6 気づくとヨロイは、思いのほか重く

文字数 3,048文字

 ちゃぶ台に、夕食のしたくが整った。
 乃々花と礼が腰を下ろすと、愛子は読んでいた文庫本を閉じて(たたみ)の上に置き、老眼鏡を外した。くたびれたその本はしかし文庫ではなく、表紙には控えめに『THE BIBLE』の文字が並んでいた。
「食べる前にお祈りします。うちの習慣だから、つき合って」
 言うなり、礼は胸の下で両手の指を組み合わせ、うつむき加減で目を閉じた。
 愛子が乃々花にまばたきで合図をよこし、礼と同じようにこうべを垂れる。
 古い洋画で似たようなシーンを見たと思ったが、どの映画というわけではなく、なんとなくだ。

 乃々花が自分も目を閉じるかどうか逡巡(しゅんじゅん)しているうち、
「天にいらっしゃいます、父なる神さま」
 礼が声に出して祈り始めてしまったので、そのままとりあえず手を組み合わせ、軽く下を向いた。
 まぶたを下ろす勇気はない。なんとなく、恥ずかしくて。
 卓上には、包装紙をきれいに脱がされたパンが、(かご)と大皿ににぎやかに盛りつけられており、マグカップからはかすかな湯気(ゆげ)が立ち上っている。

 礼は祈りを続けている。途中で考え、考えしながら、言葉を選んで()いでいく。
「今日も一日、お守りとお導きをありがとうございました。今日はバイト先が一緒の野々辺乃々花さんがわが家に来てくれました。こうして共に食卓を囲むひとときを与えられましたことを感謝します。どうか、乃々花さんの悩みに道をお示しください。橋の上でバッグを()ろうとしたあの人にも、心安らぐときが与えられますよう祈ります。そして、私たちを支えてくださる多くのみなさまに、祝福をお願いいたします。あなたさまのめぐみに感謝して、この食事をいただきます。この祈りを、主イエス・キリストのみ名を通してお(ささ)げします。アーメン」
 礼の最後のフレーズで、愛子は深く首肯(しゅこう)した。

 愛子は心の中で、アーメンを唱和(しょうわ)したのだろうか。
 乃々花がそう考えているそばから、礼はぱっと顔を上げ、組んでいた手をほどいてスープをすすった。
「切り替え、早っ」
 思わずこぼした乃々花に、すでにデニッシュを頬張(ほおば)っていた礼は、
「いつものことだから」
 と肩をすくめた。
 愛子の指さすマフィンをとり、食べやすい大きさにちぎってやっている。
 そういえば愛子は片手が不自由だった。自分もなにか――と思ったものの、変に気にするのはかえって失礼になりそうで、乃々花はそしらぬ態度でサンドウィッチに手を伸ばした。

 それだけではない。
 心の揺れを悟られまいと努力していた。
 もはや遠い昔にも思える新入社員だったころ、上司から「局の人間である以上、個人的な宗教、政治、プロ野球の話題は厳禁だ」と教わった。わざわざ口にするところがいかにも昭和の価値観だが、乃々花はそれを守ってくだんの三つは遠ざけてきた。
 同僚たちも似たり寄ったりだったから、礼や愛子や小島のような、勧誘してくるわけでもないのにクリスチャンであることを人前で明かし、そのとおりに――つまり、信仰生活におけるもろもろを隠すでも控えるでもなく自然体で――ふるまう人には免疫(めんえき)がなかった。
 対して自分には、宗教に対して警戒心があった。
 礼や愛子に対して、ナチュラルな態度を装っていても、実は身構(みがま)えている自分がいた。顔見知りで、ひったくりから助けてもらって、家に泊まりにまで来ていながら、だ。

 おかしい。
 乃々花は自分を笑った。
 もう、局の人間ではないのに。
 シュウキョウハキケンデス。チカヨッテハイケマセン。センノウサレタラタイヘンデス。
 当然のこととして身にまとってきたバリア――あるいは、ヨロイとでも言うべきもの――を、いつまで脱がずにいくつもりだろう。
 自分で考えて選んだわけじゃない、お仕着(しき)せのバリアだ。検証も、検討もせずに着こんで生き続けるのは、それこそが妄信(もうしん)じゃないのか。
 目が曇り、心が(にぶ)くなるのだったら、そんなバリアに意味はない。少なくとも、いまの自分には。

 しかも、これ一つじゃない気がする。似たようなあれこれのバリアが、どれだけ人生を息苦しいものにしてきたか――。
「なに、笑ってるの」
「え、やだ、私、笑ってた?」
 礼の声で我に返り、ごまかすようにスプーンでスープをすすった。こま切れ野菜がたっぷりの〝食べるスープ〟だ。
 その滋味(じみ)を、全身の細胞が素直に受け入れ、喜んでいる。

「ねえ」
 クロワッサンを手に取って、ちぎりながらつぶやいた。礼の作るクロワッサンは、層と層がぎゅっと密にくっついていて、もちもちしている。
「お祈りって、自分の望みをかなえるために、するんだと思ってた」
 礼の祈りは、すべてが感謝と、他者のためのものだった。乃々花のための言葉もあった。
 自分のために祈ってくれる人がいたなんて。
 それは驚きであり、発見であり、心を打つものだった。
 自分は人のために祈ったことなどあっただろうか。

 (かえり)みれば、皆無(かいむ)でこそないけれど――夫を義母の最期(さいご)に間に合わせてやってほしいとか――それは特殊な状況だっただけで、平常では、当然のごとく、自分は自分のためにしか祈ったことがないという事実に愕然(がくぜん)とした。
 ああ、と礼は少し間をおいて、
「もういいんだ、そういうのは」
 首をかしげ、はにかんだ。
「あれがほしい、これがほしいって、自分のためにばっかり祈っていると、自分が(いや)になってくる。ああオレ、自分のことしか考えてない人間なんだなあって。神さまに祈るなら、もっとほかに大事なことがあるんじゃないかなって」

「大事なこと?」
 語尾を上げると、礼はしばし腕を組んで考えこんだ。
「ごめん、うまく説明できない。けど乃々花さんも、お祈りしてみるといいよ。悩んでるんなら、なおさらだよ。自分の悩みとか、望みとか、声に出して祈るってけっこうキツイ……いや、いいもんだよ。意外に嘘はつけなくて、セキララな話になっちゃうし。おかげで自分でも意識していなかった本音がわかってくるっていうか」
「自分を客観視できる、ということかしら」
「そう、それ!」
 礼が視線を流したその先で、愛子はうれしそうに顔のしわを深くしていた。

「オレの話、全部ウケウリだからさ」
 愛子の残したマフィンを自分の口にほうりこみ、礼は時間をかけて飲み下した。その時間は、たぶん、礼が話を変えるために必要なものだったのだと、次の言葉を聞いて乃々花は()に落ちた。
「乃々花さんは、あれこれ聞いてこないんだね」
「あれこれ?」
「オレんちの家庭の事情とかさ。いわゆる、ワイドショー的な」
「ワイドショーには興味ないもの」
 乃々花は苦笑せざるを得なかった。
 ワイドショーに興味がないのは真実だったが、それよりも、自分のことで手いっぱいで、礼の事情に興味を抱く余裕がなかった。大人として、ほんとうに情けない。
 情けなさ過ぎて、我ながらむしろ清々(すがすが)しいほどだ。
 そんな乃々花の心を知る(よし)もなく、礼は無邪気(むじゃき)微笑(びしょう)している。
「噂話も、好きじゃないみたいだもんね」
 店のみんなは知っていることだから。そう言って、礼は自ら話し始めた。
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