8 白い道、隠された道、それは
文字数 2,051文字
表示されていたのは、夫の番号だった。乃々花はスマホを手にとった。
「はい」
「なにやってんだ!」
出たとたんに怒鳴 られて、反射的に耳を離すと、礼が心配そうに眉根 を寄せた。
だいじょうぶ、と唇 だけ動かし、スマホを耳に戻す。
「いま、お友だちの家」
一語ずつ噛 みしめるようにして発音した。
「なんだよ、それ。だれだ、友だちって」
「私は、仕事がしたい」
夫の問いには答えずに、自分でも驚くことに乃々花はそう切り返していた。
スマホの向こうで夫は一瞬、絶句した。沈黙に、苛立 ちが滲 んでいる。
「だから、パン屋のパートを始めたんだろ」
「それは辞める」
「なに言ってんだ」
勢いで口にしたものの、そうしてみてはじめて――つまり、自分の口から出た言葉が自分の耳から入ってきてやっと――それが自分の真意だったのだと乃々花は腑 に落ちたのだった。
夫は黙り、乃々花も答えず、無言の状態が何秒か続いた。
「切るね」
「な」と聞こえた気がするが、乃々花はかまわず通話を切った。
夫の態度はいつもと同じパターンだった。
乃々花が不機嫌になると、自分はもっと不機嫌であるとアピールし、折れさせようとする。そして、不本意なことに、たいがいは乃々花が折れる。
時間がもったいない、ばかばかしいと思えてきて、早い話、根負けするのだ。
けれども乃々花にだって、譲 れない一線はあるのだった。その一線を守らないと、自分の人生ではなくなってしまう。
今日のこの一日だって、過ぎたら二度とは戻れない、自分の人生の一日だ。
――これ以上、ばかにしないで。
橋の上で、だれにともなく放った心の叫びを思い出す。
だれにともなく? ほんとうに? だれに向けて叫んだのか、ほんとうは知っているんじゃないの?
夫との通話を切った瞬間に、その考えは降ってきた。
だれよりも、自分をばかにしていたのは自分自身だ。
あれは自分に向けた叫びだった。
ほんとうは知っていたけれど、いまのいままで、知らないふりをしていたのだ。
沼津にはコミュニティFMがあることを、乃々花は沼津にくる前から認識していた。それなのに、まだ一度もアプローチしていない。東京の局とも、通勤は無理だとしても、仕事を請け負うなんらかの形を模索することはできたはずだ。
わかっていたのに下を向き、ただ顔をそらしていたのは乃々花自身だったのだ。
「店、辞めるの」
すでに承知している答えを確かめるように礼は問い、乃々花は曖昧 にうなずいた。
パン屋のバイトを軽んじているわけじゃない。むしろそうじゃないからこそ、辞めなければいけないとも思う。このまま自分をごまかすために勤め続けたら、礼たち店のスタッフやオーナーに失礼だ。いい働きもできない。そんなに器用じゃないことは、自分が一番わかっている。
曖昧にうなずていながらも、自分の意思がだんだんかたいものになっていくのを乃々花は感じた。降り積もった雪が一歩、一歩、踏みかためられていくように。
「私ね、高校まで小樽にいたの」
なぜか語り始めていた。自分に言い聞かせたいだけなのかもしれないが、次の言葉を待っている礼のまっすぐな瞳に励 まされて、先を続けた。
小樽は、北海道の日本海側にある港町だ。
雪深い土地で、冬は景色が真っ白になる。石造りの倉庫やガス灯が並ぶ運河など、明治の開拓期の面影 を残す街並みに、綿毛 に似た無数の白いものが、メルヘンさながらゆっくりと空から舞い散ってくる。
しんしんと雪が降る、という表現をよく聞くけれど、まさにそのとおりなのだと乃々花は思う。
音もなく、重さもないもののようにさりげなく。けれども有無 を言わせずに、ところかまわず積もっていく。
繊細な見た目とは裏腹に、雪はある意味、強引だ。
家も、道も、街全体が、ぶ厚い綿布団をかぶったように白一色に閉ざされる季節、人は雪を踏みかためて道を作る。
白い道である。
せっせと雪かきをして、積もった雪をいくら道路の脇に積み上げても、降る量が多すぎて地面は顔を出さないから、路上に残った雪を踏みかため、〝道〟を絶やさないようにして春を待つのだ。
そして、春。
あたたかい日射しにとけて雪は消え、その下に隠されていたほんとうの道が現れる。
「ああ、やっぱりここに道はあるんだなって、しみじみ安心するの。私にとって春は、見えなくなっていた道が、また見えてくる季節。だからいま、迷子になって困ってる。雪のないこの土地で、どうやって道を確かめたらいいのか……でもきっと、いまのままじゃ違うのよ。それだけは、わかった」
「道かあ」
礼は左右の腕を上げて体を伸ばした。
「オレも、見えてんのかなあ」
身の内の空気をすべて外気と入れ替えている――そんな、大きな呼吸みたいな動作だった。
「はい」
「なにやってんだ!」
出たとたんに
だいじょうぶ、と
「いま、お友だちの家」
一語ずつ
「なんだよ、それ。だれだ、友だちって」
「私は、仕事がしたい」
夫の問いには答えずに、自分でも驚くことに乃々花はそう切り返していた。
スマホの向こうで夫は一瞬、絶句した。沈黙に、
「だから、パン屋のパートを始めたんだろ」
「それは辞める」
「なに言ってんだ」
勢いで口にしたものの、そうしてみてはじめて――つまり、自分の口から出た言葉が自分の耳から入ってきてやっと――それが自分の真意だったのだと乃々花は
夫は黙り、乃々花も答えず、無言の状態が何秒か続いた。
「切るね」
「な」と聞こえた気がするが、乃々花はかまわず通話を切った。
夫の態度はいつもと同じパターンだった。
乃々花が不機嫌になると、自分はもっと不機嫌であるとアピールし、折れさせようとする。そして、不本意なことに、たいがいは乃々花が折れる。
時間がもったいない、ばかばかしいと思えてきて、早い話、根負けするのだ。
けれども乃々花にだって、
今日のこの一日だって、過ぎたら二度とは戻れない、自分の人生の一日だ。
――これ以上、ばかにしないで。
橋の上で、だれにともなく放った心の叫びを思い出す。
だれにともなく? ほんとうに? だれに向けて叫んだのか、ほんとうは知っているんじゃないの?
夫との通話を切った瞬間に、その考えは降ってきた。
だれよりも、自分をばかにしていたのは自分自身だ。
あれは自分に向けた叫びだった。
ほんとうは知っていたけれど、いまのいままで、知らないふりをしていたのだ。
沼津にはコミュニティFMがあることを、乃々花は沼津にくる前から認識していた。それなのに、まだ一度もアプローチしていない。東京の局とも、通勤は無理だとしても、仕事を請け負うなんらかの形を模索することはできたはずだ。
わかっていたのに下を向き、ただ顔をそらしていたのは乃々花自身だったのだ。
「店、辞めるの」
すでに承知している答えを確かめるように礼は問い、乃々花は
パン屋のバイトを軽んじているわけじゃない。むしろそうじゃないからこそ、辞めなければいけないとも思う。このまま自分をごまかすために勤め続けたら、礼たち店のスタッフやオーナーに失礼だ。いい働きもできない。そんなに器用じゃないことは、自分が一番わかっている。
曖昧にうなずていながらも、自分の意思がだんだんかたいものになっていくのを乃々花は感じた。降り積もった雪が一歩、一歩、踏みかためられていくように。
「私ね、高校まで小樽にいたの」
なぜか語り始めていた。自分に言い聞かせたいだけなのかもしれないが、次の言葉を待っている礼のまっすぐな瞳に
小樽は、北海道の日本海側にある港町だ。
雪深い土地で、冬は景色が真っ白になる。石造りの倉庫やガス灯が並ぶ運河など、明治の開拓期の
しんしんと雪が降る、という表現をよく聞くけれど、まさにそのとおりなのだと乃々花は思う。
音もなく、重さもないもののようにさりげなく。けれども
繊細な見た目とは裏腹に、雪はある意味、強引だ。
家も、道も、街全体が、ぶ厚い綿布団をかぶったように白一色に閉ざされる季節、人は雪を踏みかためて道を作る。
白い道である。
せっせと雪かきをして、積もった雪をいくら道路の脇に積み上げても、降る量が多すぎて地面は顔を出さないから、路上に残った雪を踏みかため、〝道〟を絶やさないようにして春を待つのだ。
そして、春。
あたたかい日射しにとけて雪は消え、その下に隠されていたほんとうの道が現れる。
「ああ、やっぱりここに道はあるんだなって、しみじみ安心するの。私にとって春は、見えなくなっていた道が、また見えてくる季節。だからいま、迷子になって困ってる。雪のないこの土地で、どうやって道を確かめたらいいのか……でもきっと、いまのままじゃ違うのよ。それだけは、わかった」
「道かあ」
礼は左右の腕を上げて体を伸ばした。
「オレも、見えてんのかなあ」
身の内の空気をすべて外気と入れ替えている――そんな、大きな呼吸みたいな動作だった。