6.

文字数 1,292文字

冷たい北風が頬をかすめる。
木や草花の匂いや、小鳥たちのさえずりを感じた。
僕は重たい瞼を力一杯持ち上げる。
横向きに寝ていたのか、まず桜の木の太い根が視界に飛び込んできた。
体を仰向けに直す。
つぼみをつけた桜の木の枝。その枝の隙間から差し込む日差し。
空は寝る前の曇天はどこへやら、綺麗な青空に変わっている。
どれぐらい寝ていたのだろうか。
時計になるような物を身につけていないため、明確な時間はわからない。
でも黒く垂れ込んでいた曇天が青空に変わっているのを見ると、それなりに時間が過ぎているようだ。
何か夢を見ていた気がするが、正直よく覚えていない。
でもどういう訳か、すごく懐かしい内容の夢だったのはうっすらと覚えている。
熱くなった目元と涙が頬を伝った後があることから、泣くほどの内容だったことも推測できる。
そろそろ帰るかと、寝転んでいた体を持ち上げる。
そのために、木の太い根の隙間に手を入れた時だった。
ひんやりとした感触を手に感じ、不思議に思いその隙間を覗いてみる。
日の当たらない、木の太い根の隙間。
そこには申し訳なさそうに、少量の雪が残っていた。
「幾ら数週間前に降ったからって、もう三月だぞ……」
僕はそんなことを呟きながら、その雪を手ですくってみる。
ひんやりと冷たく、でも何の汚れのない優しい温かさ。
その雪を見ていると、何故か雪音のことを思い出した。

「君自身の手で、君の春を掴んでね」

いつ言われたかわからない、でも確かに僕に言ってくれた雪音の言葉が脳裏でリピートされる。
その言葉が脳裏で反響していくうちに、その言葉が、何故か希望に満ちた言葉に思えてきた。
そしてあっという間に目元に涙が溜まり、ダムの決壊のように溢れ出した。
「僕の春を、僕の手で……か」
すくった手のひらの雪は徐々に溶けていき、気がつくと水滴と変わって消えてしまった。
まるで雪音の人生そのものみたいに。
彼女の人生はこの場所で終わった。
でも、今ここで彼女の骨を拾うのは、少し早いような気がした。
せめて、僕が最後に笑って、この命を使い果たすまでは。
とりあえず、家に帰ろう。
あの家に戻るとなると気が重くなるけど、まだ何もできていないのだから。
まずは整理から始めるか。聖典とか家の壁に貼られた僕宛の手紙とか、いらない物はまずゴミに出さないと。
立ち上がって桜の木を背に歩き出す。
その時誰かの気配を感じて、立ち止まって後ろを振り返る。
でも、無論そこには誰もいない。
日差しを感じて何気なく上を見上げる。
草花が生い茂り、真ん中に大きな桜の木が立つ草原の上。
そこに広がる白い雲が散りばめられた青空が、なんか綺麗に思った。
前に向き直りまた歩き始める。
背後霊を相変わらず感じるけど、意識しない。
このクソみたいな世界で、僕は僕のまま、僕のやりたいようにやっていくだけだ。
もう来ない春を待つのはやめた。
僕が僕の手で、僕の思う春を作り上げてそれを掴むだけだ。
今の僕の目に映る景色は、だいぶぼやけてはいるが、でも少しだけ色がついていた。

春はまだ来ていなかった。
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