第3話 『調査』

文字数 2,763文字

 尚美姉さんが、今日も会社を休んでいる。先週の金曜日も休んでいた。
 先週から急に午後から出勤してきたり、少し暗い表情を浮かべ、定時に急ぎ帰っている姿を目にした。
 祐典は、体調が悪いのかと思っていたが、社長に呼ばれて、社長室から長い時間出てこなかったこともあったので、もしかしたら体調の理由ではなく、私生活のトラブルかもしれないと思うようになっていた。
 周りの社員も気にして、尚美姉さんの私生活について色々な噂話をしていた。その噂話の大半が元の夫のことだった。祐典はその話を一切聞かなかった。

 尚美姉さんの離婚の理由は、会社を経営している夫の自由奔放な暮らしぶりに我慢ができなくなったからだという話を聞いたことがあった。
 祐典にとっては、どんな理由で離婚をしようが、既婚か未婚であろうが関係ない。尚美姉さんのさっぱりした、おおらかな人柄が好きなのだ。


 朝、出勤して、社員駐車場で祐典のMINIの隣に、尚美姉さんのクラブマンが止まっていないとさみしい気持ちになる。
 以前、尚美姉さんとの昼休みの会話で、こんなやり取りがあった。
 祐典が、ご飯を食べ終わって雑誌を読んでいると、尚美姉さんが隣に座ってきて、チョコレートを手渡しながら「野本君、会社の駐車場に止めてるMINI、運転席を出るとき狭くない? 帰りにドアを開ける時、狭くて野本君の車にぶつけそうになるんだから」と、わざとふくれっ面の表情をつくって言った。
「確かに、ドアを開ける時、僕も気になります。でも、社員駐車場のスペース狭いんですよね」と祐典が答えると、尚美姉さんは「そうだ、遅く来た方が、反対向きに上手に止めたら、お互いの運転席から出るスペースを広くできるかもよ」と本当の姉のような言い方をして自分の席に帰っていったのだ。
 祐典は、その尚美姉さんの言い方に微塵も嫌みを感じることなく、やっぱり姉御だと改めて好きになった。
 その翌日から、バックで止めているクラブマンの隣に、祐典はMINIワンを正面から止めた。
 尚美姉さんが休みがちになってからも、これまで通り正面向きで車を止めた。振り返ると、自分のMINIワンも、隣にクラブマンがないことをさみしがっているような気がした。
 次の週も尚美姉さんは、出勤してこなかった。そして、尚美姉さんが会社を休みだしてから1ヶ月近く経ったある日、その出来事は起こった。


 その日の朝、9時の朝礼の打ち合わせの後、入り口の扉でノックの音がした。そして、男女3人が扉を開けて入ってきた。
 普段、朝一番に訪れる客はまずいない。関連業者の来訪は、10時以降が通例だし、重要な来客予定は、必ず朝礼の時に課長から知らされることになっている。そして何よりも、その3人は、業者関連とは到底思えない雰囲気を漂わせていた。
 3人の来訪者がカウンターの前に立つと、すぐさま総務課長がカウンターに行き、社長室に連れて行った。営業部長も、その後に一緒に社長室に入っていった。

 しばらくすると、再び扉をノックする音が聞こえた。入ってきたのは、顧問税理士の船原さんだった。船原さんは「おはようございます」とカウンターの前で挨拶をした後、誰ともなく軽く会釈して、足早に社長室へ入っていった。
 その様子に皆が色めき立った。
 祐典は、午後が外勤で、午前中は書類の整理のための内勤の日だった。
 しばらくすると、総務課長が社長室から出てきて、経理係の横山さんを呼んだ。横山さんは、尚美姉さんが休んでいる間、経理係長を代行していた。

 その後、総務課長と横山さんは、社長室から出て総務部のデスクにもどり、黙って尚美姉さんの机の中の書類と経理係のいくつかの書類をコンテナボックスに入れて、社長室にもどった。
 社長室にもどる二人の表情を横目で盗み見したが、いつもとは違う緊張した面持ちだった。
 祐典は、いや祐典だけではなく、室内にいた社員は全員、異常事態を思わせる空気で仕事にならなかった。
 隣に座っている1年上の先輩の田上さんが椅子を近づけてきて「野本、あの連中、税務署の職員だ。前に見たことがある」と小声で祐典に言った。
 祐典が「社内のガサ入れですか?」と聞くと、田上さんは「税務署の連中が朝から来るって普通じゃないだろう」と言って、椅子を自分の席に戻した。
 明らかに何かの調査だと祐典は思った。しかも、1ヶ月近く休んでいる尚美姉さんの机の書類を持ち出して、社長室で話をするということは、誰がどう見ても、尚美姉さんの何かの不正に関する調査に来たとしか思えない。

 1時間ほど経って、3人の来訪者は、いくつかの帳簿を入れた段ボール箱を持って帰っていった。
 総務課長と横山さんが席にもどったところで、社長と営業部長が社長室の前に立ち、各自、自席に座るよう指示した。
 全員が座ったところで、社長が静かに話し始めた。
「私の話が終わるまでは、外部から電話があっても、折り返しかけると言い、いったん電話を切りなさい。それと、今から話す内容は、社外には家族を含め他言無用とすること。もしも、社外の誰かに話したとされる事実があったら、相応の処分を行います。皆もおそらく分かったように、先ほど来訪した3名は仕事の関係者ではありません。税務署の調査員です。結論から言うと、我が社の不正を調査することが主たる目的ではありません。経理係長の西井が、社外の個人的な関係において、脱税をほう助した可能性があるので、その影響が勤務先である我が社の経理上の処理に及んでいないかどうかを調査するためです」と時折行われる訓示と同じ口調で説明した。
 社員は皆、押し黙り、中には下を向いている者、驚いて両手を口に当てて泣きそうになっている者がいて、さながら誰かの訃報を聞く雰囲気になっていた。
 祐典は「社外の個人的な関係において脱税した」のではなく「脱税をほう助した」と説明した社長の言葉を、頭の中で反すうしていた。そして、そのほう助の相手は、きっと元夫だろうと確信していた。
 尚美姉さんの悲しそうにしている表情が頭をかすめた。


 数日後、社長が、朝礼後にこの件について、再度説明した。
「先日の税務調査の結果について、昨日、調査員から連絡がありました。我が社の経理処理における不明な支出や入金、その他の違法内容はなかったとのことです。皆さんは、安心して本業に専念してください。なお、西井経理係長は、今月末をもって依願退職することとなりました。後任は、横山主任が……」
 ――依願退職!
 祐典は、社長の言葉が耳に入らなくなり、ショックで耳鳴りがした。驚いて、思わず立ち上がりそうになった自分を何とか抑えた。黙って座っていると、胸が締めつけられる気持ちになった。そして、その息苦しさの中で「尚美姉さんは絶対に悪くない」と強く思った。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み