四曲目:アルコ・グローリア

文字数 1,909文字

「入っていいか?」と扉の前から声がしたのは、入浴も夕飯も済ませた午後十一時過ぎのことだった。コルダは自室にいるはずだから、僕に所在を聞きにきたわけではない。作業のお供にとつけていたラジオも音量を絞っていたはずだ。なら僕に? なんの用だろう、と身構えつつ、少々お待ちくださいと返して扉へ向かった。ノブを回せば、コルダによく似た……否。コルダがよく似た金の髪を少し濡らして、紺碧の瞳が僕を見下ろしていた。
「父さん。何か問題ごとでも?」
「いや。コルダの機嫌がやたら良かっただろう。聞けば、おまえに友人ができたらしいな」
「……友人、というわけでは」
 どうやら、リコさんとコルダは本当に同じ授業をとっていたらしい。放課後コルダと合流したときには、彼にピアノを教える約束まで取り付けていた。友達になったのはその二人の方じゃないか、と僕は今でも思っているけれど。『順番が大事なんだよ』とコルダは言っていた。『先にアルコがリコくんと友達になってたから、僕にも声を掛けてくれたんだ。嬉しかったなあ。アルコのお兄さんだよね、って言われたの』と。紹介順なんて、気にしたこともなかった。コルダが前に立って、僕はその弟だと後から紹介される。それが当然だったし、そうあるべきだから。
「……ん? なんだ、勉強中だったのか」
 机の上を一瞥し、父は室内へ歩みを進める。そしてそれが全く同じ内容のノートだと気付くと、あからさまに顔を顰めた。
「コルダ……アルコにノートを写してもらうとは感心しないな。仕事で欠席させてしまっているのは僕だけど、せめて自分で写すように……」
「い、いえ! コルダはちゃんと僕と同じだけ出席しています。これはその、先程話に出た友じ……同級生の分でして」
「うん? でも、今日一緒に授業を受けたんだろう?」
「はい。ですが彼は目が非常に悪く、黒板の字を書き写すどころか教科書を読むのにも苦労しているんです」
 彼の話を聞くに。どうも父親から強制的に通わされているらしく、その割に手助けはしてくれない、と。姉が抗議してくれているものの聞いてもらえない、一人分しか学費が払えないのであればせめて勉強好きの妹を通わせてやりたい、と。
「それでも自分が通うしかないのであれば、早く卒業して妹の学費を稼ぎたいと彼は言っていました。それなのに目が不自由だというそれだけで、ノートをとることすらままならない。……そんなことが、あっていいのかと」
「成程。それでアルコが、大きな字でノートを書き写しているのか」
 ふうん……と、父は二冊のノートを見比べた。そして僕のほうに向き直る。真剣な眼差しと目が合った。
「おまえのことだから、復習がてらとでも言うんだろうけど……一方的に損をしている、とは思わないのか?」
「……損、ですか?」
 嫌がらせをされているのか、とでも疑っているのだろうか。これに関しては僕が言い出したことで、彼には頼まれてもいない。だからその心配はない、と伝えようとした。けれど口をついて出たのは、全く違う言の葉だった。
「思いません。彼は……いえ、彼の両親は想定外に三つ子を授かったことで、金銭的に苦労しています。きっと双子も、世間的には同じことが言えるのでしょう。ですが父さんと母さんは、その苦労を一切みせず、僕らが不自由を感じないように育ててくださいました。勿論、人数も収入も違えば事情は異なります。それでも……」
 家族で唯一、髪色も瞳の色も、才能すら違った僕を。腫れ物扱いせず、コルダと同様に育ててくれた。何より。コルダ・グローリアというこの世の宝の、片割れとして誕生させてくれた。
「僕はとても恵まれています。恵まれすぎているほどに。なのでこれぐらい、なんともありません。報われない努力を目の当たりにするほうが、嫌ですから」
 どんなに頑張ったところで、辿り着けないゴール。それでも少しでも近づこうと、役に立とうと足掻く。全てはきょうだいのために。そんな彼に、共感しなかったというと噓になる。……それを見越して利用されているのかもしれない。それならもうそれでいい。今までしてきた努力に比べれば。本当に、大したことはないのだから。
「……そうか。困った時は助け合ってこその友。持ちつ持たれつ、程々に仲良くしろよ」
「はい、父さん」
「それと」
 僕の頭に、父の手がのびる。大きく、少しかさついた掌で。父はポン、ポンと優しく僕を撫でた。
「おまえたちは二人とも、僕らが望んで授かった子だ。不自由なく育てるのは当然のこと。恵まれすぎているだなんて、思わなくていい」
 白熱電球が、父のブロンドに輪をかける。つけっぱなしにしていたラジオは、零時直前とうたっていた。
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