第5話 『小石』

文字数 2,670文字

 車とバイクを駐車場に止めて、二人で防波堤に座って海を見ながら話した。
「西井さん、これからどうするんですか? 新しい会社に勤めるとか」と祐典が尋ねると、尚美姉さんは、近くにあった小石を海に投げながら答えた。
「母親がいる奈良に帰ろうと思うの」
 祐典は、尚美姉さんが奈良の出身だということを初めて知った。

「仕事は、奈良で見つけるんですか?」と尋ねると「奈良に唐招提寺っていうお寺があるの知ってる?」と問い返された。
 祐典が、歴史の授業で先生の質問に答えるように「鑑真が建てた寺ですよね」と言うと、尚美姉さんは、空を見上げて「そう。あのお寺のすぐ近くで、母親が一人でお土産屋をやっているの。もう30年以上になるかな。その店をしばらく手伝おうかなと思って」と言った。
 祐典は、尚美姉さんと会えなくなる淋しさをかみしめながら「もう会えないんですかね」と思わず、恋人から別れを告げられたような反応をしてしまって、自分でも恥ずかしくなった。尚美姉さんは、小さく笑い「これで来ればいいでしょう。奈良観光でもしたついでに寄ればいいじゃない」と振り返って、バイクを指さして言った。
 祐典は「まあ、確かに行ける距離ですけど」と諭された子どものように答えた。

 海を見ると、一羽の海鳥が羽を休めて浮かんでいた。しばらく見ていると、その海鳥が海に潜った。祐典がその様子に目を奪われて「あの鳥、魚を捕っているんですかね?」と何気なくつぶやくと、尚美姉さんは「そう。さっきからずっと様子を見ているんだけど、何度潜っても今日は上手く捕れないみたい」と小気味よく笑った。
 祐典も一緒に笑いながら「今日は運勢が悪い日なんだ」と言うと、尚美姉さんは「そうね、今日はついてない日かも……。あっ、野本君。以前話してくれた今日の運勢と晩御飯のビールのマイルール、まだしてるの?」と尋ねた。
「よくそんなくだらない話を覚えていますね、まだしてますけど」と祐典は照れ笑いして答えた。


 1年ほど前、決算期の残務整理のために、土曜日に出勤した日があった。その日、尚美姉さんも出勤していた。昼ご飯を食べに行こうと尚美姉さんに誘われて、パスタランチを食べた時に、祐典はマイルールの話をしたのだ。
「テレビの運勢が1位から3位だったら大吉、4位から11位が吉、12位が凶と自分で決めてて。信号の大吉、吉、凶と合わせて、晩御飯の時、テレビと信号のどちらかが大吉だったら普通のビール、両方が吉だったら発泡酒、どちらかが凶だったらノンアルコールビールにすることをマイルールにしているんです」と語って、尚美姉さんを笑わせたことを思い出した。

「あまり、今日の運勢に流されないでね。野本君のこれからの人生は、毎日が大吉の時だって必ずあるんだから。テレビや信号の運勢が悪い日でも、蹴散らして極上ビールを飲めば良いのよ、これからは」
 尚美姉さんは、防波堤から降りながらそう言った。降りた後、一人で駐車場の小石を拾っていたので、祐典も降りて一緒に小石を拾った。
 二人はもう一度、防波堤に上がり、足を投げ出して、交互に小石を海に投げた。

 尚美姉さんは黙っていた。祐典も何も言わず、思いにふけっていた。
 ――尚美姉さんは、何に対して石を投げているんだろう。誰に対して石を投げているんだろう。
 祐典は石を投げる手を止めて言った。
「西井さんのこれからの人生も大吉にしてほしいです」
 尚美姉さんは「ふふっ、大吉は無理かもしれないけど、小吉が続く穏やかな毎日になるように頑張るわ」と言って、同じように小石を投げる手を止めた。

 しばらく打ち寄せる波音だけが聞こえる時間が過ぎた後、尚美姉さんが静かに語り始めた。
「あのね、この間、ネットで地球のいろんな生き物を撮ったドキュメンタリー番組を見てたの。ボーッと見られるでしょう、だから結構好きで。それでね、しばらく見ていたら、川で暮らしている生き物を撮った映像の中に蜉蝣(かげろう)が出てきたの。蜉蝣知ってる?」
 祐典は「トンボのことですよね」と答えた。
「昆虫の種類としては、蜉蝣とトンボは違う種類らしいのね。だから、当てられている漢字も違う。番組のナレーションで言っていたけど、蜉蝣は、幼虫の時に水中で3年ほど過ごした後、成虫になったら、そのほとんどが数時間から1日しか生きられない。しかも、その間に繁殖活動を行わなければならないの」と尚美姉さんが、もの悲しい表情で言った。

 祐典は、その事実を知らなかった。「蝉と同じ感じですね」と言うと、尚美姉さんは「蝉は少なくとも1週間くらいは生きられるでしょう。蜉蝣は1日だからね。だから、蜉蝣の朝は生涯で一度きり……。蜉蝣は、3年水中で成長して、飛べる成虫になったら、1日足らずで寿命を終えるの。そもそも、栄養を補給して長生きできる体になっていないから、何も食べず一度限りの朝を精一杯飛ぶ」と言った。
 祐典が「一度限りの朝か」とつぶやくと、尚美姉さんは「仕事辞めて、当分部屋で引きこもっていて、毎朝を当たり前に迎えていた頃にその映像を見たから、ちょっと考えさせられちゃった」と言って、小石をまた投げ始めた。

「さっき、僕が来るまでテラスで海を見ながら何を考えていたんですか?」と祐典が尋ねると、尚美姉さんは笑みをわずかに浮かべて「うーん、いろいろと考えていたけどね」と言った後、言葉を続けた。
「たとえば、私が失敗した過去をこの海に沈めたいなってバカなことを考えたり……ね。でもよく考えると、その失敗して後悔している過去ってどこにあるんだろうと思っても、どこにもないんだよね。私の心の中だけにしかない。だから、沈めるのはこの海じゃなくて、私の心に沈めるしかないんだなと思ったり。失敗した理由は、自分にしか分からないし、他人から見えるのは、他人が思う私の失敗だからどうしようもないしね。いや、他人って野本君のことじゃないよ」と小さく笑って、駐車場に降りて、また小石を拾い始めた。

 祐典は、防波堤に足を投げ出したまま「そんな時に、振り返らず前を向いて歩くことができる人って、前向きな思考が習慣づいているからできるんですかね」と言うと、尚美姉さんは、小石を拾った後、防波堤に上がって「失敗した過去は変わらないから、現実を受け入れて、前に向かって自分を動かしていくことが、すぐにできる人っていると思うよ。私は遅い人。でも心のどこかでは、過去も存在しないし、未来も不確かだから『確かな今』しか存在していないって分かっているんだけどね」と言って、小石を今までより遠くに投げた。

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