第4話 『再会』

文字数 2,802文字

 尚美姉さんが職場からいなくなってから、半年が経った。
 社内の財務実態に不正がなかったことで、激震が走った当時の様子も、時間が経つにつれて薄らいできた。
 けれども、祐典にとって、この出来事は終わっていなかった。
 入社して以来、いつだって会社に行けば尚美姉さんはいた。時にしかられ、時に尻ぬぐいをしてもらい、どの上司や先輩よりも頼りになる姉御だった。脱税のほう助をした社員という汚名を着せられ、何も語らず去って行った尚美姉さんのままでは、思い出を閉じることはできなかったのだ。


 4月になり、例年より早く桜の開花がニュースで報じられると、祐典は急に春の心地よい風を身体全体で受けたくなった。
 普段は車で通勤しているが、祐典はバイクの方が好きだった。学生時代は毎日バイクで通っていたし、今でも1年に10回程度は、近場のツーリングに出かけている。
 祐典が長年乗っているバイクは、カワサキのW400だ。独特の空冷バーチカルツインエンジンのドコドコ感も魅力だが、何よりもそのフォルムに飽きがこない。そのオートバイらしい姿が好きで、他のバイクに乗り換える気持ちにならないまま、8年近く乗っている。
 祐典は、久々にエンジンをかけて、春仕様のスーツに身を包み、バイクにまたがった。この日のツーリングコースは、広島市から呉市に行き、海岸沿いの国道を三原市までゆっくり走り、尾道市の千光寺に行って桜を見て帰るというコースだった。
 春先の少し冷たい風は、装備を整えて走ると、とても気持ちがいい。特に、キラキラと光る瀬戸の穏やかな海の景色と香りは最高だと感じた。祐典がバイクを好きな理由は、車と違って景色をのんびり楽しめることと、走っている場所の香りがヘルメット越しに漂うことだ。
 
 途中で、予定通り竹原市の道の駅で休憩した。休憩した後、海を横目に三原市に向けて走っている時だった。何気なく、海と反対側のテラスのある喫茶店を見た瞬間、駐車場に置いてあった1台の車が視界に入った。メタリックレッドのクラブマンだ。思わず、ブレーキをかけてUターンして喫茶店の駐車場に行った。テラスを見ると、女性が一人でコーヒーを飲みながら海を見ていた。まぎれもなく尚美姉さんだった。
 祐典は、ヘルメットを脱ぎ、しばらくその場に立っていた。尚美姉さんが、クラブマンの横に立っている祐典に気づいて、手に持っていたコーヒーカップを慌てて置いた。
 尚美姉さんは、すぐには声をかけてこなかった。どうしようか迷っているのではなく、この不思議な偶然を楽しんでいるかのような静かな時間だった。やがて、尚美姉さんが、手招きをした。祐典は、店の入り口から入って、尚美姉さんの正面に立った。

「バイク乗ってたっけ?」
 尚美姉さんは「驚いた」とは言わず、時間に少し遅れた友人に話すような言い方で問いかけてきた。
 祐典の方が「まさか西井さんとこんなところで会うとは、現実じゃないような偶然です」と質問とかみあわない返事をしてしまった。
 祐典は、正面の椅子に座ってアイスコーヒーを注文した。言いたいこと、聞きたいことがたくさんあるのに言葉が出てこなかった。

 少しの沈黙のあと、尚美姉さんが尋ねた。
「バイク寒くない?」
 祐典が「結構着込んでいるんで寒くないです」と答えると、尚美姉さんは「今日は晴れているから、風を受けて走ると気持ちいいだろうな」とつぶやいた後、祐典の目を見て「会社、ちゃんと行ってる?」と尋ねた。
 祐典が「行ってますよ。それより西井さんはどうしているんですか?」と尋ねると、尚美姉さんは「普通、こんな脱落した人生の時を迎えると、新しい自分を求めて過ごすでしょう。私は、自分の思いや願いを打ち消して、自我を少しでも減らすように時を過ごしているの。情けなくなる思いと闘うと疲れてしまうからね……」と尚美姉さんは、苦笑いを浮かべて言った。

 祐典は、どう反応していいかわからず「身体……大丈夫ですか?」とどぎまぎした言い方で尋ねた。尚美姉さんは、コーヒーを一口飲んで、海の方を眺めながら「大丈夫よ。大変なことがあった割にはね」と言い、祐典の方に顔を向け直して「会社の皆に迷惑かけたなあ。野本君にも何のお礼もお別れも言わずごめんね」と悲しそうに言った。
 祐典は「そんな、今言ってもらったから。もう言わないでください」と答えた。
 尚美姉さんは、何も言わず再び海を眺めた。

 しばらく、二人で黙ってコーヒーを交互に飲みながら海を見ていた。大きさの違う島々が、海の輝きの中で、濃淡を描きながら浮かんでいる。遠くに動く小さな船だけが、時を刻んでいた。
 尚美姉さんが、静かに語り始めた。
「私ね、別れた旦那に頼まれて、彼の会社の経理資料に手を加えたの。絶対に経理担当のチェックで引っかかるって何度もことわったけど。言い訳ができる程度の雑収入の操作でいいからと言われて。後からわかったんだけど、元の旦那は、会社の経理担当の女性と付き合っていたらしくてね。でも、その女性と将来のことでもめたらしくて。結局、二人が別れた後、彼女が会社を辞めることになって。その後、きっと税務署に匿名で電話したのね。彼女が会社を辞めて、しばらくして税務署から調査の通達があったというわけ」
「西井さんと旦那さんは、別れているんだし。私はそんなことはできないって、正義感が強い西井さんだった言えるような気がするんですが。ごめんなさい、僕の勝手な印象だけです」と祐典は言った。心の中で、言わなきゃよかったと後悔して、気まずさをごまかすために、バイクスーツの上着を脱いで椅子にひっかけた。

 尚美姉さんは「もうひとつ、野本君が返事に困ることを言っちゃっていい?」と尋ねた。祐典は「じゃ、返答はしません。黙って聞きます」と少し笑って答えた。
「私ね……旦那と別れた理由、DVなの。会社の経営がうまくいかなくなってから一年くらい続いて、耐えられなくなって別れた。だからね、情けないけど、今回の経理の操作を頼まれた時、別れているのになぜか断ることが怖くなって……。野本君が言うように、私だったらはっきり断れたのになあって、後になって何度も思った。もう遅いけど」と伏し目がちに尚美姉さんは言った。

 若い店員が、コップの水を注ぐために席にきた。
 祐典は「西井さん、少し手前の海岸沿いに広い駐車場があるので、そこで潮風にあたって話しませんか?」と言った。祐典は、この場で尚美姉さんを前に、何も言えないと思った。かといって、黙って穏やかに話しを聞くこともできないと感じたのだ。
 尚美姉さんは「そうだね、そうしようか」と優しい表情で答えて立ち上がった。

 祐典は、バイクで駐車場に移動しながら、やるせない悔しい思いで胸が一杯になった。
「尚美姉さんは悪くない。尚美姉さんだけが一人苦しんでいる」とつぶやいた声が、ヘルメットの中でこもって響いた。
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