9 夜の底を流れるもの
文字数 3,549文字
和室に
古い
礼のとなりで寝つかれず、乃々花はいまにも動き出しそうな天井の模様をながめている。背中から、古い家の湿気がしみてくる。
『道は、示されているはずです。身のまわりに、さまざまな形で。心を開いて、よく、考えてみて。そして、お祈りしてください。〝神さま、道をお示しください。私の目を開かせて、示してくださった道を見つけられるようにしてください〟こんな感じに』
夕食後、愛子が渡してくれたメモにはそう書いてあった。
ときおり台所の
はたと、そのとき、なぜか、わかった。
静寂の底に流れているのは、川だ。
暗闇の下でも、休まずに流れ続けている水音が、かすかな音のすべてを包んで夜の底に沈んでいる。
不思議と安らぎ、乃々花は眠りの海に潜っていった。
***
朝、タイマーセットされていた炊飯器のにおいで目が覚めた。ふくよかな空気が、米の炊き上がりを知らせている。
「わが家の朝は、卵かけごはんです」
なぜか得意げに礼は宣言し、また祈るというので今度は乃々花も目をつぶった。
「ご
そのあとは、「めぐみに感謝して――」と、昨夜と同じ文言が続いた。
「〝の〟の字だね」
礼がことさらに大きく〝の〟の字に箸を動かして見せた。愛子もおもしろがって右手で器用にまねをする。卵と醤油とごはんが〝の〟の字にまざっていくのを見て、乃々花もまぜた。たしかに〝の〟の字だ。
「一個たりないね」と礼が言う。
野々辺乃々花に〝の〟は四つ。
茶碗は三つ。
一つたりない?
礼の
昨日と同じに「はい」と出ると、今度は沈黙が返ってくる。つばを飲む音がする。
なに、とか、どうしたの、とか言おうとした
「だしまき卵がないんだよ」
かろうじて絞り出したという声で、夫はぽつぽつとその先を語った。
「おれのせいで、生活が変わった。それは、認識してる。けど、どうしろっていうんだ。いまさら」
「あなたのせいじゃないわ」
あきれた笑いのような言い方になった。どうしたことか、心の
「でも、やっぱりあなたのせいよ。そして、私のせいでもある。結局、だれのせいでもないのよ」
「なんなんだよ」
夫は明らかに当惑していた。
「そのうち話すわ」
自分でも意外なほど晴れやかに言い放ち、迷いなく通話を切る。
愛子がいたずらめいた表情で、メモをよこした。文字ではなく、落書きである。
〝ののべ〟と〝ののか〟の二つの顔を〝へのへのもへじ〟みたいに描いた絵だ。〝の〟を目、〝べ〟と〝か〟をそれぞれ口に見立てた二つの顔が並んでいる。口をへの字に曲げた〝ののべ〟の横で、〝ののか〟はほうれい線をくっきり
それでも、
乃々花は苦笑した。
「夫婦って、しょうもないですね」
***
橋に吹く風のなか、自転車を押す礼が前をゆく。
昨日まで知らないも同然だったのに、昨日と同じパーカーを着たその姿に今朝は深い親しみを覚える。
人と人との距離感が、たった一夜でこんなに変わるなんて驚きだった。まったく奇妙だ。でも、よく考えたら子供のころはあたり前に日々起こり、あたり前に受け入れていたことだったかもしれないと思う。
礼が足を止め、遅れて少し離れてしまった乃々花をふり返る。
「オレはまっすぐ店に行くけど、乃々花さんは」
乃々花も息を吸いこんで、腹に力を入れて声を出した。
「遅番だから、一回、家に帰る」
風はぬるく、空の青もどこかねむたい。桜の便りも近いのだろう。
「礼!」
再び歩き出そうとした礼を、乃々花は思わず呼び止めた。
風に、雪どけのにおいがある。
「この風のにおい、小樽と同じ、雪どけのにおいよ」
信じられないことだった。
雪がないのに、なぜ?
その問いは、声に出さなくても礼には届いた。
「ああ」顔を上げ、礼は川上をながめやる。
「きっと上流の山から、風にのって運ばれてきたんだ。山には雪が積もるから。たぶんいまごろ、雪どけなんだよ」
川の流れを伝ってくる、雪どけの風――。
橋を渡ってみようと昨日突然思ったのは、このにおいに
『信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。』
今朝、愛子が示してくれた聖書の一節が、ふと頭に浮かぶ。
朝食後のことだった。
昨夜眠れずにいたことや、一人ぼっちの静寂のなかで豊かな音を聞いたこと、そして、川の水音がすべての音を包んで夜の底に流れていると感じ、安心して眠れたこと、そんな話をしていたら、愛子はメモ用に握っていたペンを離し、かわりに『THE BIBLE』を手にとって、乃々花に向けてページを開き、そのなかの一か所を指で示したのだった。
『信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。』
横から身を乗り出してきた礼は、一見して、
「ヘブライ人への手紙、11章1節か。愛子サンが一番好きな聖句だね」
と、口角を上げた。
それがいま、橋の上に立つ乃々花に、ふわりと降ってきたのだった。
これまでぼんやりとしていた、その聖句のいわんとするところ、あるいは感覚、もしくはその言葉が内包しているなにか――目には見えない
望んでいる事柄、それは、自分にとっての、雪の下に隠された道のようなものなのではないか。その、見えない事実を確認したいから、自分は雪どけにこだわっていたのではないか。そして、雪の下に隠された道と、夜の底を流れる川の音は、きっと同じものなのだ、と。
少なくとも、乃々花には。
ここへくるまでの道と、これから先へ続く道、その間に存在しているのは、いまここにいる自分――これもあたり前のことなのに、忘れていた。と、一瞬思い、否、と乃々花は首をふる。
私は昨日、全力で追いかけたじゃないか。
自分で、ないがしろにしていたものを――。
気づいた瞬間、乃々花に湧き上がってきたものを言い表すとしたら、勇気、という言葉になるのかもしれない。
自然に、足が動いた。
「ねえ、礼」
近くへ歩み寄る。
「なに」
あきれるほどまっすぐな目で、礼は見つめ返してくる。
「きちんと録音しよう、あなたの歌。昨日、広場で歌っていたやつ。聴きたい人がいっぱいいると思う。その人たちに、聴かせてあげたい」
いいよ、あっさりと礼は承諾し、親指を立てて見せた。
「神さまがそれをお望みなら成る。お望みでないなら成らない。だから、やってみよう」
そして「先に行くね」と自転車にまたがり、走り去った。
乃々花は胸が熱くなった。まずは録音データを、局時代の仕事仲間に聴かせてみよう。企画を立てて、沼津のコミュニティFMに持ち込むのも方法だ。ユーチューブにアップしたっていい。できること、思いつくことを
顔を上げ、川を見はるかすと、昨日も見た景色が、今日はまったく新しいものに感じられた。
こうやって、世界は日々、洗われているのか――。
風が全身をなでていき、その風に、祈ってみようと乃々花は思った。
(了)