5 いやいや、聖人君子じゃないですから
文字数 2,216文字
夕食は、パンとスープだった。
パンといってもデニッシュからクロワッサン、マフィンにサンドウィッチとなかなかに華やかで、なぜならそれは、店で礼が作った商品だったからだ。
出来上がってから時間が経ち、〝陳列棚 にはもう並べられないけれども、すぐに食べるのなら問題のない〟廃棄 寸前 の商品を、たまに持ち帰らせてもらうのだと、悪びれずに礼は語った。
「オーナーがうちの暮らしを気遣って、許可してくれてる。給料日前で金欠のときとか、ありがたいよ。貧乏は情けないけど、意地張ってもしょうがないし」
「あの」
乃々花はおそるおそる申し出た。
「なにか作りましょうか。ええと、お財布は心もとないけど、買える範囲の食材で。泊めていただくお礼に」
しかし愛子は首を横にふった。
『感謝して、パンをいただきましょう。三人でも、食べきれないくらいあるわ』
「試食も仕事デスってね」
礼は先輩面 でダメ出しをした。
店の商品すべてを、まだ食べていないだろうと指摘される。実際かなりの種類をまだ試食していない。乃々花は黙った。
そもそも料理を申し出たのは、パンがいやだとか、そういう気持ちは毛頭 なく、ただ手ぶらでいきなり押しかけて、御馳走 になるばかりでは、ばつが悪いだけだった。
礼は立ち上がり、台所で食器棚から小皿やパンを盛るための籠 を出し始め、
「冷凍庫にスープがあるんだけど、温めてもらえるかな」
バイト先でそうするのと同じ自然さで、乃々花に用を言いつけた。すぐさま腰を上げる。
台所に立たせてもらって、気が休まった。
〝なんにもしなくていいから座っていて〟と言われるよりも、手伝わせてもらえるほうがずっと落ち着く。それを見越しての心遣いだったとしたら、鮮やかというか、にくいというか。
冷凍庫を開けると、茶碗形 をしたごはん用の保存容器に、一杯分ずつのスープが白く凍っている。それを三個取り出して、容器をさっと水にくぐらせ、なかみを小鍋に出して火にかける。
はじめはやや強火。半球状にごろんごろんと小鍋のなかで重なっている冷凍スープのふちのあたりが溶けてきたら、火を弱めてじっくり待つ。鍋底に液体がたまり始めたら、たまに軽くかき混ぜる。
「冷蔵庫に半端に残った野菜で、作り置きしてるんだ」
照れくさそうに礼が言った。
スープは溶けて温まってくるにつれ、コンソメとトマトと何種類もの野菜の存在感が重なりあった、まるくて甘酸っぱいにおいを住まいに満たした。
幸せという言葉をにおいに置き換えるなら、きっとこれだと、乃々花は思った。
あるいは、そのものなのかもしれない、とも。
その実感が、胃とは別の空腹に、ゆっくりと落ちてゆく。
驚いたことに、そうなってみてはじめて乃々花は、自身がそんな空腹とも言うべき空洞を抱えていたことに、気がついたのだった。
「クリスチャンって、みんな、こんなに親切なの」
間の抜けた問いを発してしまったのは、自分のなかの空洞に気づいた戸惑い――それがスープのにおいなどで満たされるものだと知った事実――のためだったのだが、
「いやいや、聖人君子 じゃないですから」
礼は間髪 を容 れずに否定した。
乃々花がうろたえるほどに、あっけらかんと。
「クリスチャンっていったって、みんな、迷ったり苦しんだりしてる、ふつうの人、デス」
「そ、そうなの?」
紅茶を飲んだマグカップを三つ洗って調理台に並べ(温めたスープを入れるためだ。礼の家の食器は数も種類も多くはない)、礼は手を休めずに「むしろ」と続けた。
「自分を、そんなにいい人間じゃないと思うから。それに、きれいごとではごまかせないと思うから。なんていうかなあ、欠けを補 い合いたいっていうのかな。そう思うから、教会へ通ってくるんだよ。わりと、みんな」
「そうなんだ。なんか、思ってたのと違うのね」
「そりゃそうだよ。外から見るだけじゃわかんないでしょ、なんでも」
まあそうだよねと相槌 を打ちながら、乃々花は礼の言葉にいちいちはっとさせられている自分を情けなく感じた。
ラジオ局で情報を発信しながら、自分はなにを見てきたのだろう。こと沼津 にきてからは、自分のことしか考えていなかったのではないか。夫や義母のためにと考えたからこそ、自分の生き方をあきらめて、ここへついてきたはずだったのに。
なにより見えていなかったのは、自分自身のことかもしれない。
「ぶっちゃけ、教会のなかでもいろいろあるんだよ。人間関係ってやつ? いろんな人がいるからね。でもさ、そうやって揉 まれることで、信頼ってできていくんじゃないのかな、きっと」
「もう、レイちゃん、すごいよ」
乃々花は笑うしかなかった。礼はうんと年下なのに――自分のふがいなさに、力が抜ける。
「礼でいいよ」
「うん、じゃあ礼、どうしてそんなに達観 してるのよ」
「してないよ」
礼は瞬間、噴き出した。
そして、
「ただ」
と続ける。
「あきらめたら、だめなんだ。なんでも、人との関係も、自分自身にも、さ」
乃々花に話しているというよりは、礼自身に言い聞かせている――そんな、静かな語り口だった。
パンといってもデニッシュからクロワッサン、マフィンにサンドウィッチとなかなかに華やかで、なぜならそれは、店で礼が作った商品だったからだ。
出来上がってから時間が経ち、〝
「オーナーがうちの暮らしを気遣って、許可してくれてる。給料日前で金欠のときとか、ありがたいよ。貧乏は情けないけど、意地張ってもしょうがないし」
「あの」
乃々花はおそるおそる申し出た。
「なにか作りましょうか。ええと、お財布は心もとないけど、買える範囲の食材で。泊めていただくお礼に」
しかし愛子は首を横にふった。
『感謝して、パンをいただきましょう。三人でも、食べきれないくらいあるわ』
「試食も仕事デスってね」
礼は
店の商品すべてを、まだ食べていないだろうと指摘される。実際かなりの種類をまだ試食していない。乃々花は黙った。
そもそも料理を申し出たのは、パンがいやだとか、そういう気持ちは
礼は立ち上がり、台所で食器棚から小皿やパンを盛るための
「冷凍庫にスープがあるんだけど、温めてもらえるかな」
バイト先でそうするのと同じ自然さで、乃々花に用を言いつけた。すぐさま腰を上げる。
台所に立たせてもらって、気が休まった。
〝なんにもしなくていいから座っていて〟と言われるよりも、手伝わせてもらえるほうがずっと落ち着く。それを見越しての心遣いだったとしたら、鮮やかというか、にくいというか。
冷凍庫を開けると、
はじめはやや強火。半球状にごろんごろんと小鍋のなかで重なっている冷凍スープのふちのあたりが溶けてきたら、火を弱めてじっくり待つ。鍋底に液体がたまり始めたら、たまに軽くかき混ぜる。
「冷蔵庫に半端に残った野菜で、作り置きしてるんだ」
照れくさそうに礼が言った。
スープは溶けて温まってくるにつれ、コンソメとトマトと何種類もの野菜の存在感が重なりあった、まるくて甘酸っぱいにおいを住まいに満たした。
幸せという言葉をにおいに置き換えるなら、きっとこれだと、乃々花は思った。
あるいは、そのものなのかもしれない、とも。
その実感が、胃とは別の空腹に、ゆっくりと落ちてゆく。
驚いたことに、そうなってみてはじめて乃々花は、自身がそんな空腹とも言うべき空洞を抱えていたことに、気がついたのだった。
「クリスチャンって、みんな、こんなに親切なの」
間の抜けた問いを発してしまったのは、自分のなかの空洞に気づいた戸惑い――それがスープのにおいなどで満たされるものだと知った事実――のためだったのだが、
「いやいや、
礼は
乃々花がうろたえるほどに、あっけらかんと。
「クリスチャンっていったって、みんな、迷ったり苦しんだりしてる、ふつうの人、デス」
「そ、そうなの?」
紅茶を飲んだマグカップを三つ洗って調理台に並べ(温めたスープを入れるためだ。礼の家の食器は数も種類も多くはない)、礼は手を休めずに「むしろ」と続けた。
「自分を、そんなにいい人間じゃないと思うから。それに、きれいごとではごまかせないと思うから。なんていうかなあ、欠けを
「そうなんだ。なんか、思ってたのと違うのね」
「そりゃそうだよ。外から見るだけじゃわかんないでしょ、なんでも」
まあそうだよねと
ラジオ局で情報を発信しながら、自分はなにを見てきたのだろう。こと
なにより見えていなかったのは、自分自身のことかもしれない。
「ぶっちゃけ、教会のなかでもいろいろあるんだよ。人間関係ってやつ? いろんな人がいるからね。でもさ、そうやって
「もう、レイちゃん、すごいよ」
乃々花は笑うしかなかった。礼はうんと年下なのに――自分のふがいなさに、力が抜ける。
「礼でいいよ」
「うん、じゃあ礼、どうしてそんなに
「してないよ」
礼は瞬間、噴き出した。
そして、
「ただ」
と続ける。
「あきらめたら、だめなんだ。なんでも、人との関係も、自分自身にも、さ」
乃々花に話しているというよりは、礼自身に言い聞かせている――そんな、静かな語り口だった。