第1話 『運勢』

文字数 1,677文字

 マンションを出ると、雨が降っていた。
 祐典(ゆうすけ)は、思わず舌打ちをして、車まで走っていった。車に乗ると、寒さでハンドルが冷え切っていたが、いつも通り、東急ハンズで買った手袋をはめてハンドルを握った。
「さて、今日の運勢は」とつぶやき、右側に見える交差点の信号を見た。
信号は、赤だった。
「まあ、魚座は10位だからな」と言いながら左にハンドルを切り、会社に向かった。


 祐典は、毎朝、テレビ番組をつけたまま食事をとり出勤の準備をする。そして、番組の8時前の「今日の運勢」を見たら家を出るのだ。
 家を出たら、祐典にはもう一つの「今日の運勢」がある。車のエンジンをかけて、近道になる右側の交差点の信号が青ならば大吉。赤なので左に曲がって遠回りになってしまったら吉。最悪なのは、青だと思って右に曲がった瞬間、黄色になって赤で待たされることだ。これが凶。何しろ、右側の交差点の信号は、青に変わるまで1分半ほど待たされる。
 正確に計算したことはないが、大吉の確率は5%くらいだ。今日は、テレビの運勢が10位、信号運勢が吉だった。
 
 祐典は、毎日、職場に到着すると階段で3階に上がっている。いくつかの会社や営業所が入っている5階建てのビルには、一基しかエレベーターがない。事業所の代表者で申し合わせたかどうかは定かでないが、去年から3階までの移動は階段を使うよう、社長から指示が出されていた。
 祐典にとって、3階まで階段で上がるのが、苦にならない時と苦痛でしょうがない時がある。仕事の運びの善し悪しや休み明けか週末かによって変わるし、体調も影響する。そして、テレビと信号の2種類の運勢の結果も、階段を上がる足取りに何となく影響するのだ。いずれにしても、祐典のバイオリズムのバロメーターになっていた。
 今日の祐典は、少し足取りが重かった。理由ははっきりしている。専門書の納入と学校での営業活動が多い日だし、今日の運勢が良くなかったからだ。

 祐典は「玉田教材販売株式会社」と書いてある扉を開けて、カウンターの前で出勤の挨拶をした。
 まだ、社員は二人しかいない。祐典の出勤が少し早いこともあるが、直接自宅から営業に出る者がいるし、最近は、事務担当の数人が交替でテレワークをしているので、終日、会社に来ない社員もいるからだ。
 今日も祐典より早く出勤している社員は、相変わらず、経理係長の尚美姉さんと営業二課の真田さんの二人だった。

 玉田教材販売株式会社には、営業部と総務部がある。自社出版をしていないので、他社の出版物を取り扱って、学校や大学の先生、子どもたちに販売している。自社出版していない代わりに守備範囲が広く、幼児教育から小・中・高・大学までの教育実践書や理論書、さらに子どもが使う問題集やドリルまで手広く販売している。
 営業部には、教師向けの教育専門書の営業を担当する営業一課と子ども向けの教材販売を担当する営業二課がある。総務部には総務課しかなく、庶務係と経理係があるだけなので、社員の多くが営業部に所属している。祐典は、営業一課で中学校を担当している。
 
 経理係長の西井さんのことを、祐典は「尚美姉さん」と呼んでいる。尚美姉さんは、43才のバツイチ。現在は一人で悠々と暮らしている。
 新入社員の頃から、よく面倒をみてくれていたし、伝票処理や県外出張の書類のミスをした時に何度も助けてもらった。そんな時の尚美姉さんの口癖は「半日、時間をよこしなさい」という言い方だった。そして、その半日の間で、必ず上手くミスの後処理をしてくれた。「半日、待ちなさい」じゃなく「時間をよこせ」という言い方が、妙に姉御っぽくて好きなのだ。
 尚美姉さんと呼ぶのには、もう一つの理由がある。それは、乗っている車が同じMINIだからだ。祐典は、メタリックグリーンの中古のMINIワン、尚美姉さんはメタリックレッドのMINIクラブマンに乗っている。同じ年式でもクラブマンの方が100万円以上は高いし、尚美姉さんのクラブマンは新しいから、200万円ほどの差があるだろう。そういった意味でも姉御なのである。
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