ある猫の話

文字数 3,372文字

オレは猫だ。
名前はジロー。
その名をつけたのはチョコだ。

そしてオレには兄ちゃんがいる。
無駄にデカイ犬だ。

名前はタロー。
予想通りだろ?
チョコは安直なんだ。

「……調子はどうだい?兄弟?」

オレは寝ているタローに声をかけた。
タローは少しだけ目を開けて笑った。
そしてすぐに目を閉じてしまう。
オレは黙ってタローの腹のあたりに丸くなる。

タローからは、すでに生き物の匂いがしなくなってきていた。
代わりに日に日に強くなる虚無の匂い。

兄ちゃんはもう長くない。

それは鼻のいい動物だけでなく、すでにチョコにもわかっているはずなのだ。
でも、チョコは頑なにそれを認めようとはしなかった。

「何がオレにできる事はあるかい?兄弟?」

「……ありがとう。大丈夫。」

「何か心残りとかねぇの?」

オレがそう聞くと、タローはぷふーと大きく呼吸して呟いた。

「……そうだな……ご主人様に、大好きだって伝えたいな。」

意外な言葉だった。
気分屋で捻くれているオレと違い、タローはいつだって全力でチョコを愛していた。
そんな事は見ていた俺だってわかっているのだ。
チョコがわかっていないはずがない。

「いやそれ、別に言わなくても十分、チョコはわかってるぞ?」

「うん。でももし言葉で伝えられるなら伝えたいよ。僕を好きになってくれてありがとう。家族にしてくれてありがとうって。」

「……そうかよ。」

「もちろん、その家族にはジローも入ってるよ。」

「……いらん事言わんでいい。」

ツンケンとそう言うと、タローは少し笑った。
お腹が楽しそうにぽこぽこ震えた。
そしてまた、目を閉じてしまった。

「……タローは幸せだったか?」

「もちろん。大好きなご主人様にこんなにも大事にしてもらった。君という弟もできた。とても幸せだったよ。思い残す事なんて何もないんだ。」

「……ふ〜ん。」

タローの言う事は本当だろう。
むしろ幸せすぎて、何を思い残したらいいのかすらわからないという気持ちが触れ合っている体温から伝わる。

そんなタローが唯一思い残すとしたら、それはチョコに「大好きだよ」と言葉で伝えられない事らしい。

どんだけ好きなんだよ、おい。
タローの盲信的な「ご主人様ラブ」は、きっと死んでも治らないだろう。

通常の眠りとは違う、狭間の眠り。
呼吸音も、元気な時のものとは異なっている。

タローは確かに幸せだった。
生き物は本来、穏やかに満たされて天珠を全うする事が難しい。
自然の中にいれば、そんな穏やかな死を勝ち得る事は滅多にない。
だからオレはタローがこのまま、穏やかに眠ってくれればいいと思った。

「……タロー?」

微妙な呼吸音の後、タローの体がピクピクと震える。
そしてガタガタと全身が小さく痙攣した。

ああ、と思う。

しかしその様子に、近くの机からオレたちを見守っていたチョコが椅子から転がり落ち、タローに飛びついた。

「……タロー!!タロー!しっかり!!」

タローの体を擦り、ボロボロと涙を流すチョコ。
軽く錯乱して手に負えない。

人間は「死」を不幸だと思っている。

それを前にし、後悔し、自分を責め続ける。
抜け出せない悲しみに囚われる。

「タロー!大丈夫!大丈夫だよ!!すぐお医者さんに行こうね!!」

オレはため息をついた。
またか、と思ったからだ。

タローがこうして間際に近づくと、チョコはタローを病院に連れて行く。
はじめはタローもまだある程度元気だったし、そうする事がチョコの気持ちの整理にな事を知っていたから黙っていた。
でも、ここまで弱ってしまって動く事もできず、これだけ「死」の匂いがしているのに、チョコは何度もタローをこっちに引き止め繋ぎ止めてきた。

オレは机に飛び上がり、チョコが掴もうとした四角いヤツを足で弾き飛ばした。

「ちょっと!ジロー!!何してるの?!」

「……何してるのはこっちのセリフだ。」

「?!」

オレはため息混じりにチョコにそう言った。
驚いて俺を凝視するチョコを机の上から見下ろす。

「……ジロー?」

「聞いた事あんだろ?猫はその生涯の中で、一度だけ、人と話す事が許されてんだよ。」

「……嘘?」

「嘘って、今喋ってんだろ?!」

オレは面倒臭そうにバタンと尻尾を打ち付けた。
身体的な反応が治まったタローが少しだけ目を開いて、俺を見た。
その目が、ここで使って良かったのかと言っていたので頷いてみせた。

「あのな、チョコ。チョコがタローが大事で、それで病院に連れて行くのはわかっているよ。でもな、チョコ。「死」は全てのものに平等に与えられた「約束」なんだ。タローはその「約束」を守ろうとしてるだけなんだ。」

「でも……っ!!」

「タローに思い残すことがないか聞いたよ。でもないってさ。大好きなご主人様にこんなに愛されて、家族になれて、幸せだったって。幸せすぎて、何を思い残したらいいかすらわかんないって。」

チョコの目から止めどなく涙が溢れている。
不細工な顔でしゃくりあげながら、口元がガグガクと震えている。
タローが残された力を振り絞り、少しだけ体を起こすとチョコの膝の上に顎を乗せた。
それを震える手でチョコが撫で、覆い被さった。

チョコだって、本当はわかってるんだ。
人間は遠い昔に森から離れてしまったけれど、同じ動物なのだから。

「……大好きだよってさ。」

「………………。」

「タローが唯一、思い残すとしたら、自分の口から大好きだよって言葉をチョコに伝えたかったってさ。」

チョコがタローを抱きしめるように撫でながら、わんわん泣いた。

「知ってる!ちゃんと聞こえてたよ!タロー!いつだっていつだって!ちゃんと聞こえてたよ!!」

タローのシッポが、少しだけパタパタとゆれる。
オレも机から降りて兄ちゃんに近づいた。

「うげっ?!」

チョコがわしっとオレも掴んで抱きしめる。

いきなり何すんだ!!
あと!!そこは触るな!!

そう思ったが、流石にオレも空気を読んで今回ばかりはおとなしくされるがままに任せた。
諦めの境地になった俺を見て、タローが少しだけ笑った。

「……笑うな。」

オレはツンっと顔を背ける。


『ありがとう、ジロー。』

「……あ。」

『僕は幸せだったよ。本当にね……。』

「……兄ちゃん…………。」


タローは最期にチョコの頬に顔を擦りつけた。
大好きだよ、と言葉でない言葉は確かにチョコに届いた。

兄ちゃんは「約束」を守った。









あれから随分たった。

泣き暮らしていたチョコも笑うようになり、そしてある日、オレにこう言った。


「……ジロー?お兄ちゃんになるよ?」


マジか、と思った。
まぁ、オレもいい歳だ。
弟分を持つのも悪くないかなと思っていたのだが……。


「シャーッ!!聞いてた話と違う!!」


オレはタンスの上から猫語で叫んでいた。
ポテポテと駆け寄ってくる、怖いもの知らずな脳天気な子供。

「……なあに?お兄ちゃんは変な犬だねぇ〜??」

「犬じゃねぇ!!オレは猫だ!!」

「猫??まぁいいやぁ〜!!ねぇ〜あたちと遊んでよ〜!!」

新しく来たのが犬なのは別に構わない。
しかし、だ。

「弟じゃなかったのかよ〜っ!!」

チョコは「お兄ちゃん」になるんだよと言った。
だから確かに「弟」ができるとは言っていない。

だが?!
兄貴しか知らないオレに「妹」?!
どう接すればいいんだよ?!

これは暫く無視して様子を見ようと観察していたのだが……。

「あああぁぁぁ!!何やってんだ?!バカ!!」

「あはは!ドジッちゃったぁ〜!」

妹は……。

いきなり走り出して何もない所でコケる。
段差で落ちる。
水を飲もうとして、ひっくり返して水を被るetc……。
とてもじゃないがほっといたらやべぇ……。

コイツ、絶対、野生じゃ生きてけないぞ?!

あまりの天然ドジっ子ぷりに仕方なく面倒を見出すオレを、チョコが嬉しそうに見つめている。
その目が言っていた。

まるでオレがきた時のタローみたいだって。

いや、オレはこんなドジっ子じゃなかったぞ?!
むしろ平和ボケしたタローに説教かましてたんだぞ?!
ただデカさに敵わなくて、いいように遊ばれただけで……。

いきなり電池が切れたように寝始めた妹に、寄り添いながら丸くなる。
久々に自分以外のぬくもりにひっついて、少しだけタローを思い出す。

大好きだったよ、兄ちゃん。

オレはそんな事、決してタローに言わなかったけど。
でも……。

大好きだったよ、兄ちゃん。

スピスピと眠る妹に寄り添いながら、オレは兄ちゃんみたいないい兄ちゃんになれるかな、と、そんな事を考えていた。
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