雰囲気を作り出している、家近くにある公園の緑地。
一部赤土がむき出している所以外は、青く湿った草花が生い茂った草原。
周りの木々と離れ、草原の真ん中にポツンと寂しく、でもどこか勇ましく立つ一本の大きな桜の木。
実を言えば、ここは僕の半生で、一番綺麗な思い出と、同時に一番泣いた思い出が埋まっている場所なんだ。
もうすぐ三年近く経つけど、ベターな言い方だと今でも鮮明に覚えている。
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