17 終章

文字数 5,120文字

 夜通しロバに引かせた荷車と共に歩き続けた二人は、ほんのりと明るくなり始めた川辺で、静かに祈りを捧げていた。この祈りが神にきっと届くように、と悠太は心から願った。
 よるだん川の流れを見つめながら、悠太は思う。あの日、あの夜にこの世界へ来てからどれくらいの時間が経ったのだろう。北海道は今頃どうなっていて、親や友達はどうしているだろう。そんなことを思い出しながら、そこへ外国人の若者が突然現れたら、みんなはどう思うだろう、とも考えた。それはちょっぴり可笑しな光景だとも思った。
 でも、ジェシーなら、きっと誰からも愛されて幸せに暮らせるはずだ、と悠太は少しだけ微笑んだ。彼なら、どこへ行っても、どこへいてもきっといい奴で、すばらしい奴に違いないからだった。
「ジェシー、さようなら」
 そう言いながら、悠太とマリアはジェシーの身体をそっと岸辺から水へ浸けた。すっと、ほとんど音もなく、滑るようにジェシーの体は足のほうからゆっくりと沈み始めた。
 太陽が山陰から姿を現し、朝焼けのように空と大地を照らし出した。水面が、金色に輝こうとしているのが見えた。
「ああ!マリア、奇跡のようだ!」
「悠太・・・・・・、こんなことって!ああ、神様!」
 水中に沈んだジェシーの足の先から、金色の光が輝いた。それが両足、腰へとどんどん広がって、水に沈んだジェシーの身体が、その全てが金色に輝き始めたのだ。そのきらきらした輝きは、それからまるで水の中でふわっと広がるように拡散し、何かが溶けてしまうように川の流れに乗って動きだした。
「ジェシー!ジェシー!」
 悠太は、思わず川の中へ足を入れた。まるでジェシーが溶けてなくなってしまうような、そんな感覚に襲われたからだった。
 お別れなのはわかっているけれど、その身体が溶けてしまうのは、とても哀しいような、寂しいような、なんとも説明できない気持ちだった。
 だから必死でその金色の光の中に、自分も飛び込もうとしたのだった。
「悠太!」
 マリアが叫ぶ。
「だめよ!あなたも行ってしまうの!」
 その意味がわからなかった。だが、見ると、悠太自身の身体もが、ジェシーと全く同じように光輝き、そしてまるで水中に溶けてゆくように感じられた。
 ああ、俺も、俺もお別れなんだ、と悠太は直感した。すでに、水に浸かった下半身が、この世界にいないことを、悠太は知った。
「マリア!・・・マリア!」
 振り返って両手を挙げて、彼女を呼ぶ。川岸からこちらへ必死で手をのばそうとするマリアの姿があった。
「きっともう、会えないかもしれない!ジェシーと俺は、どこへ行ってしまうのかもわからない!でも、これは奇跡なんだ!神様を信じて、きっと大丈夫だから!」
 マリアと悠太の指先が触れた。しかし、ゆっくりとそれは離れてゆく。
「愛してるわ!悠太!あなたを愛してる!」
「俺もだ!マリア、君を愛してる!」
 それが最後の言葉だったように思う。金色の輝きをまとって、悠太は底のない水の中へ自分が溶けて行くのを感じていた。薄れゆく記憶の中で、悠太は昔、こんな場面を映画で見たような気がしていた。
 ああ、そうだよな。
 やっぱりディカプリオは、絵描きじゃねえわ。
 あれは映画俳優だっけ。
 タイタニックのラストシーンを思い出したのが、悠太の最後の記憶になった。

 人の感覚で、最後まで残っているのは「聴覚」だ、なんてことを雑学で聞いたことがある。だから人が死んでも、最後まで周りにいる人たちの言葉は聞こえてるんだ、なんて話があったような気がする。
 どこか近くで、ずっと耳障りな音がしているなあ、と悠太は思っていた。
 ぴこん、ぴこんと、一定の間隔で鳴り続けるゲーム音みたいなやつが、まとわりついて離れない。
 ぴこん、ぴこん。
 うるせえなあ。眠れねーべや。
 そう思いながら、ふと気付いた。電子音?これは電子音だ。今となっては懐かしい、機械の音だ、と。
 そっと目を開けると、真っ白な天井が見えた。柔らかな感触が、身体を包んでいるのもわかった。
「悠太?悠太!・・・・・・お父さん、悠太が目を開けてるって!」
「悠太!わかるか!悠太!」
 ・・・・・・親父とお袋の顔だべ。わかるよ。
 懐かしい顔が覗きこんでいる。 ぼんやりとしていた意識が、しっかり戻ってくる実感があった。ああ、帰ってきたんだ。あの世界から、こっちへ戻ってきたんだ、と思った。
「ああ、もう死んだかと思ったべさ。悠太あ、みんな心配したんだよお。3日も経ってるんだもの」
 お袋が取りすがって泣いている。
「水から上がった時は、息してなかったもなあ、こりゃあだめだと父ちゃんも覚悟したんだべ」
 親父もくしゃくしゃの顔をしてそう言っている。
「今日は、学校のセンセやお友達も、お見舞いに来てくれてんだ。先生、ほら、悠太が」
「小田くん・・・・・・本当に良かった!」
 担任の女の先生の声だった。ああ、先生まで来てくれたんだ、と素直に悠太は嬉しくなった。
 待て、と急にそこで悠太は思った。待て、いや、そんなどころじゃない。
 大事なことを一つ忘れてるじゃないか!
 突然悠太はガバッと上体を起こす。白いベッドの上で、まだふわふわするけれど、本当にそれどころじゃなかった。
「親父!俺が見つかった時、近くに外人の兄ちゃんがいなかったか?」
「まだ寝てなくちゃダメだって!・・・外人さんの話は、警察からも聞かなかったけどもさ」
「お袋も先生も知らないか?歳が30くらいの外国の人だよ。俺の近くに倒れたりしてなかったかって聞いてるんだ!」
 あまりの剣幕にみんなはただ、驚いている。意識が戻ったと聞いてかけつけてきた医者が、『起きたばかりで、ちょっと錯乱があるのでしょう』なんてことを囁いているのが聞こえた。
「錯乱なんてしてねえよ。外人さんがいたはずだって!」
 全員が、なんのことかわからないという顔をしている。
 ジェシーは、ジェシーはどうなったんだ。
 こっちへは来ていないのか。
 それより、生き返ってないのか。
 いろんな言葉が、頭の中をグルグル回る。
 いや、俺がこっちへ戻ってきたってことは、ジェシーはこっちへ来てないってことか。
 神様は、ジェシーを助けてくれなかったのかよ。でも、俺もジェシーも二人とも金ぴかになって、・・・・・・あれは何だったんだよ!奇跡じゃなかったのか!
 その時、カラカラと乾いた扉の音がして、何人かの制服姿の女生徒が病室へ静かに入ってくるのが見えた。
「ああ、みんな小田君の意識が戻ったのよ」
「わあ!よかった!」
 口々に言う女の子たちは外で待っていたらしい。クラス委員の連中だ。そして・・・・・・。
「マリア・・・・・・」
 悠太は呟いた。牧田真理恵の姿もそこにあった。真理恵は心配そうにこちらを見ている。その姿を見て、悠太の意識ははっきりとクリアになった。
・・・・・・そうだ!
・・・・・・そうだ!そうだ!
「先生、イエスキリストはどうなったんだ!」
 突然そんなことを言うので、担任の先生も目を丸くしている。
「イエスキリスト?どうして?」
「いいから!教えてくれよ!いつも授業とか儀式とかで言ってるしょや。イエスキリストが磔になった話、教えてくれてるべさ。イエスは磔になってから、それからどうなったんだよ」
「・・・・・・そりゃまあ、聖書には3日後に復活して、生き返ったって書いてあるけど」
 それだ!と悠太は満面の笑みになる。
「お袋!俺が眠ってて、今日で何日経ってる?何日目だ!」
「3日目だけどもさ・・・・・・」
 それを聞いて確信する。俺がこっちへ戻り、ジェシーはあっちへ戻れたんだ。そして、3日後に、生き返れたんだ!きっとそうだ!
「神様!神様!神様!ありがとう、ありがとう!ジェシーを助けてくれて、本当にありがとう!」
 思わず天を見上げてボロボロと悠太は泣いた。あっけにとられる面々を他所に、悠太はいつまでも笑いながら泣き続けた。

 それから数日後のことである。
 病院を退院した悠太は、その日誰よりも早く石狩川高校へ登校し、一人で礼拝堂にいた。
 十字架とイエスキリストの像の前で、ひざまづいて彼の顔をただじっと見上げていた。
「兄ちゃん・・・・・・。助けられなかったけど、兄ちゃんの言ってた神様を俺は信じるよ。神様がついてるなら、何にももう怖くねえよ」
 自分の力が及ばなかったこと、そしてそれでも、人間の力が及ばぬ先にもきっと何かがあるということを悠太は考えていた。
 そして自分の身の回りに起きたことや、ジェシーやジェシーたちの身の回りに起きたことも、それもきっと神様の考えの内なのだ、と思うようになっていた。
 人間にできることは小さい。ジェシー一人を助けることすらできない、小さなものだと思う。でも、できることはある。小さなことだけれど、できることはきっとある。
「・・・・・・根性を改めよ」
 師匠の言葉が身にしみる。もう、ケンカに明け暮れるようなことはしない、と悠太は心に誓った。
 その時、ギィと扉が開く音がした。振り返ると、制服姿の牧田真理恵が微笑んで立っていた。
「マリア・・・・・・、いや、牧田さん」
「小田君、元気になって良かった」
 そう言いながら、真理恵はジェシーのいる十字架の下まで歩いてきた。
「さっき、あなたがここへ入るのを見かけたからさ」
 あれだけマリアとは話したけれど、牧田真理恵と話をしたことなんてなかった。近づけば近づくほどマリアと瓜二つな真理恵の顔を見て、悠太はドキドキした。
「病院で、変なことを言ってたでしょ?小田君」
「や、あの、あれは・・・・・・」
 よく考えれば、クラスメイトの前で突然イエスキリストがどうとか、泣き出したりとか、不良で知られた小田悠太としては、こっぱずかしい姿を見せたには違いない。
「あたしね、夢を見たの」
 くるっとかかとを中心に真理恵は回りながら、そんなことを突然言った。
「不思議な夢。イエス様の仲間になって、彼を助けようとするんだけれど、ダメで、イエス様は結局十字架にかけられてしまう、そんな夢」
「え?・・・牧田さん。それって・・・・・・」
 悠太は驚いた。同じときに、牧田真理恵が、そんな夢を見た、ということに、心底驚いたのだ。
 ふふふ、と真理恵はいたずらな笑い方をして、続ける。
「でね、なんでか知らないけど、小田君がイエス様の12使徒の中にいたのよ。それでこの間お見舞いに行った時に、あんなことを言い出すんだもん。笑っちゃうよね」
 ははは、と悠太は愛想笑いをする。どうやら真理恵にとっては、夢の中の物語で、悠太とのことはなんでもなかったようになっているらしい。
 いや、そんな考え方こそただの勘違いで、真理恵は偶然そんな夢を見ただけで、マリアではない、悠太の愛したマリアとは関係ないってことだと、悠太は自分に言い聞かせた。
 そういうもんだ、と。
「ばかみたいでしょ?でもなんか小田君にその話したかったから、朝見かけておいかけてきたのよ」
 無邪気にそう言いながら、じゃあまたあとで、と真理恵は手を振ってきびすを返した。
「あ、あの、牧田さん・・・・・・」
 思わず呼び止める悠太。
「なあに?」
 この際、ひとつだけどうしても気になっていることがある。
 これだけは、こんなチャンスにしか聞けないことだ、とも思った。
 とてもとても悩んだけれど、ついに尋ねてしまった。
「あの・・・・・・、あの・・・・・・。牧田さんって、不倫みたいな、そういうのってしたことあるの?」
「なにそれ!」
 あはは、と真理恵は爆笑した。あまりにも想定外な質問をぶつけられたからに違いなかった。
「・・・・・・どうだと思う?」
 それから、この世で一番妖艶な笑みを浮かべて、真理恵は小声で言った。
「一回だけね。妻子ある男性と援交しちゃった!・・・・・・うちの学校みたいとこじゃ、みんなやってるけど、内緒ね」
 うふふ、と真理恵は唇に人差し指を当てながら、後ろ向きにちょっとバックして、それから走って礼拝堂を出て行った。

 ・・・・・・その後、童貞小田悠太が、別の意味で天を仰いで慟哭したことは、言うまでもない。
 小田悠太の慟哭、・・・・・・って、そっちやったんかい!と読者全員から石打の刑にさせられそうだが、物語はこの辺でお開きということにしよう。
 神のご加護が私にありますように。アーメン。

(後編へつづく)
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