3 流されてみるのも、悪くない
文字数 2,859文字
「礼ちゃん、そろそろ行かないと。寒くなってきたし、愛子さんの体に障 る」
小島が控えめに切り出した。
あたりは薄暗くなっている。涙をぬぐって立ち上がると、礼と、小島と、愛子と呼ばれる車椅子の女性が、乃々花のまわりに残っていた。
「すみません、ありがとうございました」
謝意を告げ、帰らなければと頭では思う。けれども、どうしても足が動かない。自分はどうしたいのか、それがわかれば苦労はしないのだ。
「うち、くる?」
「え?」
思わぬ誘いに、乃々花は耳を疑った。
まさか、ナンパ?
ギターケースをかついだ礼は、すでに歩き出そうとしてこちらを見ている。乃々花がついてくることを、まるで疑っていないというふうに。
礼は見たところ二十代前半。年下とはいえ、夫との年齢差を考えれば、むしろ礼のほうがずっと近い。
逡巡 とは裏腹 に、小さく胸が鳴った。
ときめきは、しかし儚 く打ち砕 かれた。
「えーと。言っとくけどオレ、女だから。念のため、同性に欲情はしません。それにうち、愛子サンも一緒なんで」
バツが悪そうに、礼は短髪を、やわらかいしぐさでかき上げる。
ええっ! と、声を上げかかってなんとかこらえた。
「やっぱり野々辺さん、オレのこと男だと思ってたでしょう。店でも、パートさんたちの雑談にあんまし参加してないもんね」
「教会でも、新しくきた人はだいたい間違えますよ」
悪戯 めいた表情をつくっている礼の横で、小島も相好 を崩している。
小さいころから鍵 っ子だった礼を、祖母の愛子が心配し、「女の子の恰好 をしていたらあぶないから」と男の子の服を着せたのが始まりだった、小島がそう説明してくれた。
車椅子の上で愛子は微笑 をたたえている。
あらためて見ると、白髪 をボブカットにした品のいい女性だ。思慮 深い雰囲気に乃々花は好感を持った。
「それじゃ、行きましょうか」
小島が車椅子を押して歩き出した。礼が続き、乃々花に手招きをする。
まだ私は返事をしていないのに――頭の中で文句を言いつつ、足は勝手について行った。
礼と愛子の暮らすアパートは、広場から歩いて十五分の川沿いにあった。
古い木造の二階建てで、外壁はひび割れ、鉄製の手すりと外階段は錆 びている。道路から、玄関ドアと小窓の並ぶ細い通路を進んでいき、礼の部屋は一階の一番奥にあった。
どこかの家から味噌汁と焼き魚のにおいが漂ってくる。
別の家からは風呂のしゃぼんが。
窓ガラスの向こうから、茶碗 を洗う物音や足音なども聞こえてくる。
礼がドアノブに鍵を差して玄関を開け、小島が愛子の乗る車椅子を半分まで押し入れた。愛子は身を起こし、下足箱 に立てかけられた杖 を取り、片手に杖、片手に壁のつかまり歩きでなかへ入った。
見届けると小島は、なれた動きで手早く車椅子をたたみ、「それじゃまた」と会釈 をして帰って行った。
「家がご近所なんだ」
小島へ軽く手をふって、「どうぞ」礼は乃々花を促 した。
靴を脱いでおじゃますると、入ってすぐに台所、奥に八畳程度の和室がある。
室内には愛子がつかまり歩きをするために、計算され尽くした配置で椅子や戸棚が置かれており、必要な場所には手すりがしつらえられている。
愛子はすでに和室の座椅子に納まっていた。
「狭 いけど、トイレと風呂は別だから、上等ってことで」
スニーカーを脱いだ礼が、台所の隅 にギターケースを下ろした。愛子が細い腕で手招きするので、座椅子の脇に置かれたちゃぶ台の前に乃々花も座った。
部屋はほどよく片付いていた。
家具が少ないせいもあるが、どんなに物がなくても、ペンやリモコンが出しっぱなしになっているだけで部屋は雑然として見える。ごみはごみ箱へ、使ったものはもとの位置へと日ごろから意識していなければ、こうはならない。
二人のていねいな暮らしぶりを、反対のわが身をふり返って、乃々花は尊敬した。
「愛子サンはオレが高校三年のとき、脳梗塞 で倒れたんだ。後遺症で左半身と言葉が不自由になっちゃって。でも耳は聞こえているし、右手で筆談もできるよ」
礼の言葉を待っていたように、愛子がメモ用紙に文字を書いて乃々花に渡す。丸みのあるきれいな字だ。
『的場愛子です。今日あなたに出会えたこと、うれしいです。ののべののかさんは、どういう漢字を書きますか』
「やだ私、自己紹介もしないで」
ペンを借り、愛子の字の下に野々辺乃々花と書いた。愛子は目を弓なりに細め、別の紙に再びペンを走らせる。
『乃の字には、汝 という意味があるはずです。野辺の汝の花! すてきなお名前!』
「すてきだなんて、そんなふうに考えたこと、なかったです。むしろ反対」
乃々花の名は祖父がつけたと聞いている。命名の意図については詳しく教えてもらえなかった。野々辺は夫の姓だから、愛子の言う「野辺の」の冠 は、偶然あとからついたものだ。
結婚するときは、おもしろいと感じた“の”の音の重なりも、いまとなってはうとましい。
そうだ、そのせいで自分は今日、家に帰りたくないのだと思い出した。
「今朝なんか」
莫迦 な話だと自嘲 しながらこぼしてしまう。
「だしまき卵を見ていたら、どうして自分の名前には“の”が四つもあるんだろうって……」
語尾に混じった怒気 の正体は悲しみだ。言葉にして、声にして、吐き出してみてこそ実感できることもあるのだと、乃々花は知った。
「なになに、なんの話」
台所で湯を沸 かしていた礼が、ガラス製のティーポットとマグカップを三つ、プラスチックのトレーにのせて運んできた。
安っぽいトレーに不釣り合いなポットは、教会のバザーで買ったという。クラシカルな装飾がついたガラスの中に、琥珀 色の液体が揺れている。湯気とともに、清涼感と安らぎの混じった繊細 な香りが漂った。
「市販の紅茶に、愛子サンが育てたハーブをブレンドしたお茶なんだけど。お金かからないし、うちのひそかな楽しみです。どうぞ味見してください」
窓際に、枯れた鉢がいくつかある。季節が巡ればハーブが芽を出し、繁 るのだろう。
礼がカップに注いでくれたそのお茶を、乃々花は慎重に一口飲んだ。温もりが広がり、一瞬遅れて一筋のさわやかさが鼻に抜ける。優しい味だ。
今日の乃々花の様子を見て、カモミールとレモンバームを入れてみたという。
おいしい。
伝えると、二人ともうれしそうに破顔した。
「それで、だしまき卵がどうしたって」
訊かれるままに、乃々花は話した。心が勝手に口を動かし、それをとめる気もなかったのだ。
小島が控えめに切り出した。
あたりは薄暗くなっている。涙をぬぐって立ち上がると、礼と、小島と、愛子と呼ばれる車椅子の女性が、乃々花のまわりに残っていた。
「すみません、ありがとうございました」
謝意を告げ、帰らなければと頭では思う。けれども、どうしても足が動かない。自分はどうしたいのか、それがわかれば苦労はしないのだ。
「うち、くる?」
「え?」
思わぬ誘いに、乃々花は耳を疑った。
まさか、ナンパ?
ギターケースをかついだ礼は、すでに歩き出そうとしてこちらを見ている。乃々花がついてくることを、まるで疑っていないというふうに。
礼は見たところ二十代前半。年下とはいえ、夫との年齢差を考えれば、むしろ礼のほうがずっと近い。
ときめきは、しかし
「えーと。言っとくけどオレ、女だから。念のため、同性に欲情はしません。それにうち、愛子サンも一緒なんで」
バツが悪そうに、礼は短髪を、やわらかいしぐさでかき上げる。
ええっ! と、声を上げかかってなんとかこらえた。
「やっぱり野々辺さん、オレのこと男だと思ってたでしょう。店でも、パートさんたちの雑談にあんまし参加してないもんね」
「教会でも、新しくきた人はだいたい間違えますよ」
小さいころから
車椅子の上で愛子は
あらためて見ると、
「それじゃ、行きましょうか」
小島が車椅子を押して歩き出した。礼が続き、乃々花に手招きをする。
まだ私は返事をしていないのに――頭の中で文句を言いつつ、足は勝手について行った。
礼と愛子の暮らすアパートは、広場から歩いて十五分の川沿いにあった。
古い木造の二階建てで、外壁はひび割れ、鉄製の手すりと外階段は
どこかの家から味噌汁と焼き魚のにおいが漂ってくる。
別の家からは風呂のしゃぼんが。
窓ガラスの向こうから、
礼がドアノブに鍵を差して玄関を開け、小島が愛子の乗る車椅子を半分まで押し入れた。愛子は身を起こし、
見届けると小島は、なれた動きで手早く車椅子をたたみ、「それじゃまた」と
「家がご近所なんだ」
小島へ軽く手をふって、「どうぞ」礼は乃々花を
靴を脱いでおじゃますると、入ってすぐに台所、奥に八畳程度の和室がある。
室内には愛子がつかまり歩きをするために、計算され尽くした配置で椅子や戸棚が置かれており、必要な場所には手すりがしつらえられている。
愛子はすでに和室の座椅子に納まっていた。
「
スニーカーを脱いだ礼が、台所の
部屋はほどよく片付いていた。
家具が少ないせいもあるが、どんなに物がなくても、ペンやリモコンが出しっぱなしになっているだけで部屋は雑然として見える。ごみはごみ箱へ、使ったものはもとの位置へと日ごろから意識していなければ、こうはならない。
二人のていねいな暮らしぶりを、反対のわが身をふり返って、乃々花は尊敬した。
「愛子サンはオレが高校三年のとき、
礼の言葉を待っていたように、愛子がメモ用紙に文字を書いて乃々花に渡す。丸みのあるきれいな字だ。
『的場愛子です。今日あなたに出会えたこと、うれしいです。ののべののかさんは、どういう漢字を書きますか』
「やだ私、自己紹介もしないで」
ペンを借り、愛子の字の下に野々辺乃々花と書いた。愛子は目を弓なりに細め、別の紙に再びペンを走らせる。
『乃の字には、
「すてきだなんて、そんなふうに考えたこと、なかったです。むしろ反対」
乃々花の名は祖父がつけたと聞いている。命名の意図については詳しく教えてもらえなかった。野々辺は夫の姓だから、愛子の言う「野辺の」の
結婚するときは、おもしろいと感じた“の”の音の重なりも、いまとなってはうとましい。
そうだ、そのせいで自分は今日、家に帰りたくないのだと思い出した。
「今朝なんか」
「だしまき卵を見ていたら、どうして自分の名前には“の”が四つもあるんだろうって……」
語尾に混じった
「なになに、なんの話」
台所で湯を
安っぽいトレーに不釣り合いなポットは、教会のバザーで買ったという。クラシカルな装飾がついたガラスの中に、
「市販の紅茶に、愛子サンが育てたハーブをブレンドしたお茶なんだけど。お金かからないし、うちのひそかな楽しみです。どうぞ味見してください」
窓際に、枯れた鉢がいくつかある。季節が巡ればハーブが芽を出し、
礼がカップに注いでくれたそのお茶を、乃々花は慎重に一口飲んだ。温もりが広がり、一瞬遅れて一筋のさわやかさが鼻に抜ける。優しい味だ。
今日の乃々花の様子を見て、カモミールとレモンバームを入れてみたという。
おいしい。
伝えると、二人ともうれしそうに破顔した。
「それで、だしまき卵がどうしたって」
訊かれるままに、乃々花は話した。心が勝手に口を動かし、それをとめる気もなかったのだ。