第二話 前編 電池残量、ありません
文字数 3,434文字
いったい、何処を歩いているのだろう?
すっかり迷ってしまった。
夜中の見知らぬ住宅街、何処 をどう抜ければ脱出することができるのか、判 らない。どうにも、幹線道路へも出られない。
家屋の住居表示を見て地名は判っても、知らない街なので土地勘 がない。
地図がない。スマートフォンもバッテリー切れだ。試しに電源を入れようとしてみたが、最初の起動ロゴのところで落ちた。この数日間充電していなかったのが悔やまれるが、僕の方 にその余裕がなかったのだから仕方ない。
明日は土曜日。休みだからまだマシだが……。
歩きくたびれたのはある。
しかも、近くにはコンビニも見当たらない。
家に帰れるのだろうか。
いや、夜が明けたら、何処か最寄り駅まで行けばいい。それが知らない路線であれっても、乗り換えて家まで帰れる。歩いて駅まで行けなくとも、路線バスに乗れば、この住宅街から脱出はできるはずだ。
しかし今は、おそらく午前二時くらいだ。夜が明けるまで何時間もある。この真夜中の閑静 な住宅街でどうやって時間を潰 せと?
困り果てていた。
すると、僕の前方が明るくなった。背後から光が射 し込んできたのだ。反射的に振り返る。やはり車。タクシーのようだ。だから迷わず手を挙 げてみる。空車 ではないかもしれない。しかし、とにかく挙げてみた。もしも乗れれば、助かる。
――空車だったらしい。僕の前を少し行き過ぎた後、タクシーが止まった。
不思議なものだ。こんな住宅街で流しのタクシーは考えにくい。客を降ろした帰りなのだろう。運がいい。
タクシーの黒い車体はまるで、夜闇 に紛 れる保護色のように思えた。もちろん実際には、ハイヤー営業と両用するためのものなのだろう。
扉の開いたタクシー。小走りに駆け寄って、乗り込んだ。
ボコッ! 車の天井に頭をぶつけた。
「アッ、大丈夫ですか?」
開口一番 は挨拶 ではなく、それだった。こんな夜中だが女性ドライバーだ。振り返って、僕を心配していた。僕より年上だろうが、若そうだ。
「大丈夫です」
ぶつけたのは、僕の身長が高いからではない。車に乗るのに慣れていないからだ。自家用車も持っていないし、仕事でも運転しない。都会生まれで、幼い頃から車なしで暮らしてきたし、今も東京近郊で暮らしていて車はない。
「こんばんは」
改めて、僕は挨拶から入った。
「こんばんは」
僕が乗り込んだのを確認したドライバーが扉を閉め、タクシーを発進させた。もちろん、メーターは『割増 』だ。
「お客様、どちらまで行かれますか?」
「たぶん遠いと思いますが……」
僕は自宅の最寄駅の名を告 げた。
「それは、かなりありますねえ」
そう言いつつも、夜中で長距離客が珍 しくないからか、驚く素振 りでもない。
「どのくらいありますか?」
僕は尋 ねた。
「それと、クレジットカード、使えますか?」
「使えますよ!」
彼女は保証したあと訊 き返した。
「『どのくらい』って、時間ですか? 距離ですか?」
バックミラーで視線が合った。そうだ、たしかに僕の尋ね方が曖昧 だった。
「距離的に、です」
「十五キロ位はありますね」
「そうですか……」
割増賃走 だ。五千円では済 まないだろう。一万円まではいかずに済むかもしれない。酔いの残った頭で、そう勘定 した。
「高速に乗れば少し早く着きますけど、どうされますか?」
「シタミチで」これは悩むまでもない。
それにしても虚 しいカードの使い方だなあ、と思う。夜中にさまよった挙 げ句 の、家に帰り着くタクシー代に、だ。こんな散財の仕方でもない限り、せっかくのカードも、まとまった金額に使う機会がない。
ぶつけた頭をさする。
タクシーは程 なくして広い道路に出た。僕がさっきまで迷い込んでいたのは何だったのだろう。信号のない交差点を、ウインカーを出して左折する。カチカチという音とともに、僕も無意識に左右の確認をしていた。
ドライバーの彼女も気を遣 っているのか、雑談を喋 りかけてもこない。だいたいこの時間帯だ。乗ってすぐ眠る客も多いのだろう。
助手席の前あたりに目を移すと、タクシー事業者名とドライバー氏名が掲示してあった。
株式会社迷子タクシー……?
見間違えか? 疲労のあまりにボケているのか。
いやしかし、法人タクシー事業者なんて限られている。僕の知る限り、そういう業者は思い当たらない。まさか、白タクに捕まったのだろうか。
まあ、何かあっても何とかなるだろう。とにかく――どうだっていい。くたびれた。
話しかけてみた。
「運転手さん、この会社、長いんですか?」
「いや、五年ってところですね」淡泊 な返答だ。
しかし僕は、五年も在籍しているならばなかなか大したものだ、と思った。
「転職して入られたんですか?」
「そうですね、いろいろありまして」
大雑把 なのは、はぐらかしたいことがあるのかもしれない。あまり立ち入るまい。僕の会社でも、中途入社も退職者も多い。世の中には残念な事情がいろいろある。
ふぅ、と僕は無意識に、鼻から溜息 を漏らしていた。
「これは失礼な質問かもしれませんけど、仕事がツラいと思ったこと、ありましたか?」
ややあって、
「最初のうちはそうでしたねえ。でも今は慣れてきて逆に、仕事中に独 りで居られるので気楽なもんですよ」
なるほど、その通りだろうと思った。
独りでやる仕事というのは、初めは不安だ。しかし、上手く軌道 に乗ってしまえばそれも減っていく。タクシー業務の内容はおおよそ決まっている。客は様々で、トラブルもあるだろうが覚悟を決めて、もしも必要があれば本部に報告して指示を仰 げばいい。なにせ、世の中にタクシードライバーが数え切れないほどいることからしても判 る。運転には二種免許レベルの技能が要 るとはいえ、個人特有の才能に依存 するという意味での高度な職業ではない。
「お客様の方 は、お仕事は?」
質問が返された。僕が会社員なのは見ただけで判る。しかし会社帰りの時間帯ではない。くたびれたビジネススーツで何故か住宅街から乗ってきた僕のことを、直感的に事情ありげに思ったのに違いない。
僕は一瞬おいて気を落ち着けてから、答えた。
「ハッキリ言って……しんどいですね」
僕の勤務先は金融機関だ。
大学院を修了して、20代後半にしては不相応 な『新卒採用枠』で入社した大企業。慌 てて就職した。生活費と奨学金返済のために。
僕も最初のうちは自信もなく、右も左も判らない感じなので、上司や先輩が付いていないと怖 ろしく思ったものだった。
だが僕の場合は、次第に逆になっていった。仕事を次から次へと任され、頼られ、厄介事 を押し付けられる。それも、彼らは解らないからこそ、僕を頼ってくるのだ。反対に僕には頼る相手がない。彼らは頼りにならない。
昼休み返上で働いている。昼食をとることもできない。そんな労働環境にあるのに、上司は僕のことを助けてはくれず、まじめに次々に厄介事を処理してしまえる僕の存在を都合よく思っている。この会社は人件費を増やさず、恒常 的に人手が足りない。だからいつも忙しい。
そんなだからもはや、上司や先輩、同僚、ときには後輩の存在までも、恐怖になっている。彼らは次々に僕のやることを増やしてくる。それどころか暇 つぶしにも付き合わされる。職場の人間関係になじめるようにしようと思っているのかやたらとフランクに絡んでくる別の部署の先輩だとか。いい人なんだろうけど、時代錯誤 だ。
トイレの個室に入っている時間が、息をつけるわずかなひととき。それも、おちおち休んでいては仕事が溜 まる。こなせるのは僕しかいないのだから。席に戻ればパソコンと向き合い、電話に襲 われる。部署で最も新人の僕は、とにかく電話を取らなければならない。業務命令である。電話が恐怖になった。会議にも出なくてはいけない。相談もされる。それでも雑用も押し付けられる。書類を書き、社内外に発送したり、受け渡しに行ったりする。会社のビルはエレベーターがなかなか来ない。他部署へと階段をただ独りで昇降 する日々。法務局に登記事項証明書や印鑑証明書を取りに行くこともある。もちろん帰ってきたら仕事が溜まっている。
それこそ孤立無援 。多くの従業員を擁 する巨大企業の中だというのに。都会の孤独とか、ああいうものと似たようなものに思える。
「仕事を丸投げされて、物凄 い量を独りでこなさないといけない毎日で……」
「そうですか……」
そして車内はしばらく沈黙した。
〈後編につづく〉
すっかり迷ってしまった。
夜中の見知らぬ住宅街、
家屋の住居表示を見て地名は判っても、知らない街なので
地図がない。スマートフォンもバッテリー切れだ。試しに電源を入れようとしてみたが、最初の起動ロゴのところで落ちた。この数日間充電していなかったのが悔やまれるが、僕の
明日は土曜日。休みだからまだマシだが……。
歩きくたびれたのはある。
しかも、近くにはコンビニも見当たらない。
家に帰れるのだろうか。
いや、夜が明けたら、何処か最寄り駅まで行けばいい。それが知らない路線であれっても、乗り換えて家まで帰れる。歩いて駅まで行けなくとも、路線バスに乗れば、この住宅街から脱出はできるはずだ。
しかし今は、おそらく午前二時くらいだ。夜が明けるまで何時間もある。この真夜中の
困り果てていた。
すると、僕の前方が明るくなった。背後から光が
――空車だったらしい。僕の前を少し行き過ぎた後、タクシーが止まった。
不思議なものだ。こんな住宅街で流しのタクシーは考えにくい。客を降ろした帰りなのだろう。運がいい。
タクシーの黒い車体はまるで、
扉の開いたタクシー。小走りに駆け寄って、乗り込んだ。
ボコッ! 車の天井に頭をぶつけた。
「アッ、大丈夫ですか?」
「大丈夫です」
ぶつけたのは、僕の身長が高いからではない。車に乗るのに慣れていないからだ。自家用車も持っていないし、仕事でも運転しない。都会生まれで、幼い頃から車なしで暮らしてきたし、今も東京近郊で暮らしていて車はない。
「こんばんは」
改めて、僕は挨拶から入った。
「こんばんは」
僕が乗り込んだのを確認したドライバーが扉を閉め、タクシーを発進させた。もちろん、メーターは『
「お客様、どちらまで行かれますか?」
「たぶん遠いと思いますが……」
僕は自宅の最寄駅の名を
「それは、かなりありますねえ」
そう言いつつも、夜中で長距離客が
「どのくらいありますか?」
僕は
「それと、クレジットカード、使えますか?」
「使えますよ!」
彼女は保証したあと
「『どのくらい』って、時間ですか? 距離ですか?」
バックミラーで視線が合った。そうだ、たしかに僕の尋ね方が
「距離的に、です」
「十五キロ位はありますね」
「そうですか……」
割増
「高速に乗れば少し早く着きますけど、どうされますか?」
「シタミチで」これは悩むまでもない。
それにしても
ぶつけた頭をさする。
タクシーは
ドライバーの彼女も気を
助手席の前あたりに目を移すと、タクシー事業者名とドライバー氏名が掲示してあった。
株式会社迷子タクシー……?
見間違えか? 疲労のあまりにボケているのか。
いやしかし、法人タクシー事業者なんて限られている。僕の知る限り、そういう業者は思い当たらない。まさか、白タクに捕まったのだろうか。
まあ、何かあっても何とかなるだろう。とにかく――どうだっていい。くたびれた。
話しかけてみた。
「運転手さん、この会社、長いんですか?」
「いや、五年ってところですね」
しかし僕は、五年も在籍しているならばなかなか大したものだ、と思った。
「転職して入られたんですか?」
「そうですね、いろいろありまして」
ふぅ、と僕は無意識に、鼻から
「これは失礼な質問かもしれませんけど、仕事がツラいと思ったこと、ありましたか?」
ややあって、
「最初のうちはそうでしたねえ。でも今は慣れてきて逆に、仕事中に
なるほど、その通りだろうと思った。
独りでやる仕事というのは、初めは不安だ。しかし、上手く
「お客様の
質問が返された。僕が会社員なのは見ただけで判る。しかし会社帰りの時間帯ではない。くたびれたビジネススーツで何故か住宅街から乗ってきた僕のことを、直感的に事情ありげに思ったのに違いない。
僕は一瞬おいて気を落ち着けてから、答えた。
「ハッキリ言って……しんどいですね」
僕の勤務先は金融機関だ。
大学院を修了して、20代後半にしては
僕も最初のうちは自信もなく、右も左も判らない感じなので、上司や先輩が付いていないと
だが僕の場合は、次第に逆になっていった。仕事を次から次へと任され、頼られ、
昼休み返上で働いている。昼食をとることもできない。そんな労働環境にあるのに、上司は僕のことを助けてはくれず、まじめに次々に厄介事を処理してしまえる僕の存在を都合よく思っている。この会社は人件費を増やさず、
そんなだからもはや、上司や先輩、同僚、ときには後輩の存在までも、恐怖になっている。彼らは次々に僕のやることを増やしてくる。それどころか
トイレの個室に入っている時間が、息をつけるわずかなひととき。それも、おちおち休んでいては仕事が
それこそ
「仕事を丸投げされて、
「そうですか……」
そして車内はしばらく沈黙した。
〈後編につづく〉
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)
(ログインが必要です)