三曲目:アルコ・グローリア

文字数 2,786文字

 十歳になるよりも前だった、と思う。教室で、学年の人気者がオクラホマミキサーを口笛で吹いた。擦れたり外すこともなく、まあそれなりに上手だった。勿論演奏料をとれるようなものじゃないけど、雨で休み時間を持て余してた学友らの注目を集めるには十分、なぐらいには。僕も例に漏れず、読んでいた本からはすっかり意識が逸れていた。元より騒がしい教室。集中して読むつもりは鼻からなかったけど。
 よくよく聴いてみればキーこそ違えど、当時流行ってたカートゥーン映画のパロディーで。ああなるほど、楽団に乱入してきたアヒルの横笛を再現したいのかと気付くまで時間はかからなかった。僕もコルダと観たし、確かにあのシーンは笑ってる観客も多かったから、人気者の彼がチョイスするのも頷ける。現に彼の周りには児童が集まってきていた。すると廊下を通りがかっただけの児童もなんだなんだと教室に入り。そのうちの一人だった。『えー、音痴だね』と言い放ち、演奏を止めさせた命知らずの一年生は。
 音痴なわけないだろう、彼はピアノを習っているんだぞ、と即座に他の児童が反論する。音痴ではない、と僕も心の中で肯定した。ヘルツ単位の話ならともかく、凡庸な耳で聴くだけであれば外れていない、と誰もが思うはず。それでも一年生は、だって音が違うもんと言って聞かない。なんだこいつ、と掴みかかろうとする男子を、件の人気者本人が制止して。あろうことか彼は隅で読書のフリを続けていた僕に、『グローリアはどう思う』と投げかけた。
「え、いや……」
 遠巻きに見ていただけのはずなのに。突然スポットライトを浴びせられ、一瞬で頭から全ての思考が逃げ去った。取り巻きも一年生も、廊下から様子を窺っていた他学年も。みんなが僕を見ている。見られることには慣れてるだろう、といわれるかもしれない。でもそれは入念に準備を重ねた公演での話だ。今、この状況で。何と答えるのかなんて、練習してない。想定すら。
「音痴ではなかった、と、思いますが」
 そう実直に返せば、彼はほらなと言わんばかりに勝ち誇った笑みで一年生に向き直った。一年生は引き下がらない。だってさ、でも、と懸命に何かを訴えようとしてる。違和感。詰め寄られる一年生。あの子は何故そこまでするんだろう。確かに音痴ではなかったはずなのに、あの子が完全に間違っているとは思えない。どうして? そうこうしているうちに誰かの手が、勢いよく振り下ろされるのを見た。
「あれ〜! いっぱい人いる! 何してるの?」
 その手を含め。全員の動きが止まり、教室の入口に注目が集まる。金髪のグローリア、と人気者が言った。机と人の合間を縫って、コルダはぐんぐん中央へ進む。途中で、僕と目が合った。
「なになに? ……オクラホマミキサー? ああ、この前の映画で使われてたもんね! 僕も観た! これでしょ?」
 教室、とは思えないほど。完璧な反響で、透き通った口笛が僕らの鼓膜に伝わる。たった四小節。それだけで、僕ら全員が圧倒された。さっきとは百八十度違う意味で、静まりかえる室内。静寂を打ち破ったのは、一年生だった。
『それ! その音! シラソ、ソラソ!』
「へえ、よくわかったね。音楽やってるの?」
『やってない!』
 その会話で、やっと腑に落ちる。一年生が本当に言いたかったこと、それは。
『音痴って言ってるのに、わかんないの!』
「音痴……彼が?」
『だって音違ったよ! さっきのじゃないもん!』
「ああ、もしかしてキーが違ったのかな?」
 キー? と、一年生が首を傾げる。そう、それだ。人気者の彼の演奏は、映画と違うキーだった。音楽教育を受けていない、ましてや一年生。だけど音感、それも恐らく絶対音感を持つあの子はキーが違うと違和感があって、でも自分が音感持ちだとすら知らないからそれがなんなのか上手く説明できない。そういうことだったんだ。
 コルダはそのあと迅速に双方の誤解をといて、和解させ、今度みんなで演奏しようよ! とまで言ってのけた。そして最後まで端に座っていた僕の方を見て。
「ね、アルコもそう思ってたんでしょ?」と。


「――例えその場面を見ていなかったとしても、それぞれの状況説明が拙くても。一を聞いて十を理解して百点の解法を出す。それがコルダなんです」
 キャンドルを挟んだ向かいの席で、さながら名探偵ですねとアーノルドさんは笑った。
「なので、……貴方とコルダが仮に、本当に二人で隠し事をしてたとして。コルダ本人に詰め寄ったところで隠し通されてしまうでしょう」
「ふふ、それで僕の誘いに乗ってくださった、と。口を滑らせたのは経営者の端くれとしてあってはならない大失態ですが、それでアルコ様とお話できたのであれば良かったのかもしれませんね?」
「良くはないでしょう」
 少なくとも今後アーノルドさんに重要な話を打ち明けようとは思わない。思わない、のに。そういえば、どうして僕は四年も前の思い出話を彼に? 元はと言えばそう、それこそ彼とコルダが二人きりで何を話したのか聞き出すはずだったのに。話の元を辿ろうにも、これといって引っかかるきっかけがない。
「おや。……失礼」
 アーノルドさんが席を立つ。暗闇でも問題なく見えているかのように、数歩歩いた先の壁に手を伸ばした。
「……ええ、ええ。それはそれは、お気遣いどうも。お伝えしておきますので、ええ。頼みましたよ」
 ガチャン、と金属音がして、アーノルドさんが戻ってくる。電話? それとも内線……停電中なのに? 口はおろか顔にも出したつもりはないのに、彼はすぐ僕の疑問に答えた。
「どうやら復旧したようで。急に明るくなって驚かないよう、この個室だけ照明を落としていたそうです。直に点くかと」
「そうですか。……ああ、でもそろそろ」
「お帰りになりますか? それは残念! もっとお話を聞いていたかったのですが」
「話を聞きに来たのは僕の方ですが? なんで今日に限って聞き上手なんですか」
「お褒めに預かり光栄でございます」
 褒めたわけじゃ、と言い返そうとしたところで目の前が明るくなる。パッと視界に飛び込んできた情報で抱いた印象は、随分ラグジュアリーな内装だったんだな、だった。
「御自宅までお送り致します。車は裏に停めたそうですので……失礼」
 立ち上がると、アーノルドさんは僕の背後……ワインボトルが並べられた重たそうな棚に手をかけた。それを片手でスライドさせると、先程まで見えなかった木製の扉が現れる。
「……普段は何に使ってるんですか、ここ」
「ふふ、企業秘密ということにしておきましょう。……それにしても」
 コツ、コツと靴音が響く。彼は僕の背後に立つと、テーブルのキャンドルに手をのばした。
「意外でしたよ。貴方がたが、ここまで似ていらっしゃるとは」
 キャンドルスタンドを手にとって。アーノルドさんは静かに息を吹きかけた。
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