RESIST 4「白馬の王子様」

文字数 22,729文字

 もやっとした、おぼろな薄曇りのヴェールをかぶって、空へと吸い上げられるような円錐形が遠くかすんでいる。天上の聖域(サンクチユアリ)、ヘーブマウンテンに続く街道は草に埋もれかけ、さながらけもの道といった有り様だった。この辺りは町から離れており、プレイヤーの姿はほとんどない。そもそも一度町に足を踏み入れれば、次からは各町にあるベーススポットからワープで行き来できる。いちいち徒歩で移動しなくてもいいのだ。しかしながらこうして北へ、北へと不揃いに歩む一行には初めての道程であり、そうでなかったとしてもプレイヤーがたむろするところには近付けなかった。ラル、シーズァ、ノラ、そしてグレイスは……――
 グレイスとは、あのキメラにシーズァが付けた名前である。昔、一緒に暮らしていたジャーマン・シェパードの名前ということだった。カプセルの中だと頭の揺れがひどくなるので、巨象に比肩する巨体はノラの横を、のそり、のそり、と根深い痛みを引きずって歩いている。ヒーリで治してもらったからか、ノラのそばを離れたがらなかった。
「まだ付いてくるのか」
 振り返って、シーズァがうっとうしそうに体を揺する。後方にいくつか浮かぶ、奇虫に似た影――それらカメラドローンは距離を取りつつ、望遠レンズで一行をとらえている。週末なので、平日より数が多い。ガイト、ジュエルの配信でラルたちはすっかり有名になり、シーズァのところにはネタにしようという者たちからメッセージが送られてきた。それらを断り、あるいはブロックしたところ、数名が直に接触してきたが、ラルのこん棒で追い払われてしまった。それで、このようにパパラッチよろしくつけ回しているのである。あれこれコメントしながら配信しているに違いない。
「ぼくたちは見世物じゃないぞ。これじゃ、また襲われるじゃないか……」
 いら立たしげに言って、ノラとグレイスを一瞥してから前を向く。視線は、こん棒を右肩に担ぐ後ろ姿にぶつかった。ごわごわの毛並みを見つめながら、引っ張られるように、どこかすがるようにシーズァは歩を進めた。荒れた道は緩やかにうねって、灰色がかった木立を横目にしていく。街道はエンカウント率が低く、今のところモンスターの気配はない。
 混濁した太陽の下、古びた石造りの建造物が亡霊のように浮かび上がる。道なりに行くと、半ば崩れた石塁がかつての威勢を誇ろうとしてきた。どうやら廃墟になった砦らしい。ずっと野宿だったので、ラルの足も自然と引き寄せられていく。あそこなら、いざというとき心強い。
「げっ」
 と、シーズァはひどく顔をしかめた。崩れ落ちた石のそばをふらつく姿がある。ゾンビだ。外をうろついているのは数体だが、肩をそびやかすような石門の内側にはもっといるのではないか。鼻をひくひくさせたラルは、それを裏付ける腐臭を嗅ぎつけていた。
「……なんでこう、アンデッドが多いんだ。これもバグじゃないだろうな……」
「どうなさいますか、シーズァ様」
 そばでノラが問う。シーズァは視線を返し、牙を研ぐようにうなるラルを見た。そして右手が、ぱっ、と出たレイピアを握る。
「多少のゾンビなら、どうにかできるだろう。たまには岩陰とかじゃないところで休みたいし」
 それは、後ろのカメラドローンを意識したせいかもしれない。ノラはうなずいた。その様子を見て、ラルはこん棒をしっかりと両手で握った。
「シーズァ様、グレイスを……」
「分かってるよ」
 いささか素っ気なく、透明のカプセルが取り出される。それを軽く当てられると、次の瞬間、巨体は球体内部に手の平大で収まっていた。さんざん戦わされ、心も体も深く傷付いた命を利用するわけにはいかない。カプセルは手から消え、道具袋に収納された。
「行こう」
 レイピアを下げ、シーズァが先に立つ。ゾンビたちも気付いて、うめきながら寄ってくる。ノラからファス――スピードアップの補助魔法をかけてもらって、シーズァは赤くほの光りながらぐんと足を速めた。
「はあッ!――」
 伸びてきた爪に、刃一閃――黒ずんだ血を吹いて倒れ、続いて後頭部から切っ先が突き出る。瞬く間に先頭、二番手のゾンビがしかばねに戻った。さらに腐臭とともに首が飛ぶ。その脇で、土のこぶしが腐った顔面にヒットする。ノラの新たな土魔法、ゴーレム――まだ全身を生成できないものの、その一部である右こぶし、前腕の出来はまずまずである。そしてこん棒のフルスイングが腹部にめり込み、アッパーカットさながらにあごを破壊する。ラルも戦闘を重ねてパワー、スピードが上がっており、石塁の外にいたゾンビはすぐに片付いたが、砦内部から続々と、それこそ満員電車からホームにあふれ出すごとく現れたので、だんだんと苦しくなっていく。
「このっ!――」
 激流のうねりで、ゾンビがばたばたと倒れていく。シーズァの水魔法もレベルアップしているが、腐乱死体の群れはひるむことなく押し寄せてくる。さすがに息が切れ、シーズァの脳裏に退却という選択がよぎった、そのとき――
「んっ?――」
 背中の方から咆哮、初期微動かという地響きが迫ってくる。振り返ったラル、シーズァとノラも度肝を抜かれた。岩山から荒く彫り出されたような、象よりもグレイスよりも、マンモスよりも大きな、恐ろしく筋骨隆々とした巨人が猛然と突っ込んでくる。その頭部には、反り返った一対の角――それはまさしく鬼、オーガというモンスターだった。
「よっ、避けろっ!」
 シーズァが叫んで、ラル、ノラも慌てる。避けたところに突っ込んだオーガは、岩塊に似たこぶしをゾンビたちに振るった。暴れ狂う旋風で腐った血肉、臓器や骨までばらばらになり、胸の悪くなる臭いがラルたちの方にも流れてくる。
「――ッ!」
 かあっと首筋に熱気を感じ、振り返ったシーズァはとっさに水のバリアを張った。水魔法ウォバリ――それは火炎弾の激突で爆散し、シーズァのみならずノラ、ラルも吹っ飛ばす。至近距離での水蒸気爆発だが、直撃で火だるまよりはるかにましだろう。
「ちくしょう、ガードされちまったぜ! 感度いいじゃんかよっ!」
 下卑たはしゃぎ声にぎょっとし、すぐさまラルは起き上がった。火炎弾の飛んできた方、十数メートル向こうに馬よりも大きな狼がいた。射貫くような眼光でこちらをとらえている。さながら灰色の炎といったところだ。その背にふてぶてしくまたがって、成金っぽい姿が右手に炎を宿している。
 ガイトだった。あのガイトに間違いなかった。
 ノラの顔色が悪くなって、立ち上がったシーズァが舌打ちする。アカウント停止が解除されたのだ。しかしその姿は以前とは違う。チンピラが思いつくままブランド物でまとめたような、お世辞にもセンスがいいとは言えない格好だった。
「見違えただろ、クソザコども」
 大狼の背でふんぞり返って、ガイトは自身のカメラドローンにポーズを決めた。
「この虎縞ファーコートはジャネル、あの有名ブランドのもので、ゴールドタイガーの毛皮から作られた超高級品だぜ! リッチなワイルドさがイケてるだろ。分割払いもできるから、視聴者のみんなも買ってくれよな! そんでこのレザーシャツとパンツは――」
 という具合に自慢もとい宣伝していく。注文があれば報酬が得られるのだろう。白銀羊の子の生皮をはいで作られたシャツとパンツ、エレファントロックスの牙製ネックレス、キングバイソンの革製グローブ、エルダーコブラの革製ブーツ――どれもが目の飛び出るような値段のもの。そして締めとして、幅広の湾曲した刃を得意げに挙げる。
「こいつは伝説の武器、レジェンドの〈龍王之刃〉、ファンからのプレゼントだぜ! マジスゲーだろ!」
 得意満面でコメント欄を見て、ガイトはぎらつくまなざしをラルたちに戻した。
「お前らとの動画がすげえウケてよ、投げ銭とか広告収入でかなり儲かってんだわ。プレミアムコースも契約したぜ。プレミアムコースはいいぞ。ルートボックスで上級の強化素材がじゃんじゃん出るからな。それでこの龍王之刃、大狼やそのオーガも強化させてもらった。へへっ、まったくいい気分だぜ! だから、これからもこの線で行くぞ。何しろオレ様は当事者だからよ。ああいう後追いの乞食どもとは違うのさ」
 ガイトは後方の、カメラドローンの群れにあごをしゃくった。
「オレ様は、本物の面白さをお届けするぜ。おい、ハンマーっ!」
 山が動くごとく、ずぅん、とオーガが向き直る。ハンマーと名付けられたらしい。ゾンビは残らずばらばら、ぐちゃぐちゃになっており、汚れきったこぶしが地響きとともに一歩ずつ迫ってくる。そしてガイトを乗せた大狼も尻尾をもたげ、濡れた牙をむいてくる。巨大な怪物と魔獣に挟まれていく獲物、それをクローズアップするカメラ――
 だっ、とラルは飛び出した。逃げるしかない――だが、爆炎で小柄な体は吹っ飛ばされた。地面に叩きつけられ、焦げ臭い意識がもうろうとする。ガイトからの火炎弾――ファイボだった。自分がああなっていたかもしれない、とシーズァから血の気が引く。消耗していて勝ち目はない、と逃げ出す寸前だった。
「――ノラ?」
 両手で口を押さえ、ノラが膝をついている。真っ青な顔で涙ぐみ、小刻みに震えながら、吐きそうで吐けない苦しみにもだえているようだった。
「どうした、ブス?」
 大狼の上で、ガイトが龍王之刃を右肩に担ぐ。
「オレ様に会えて嬉ションでもしたのか? 土下座するなら許してやってもいいぞ」
 飛びかかる水流――一瞬の隙を突き、シーズァはウォダーを放った。ガイトを叩けばオーガも止まる、という判断だった。龍王之刃が燃え上がって、ぶった切られた水流が蒸気を飛び散らせる。蒸気に紛れ、レイピアを構えたシーズァはガイトめがけて――
 その背後から、巨体が跳んだ。ぶおっ、と風圧を感じ、反射的にシーズァは体をひねった。鉄球と見まごうこぶしが紫髪をかすめ、身構えかけたところに左こぶしが来る。
「うおっ!――」
 ウォダー――水流を巨体にぶつけ、さらにウォバリを張ったものの、シーズァは地面をえぐるように転がった。ガードした両腕から肩にかけて、痛みがびきびきと響く。まともに食らったら骨まで砕けただろう。それほどまでにオーガには破壊力があり、しかも思った以上に俊敏だった。
「どうだい、オレ様のハンマーは」
 炎を帯びた湾曲の大剣を下げ、ガイトが得意顔をする。
「モンスター市場で買ったんだよ。なにしろAランクのモンスターだからよ、結構高かったんだぜ。バトルに関しちゃ、そこのクソブスなんかよりはるかに使えるぜ」
「くそったれが……」
「おいおい、そんな汚い言葉を使うなよ」
 ののしり、起き上がるシーズァに、ガイトはこれ見よがしに顔をしかめた。
「お前もな、カメラの前で土下座するなら許してやってもいいぜ。プレイヤーキルとかオレ様の趣味じゃねえからよ」
「誰がするかっ!――」
 オーガに踏み込むも、ひらめくレイピアは浅手しか負わせられず、ぶんっ、と振られる巨腕にたじろぐ。それならばと繰り出すウォダーも、今やホースで水を浴びせているようでしかない。消耗したことで威力が落ちているのだ。汗ばみ、鼓動を激しくしながら、さっ、とシーズァは状況を確かめた。立ち上がったラルはこん棒を握ったまま動けず、ノラは吐き気をこらえようとしているが、土の塊やゴーレムの右腕ではとてもかなわないだろう。となれば、やはり逃げるしかないが、それも無理そうだった。
 グレイスを――
 その選択肢は振り払われた。グレイスといえどもただでは済まない。シーズァにはできなかった。運営に通報もしているのだが、梨のつぶて……そもそも、プレイヤーキルが明確に禁じられているわけではない。前回のBANは一方的に家を燃やされたからか、とにかくたまたま良い目が出ただけなのだ。やるしかない……自分が――
「このぉっ!――」
 オーガの顔めがけてウォダーを放ち、地面を蹴って――斜め下から切っ先が心臓を狙う。一撃必殺――だが、それは巨腕にはじかれ、サッカーボールみたいにシーズァは蹴り飛ばされた。したたか体を打って転がり、ぐったりとした姿がさらされる。
「シ、シーズァ様……」
 ヒーリをかけようとするノラ、その前にオーガが立ち塞がる。むき出しの凶暴さ、ぶち抜くような眼光――蛇ににらまれた蛙、どころではない。巨大な鬼である。立ちすくむノラ、それを見ながらラルはこん棒を震わせていた。
「あらら、泣いちゃうかあ?」
 けだものの高みでガイトがにやにやする。
「泣いちゃう? それとも吐いちゃうか? おい、みんな! このクソドールにお仕置きしていいかなぁ?」
 コメント欄を見て、ずおっ、とガイトは炎の刃を突き上げた。
「いいってよ! その次はてめえだからな、クソブタ!」
 燃える切っ先で差し、それからノラに向けて、ガイトは鼻の穴を膨らませた。
「ハンマー、このクソブスをぶっ飛ばせっ!」
 ドローンのカメラが寄り、期待をあおるように巨大な右こぶしが振り上げられる。眼下のおびえをにらみ、号砲のごとく吠え、一気に振り下ろされて――
 まばゆさに目がくらみ、耳をつんざく轟音――目の前に落雷か、という衝撃でノラは倒れそうになった。爆破解体されたかのように巨体が崩れていく。危うく下敷きになりかけたノラは、角が折れ、黒焦げになった頭部を間近にした。ラルは見ていた。オーガの頭に直撃したいかずちを――
「はっ? な、なんだあ?」
 素っ頓狂な声のガイトに飛び込んでくる、ひづめの音――かろうじて、龍王之刃が強烈な突きをしのぐ。大狼と交差したのは手綱を握られた白馬で、黄金の槍を携えた姿が赤マントをさっそうと翻す。王子様、とノラの頭に浮かんだ。肩章、ボタンが金色にきらめく、白を基調とした高貴なファッションといい、優雅に波打つダークブラウンの髪といい、凜とした紅眼の美青年はその表現がふさわしかった。王子様は黒ブーツであぶみに力をかけ、白馬の腹を蹴って、いななきとともに再び突撃した。雷光さながらの突き、突き、突き――たちまち、ガイトは防戦一方に追い込まれた。
「な、なんだよ、てめえはっ!」
「正義の味方だ」
「はあっ? バッカじゃねーのかっ!」
 炎をなびかせてぐるっと振られ、龍王之刃が火球を作り出す。そして放たれたそれは、白手袋の左手からのいかずちで吹き飛んだ。雷魔法ライバーだ。生じた爆熱を間に、ガイトと美青年、大狼と白馬は対峙した。
「なかなかやるじゃねえか、てめえ」
 カメラを意識して、ガイトは虎縞の肩を怒らせた。
「その槍、ノーブルランスだろ。なかなかの得物じゃんか。ともかく、オレ様の邪魔をするとはいい度胸だ。どこのどいつか名前を言ってみろ!」
「真緋呂さ」
 そう名乗って、紅眼の蔑みが濃くなる。
「お前みたいな野蛮人がいると、このゲームの評判が落ちる。さっさと引退するんだな」
「なんだと、この野郎っ!――」
 大狼が踏み出しかけ、足元への雷撃にひるむ。すかさず黄金の槍が繰り出され、ガイトは顔面を貫かれそうになった。たたみかける刺突に押され、右に左にうろたえる炎の刃――
「うっ!――」
 槍先を喉元に突きつけられ、ガイトは息を呑んだ。紅眼は青くなった顔をしっかととらえている。わずかでも動こうものなら、即座に息の根を止められるだろう。
 勝負あり――そのはずだった、が――
 いくつもの刃が真緋呂の背後を急襲し、はじこうとするノーブルランスをあざ笑うように消えていく。その隙に大狼は飛びしさって、ふう、とガイトは息をついた。
 幻覚魔法――
 そう見抜いた真緋呂を襲う、一対の鋭利な曲線――右手、左手それぞれの曲剣が躍り、黄金の突きをくるっと、後方宙返りでかわして距離を取る。
 それは巻き毛の金髪、血の気のない碧眼の美少年だった。首にはめた、パープルのカラーでドールと分かる。フリル袖の赤ブラウスに黒のリボンタイ、銀十字のブローチ――黒のショートパンツにソックス、黒革ショートブーツというゴシック・ファッション……張り付けたような微笑み、そのそばに浮かぶ空中ディスプレイでは、宮廷道化師の仮面の人物がロココ調ソファにゆったりと座っている。毒蛇でも見た気がして、ラルはぞくっとした。
「ペドレ……」
 ガイトが苦虫をかみ潰したようにつぶやく。そうだ、とノラは思い出した。あの仮面の人物はペドレという、名が通ったプレイヤーだ。そして金髪碧眼の美少年は、確かタッジノという名前だっただろうか。Cランクの自分より数段上の、SRランクのドール……――
『ずばり』
 モニターの中から、ペドレがガイトを嫌味っぽく指差す。
『ヘルプしなかったら、君はやられていましたよね。その真緋呂って人は古参なんですよ。なんなら加勢してあげましょうか?』
 タッジノの脇から、カメラドローンがむくれ顔のガイトをクローズアップする。ペドレのチャンネルでライブ配信しているらしい。
「るっせえよ、ボケ! ここから逆転するつもりだったのによ、調子が狂っちまったじゃねえか!」
 ぺっ、と忌々しげに吐き捨て、ガイトは白馬上の真緋呂をにらみつけた。
「命拾いしたな、てめえ! そのうちあらためてぶっ殺してやらあ!――おい、クソザコども! お前らも覚悟しとけよ!」
 ラルたちにそう言い捨て、ガイトは大狼ごと消えてしまった。ログアウトしたのだ。タッジノの姿もいつの間にか消え、外野のドローン数機が遠くからカメラを向けるばかりになる。ノーブルランスを消して、真緋呂は白馬をノラの前に進めた。
「もう心配いりませんよ、お嬢さん」
「あ、ありがとうございます……」
 見上げて、ノラはぽかんとした。サバイバルベスト、迷彩柄の上下という格好もそうだが、Cランクの自分にはふさわしくない台詞に感じられた。
「――あっ」
 瞬きし、ノラは横たわったシーズァに駆け寄った。ヒーリをかけようとするが、絞り出そうとしてもほとんど出ない。すると白馬が近付いて、蓋を開けた銀の瓶が鞍の上から放られ、胸当てのひびから血の染み、擦り傷まできれいにしてしまう。
「う……」
 土で汚れた手をつき、みじめそうに起き上がって、シーズァは馬上を上目遣いに見た。
「命拾いしたね」
 確かめるように言う、真緋呂。うつむきがちに立ち上がって、シーズァは上衣やズボンの土を払った。
「……ありがとうございます」
 ぼそぼそと言い、シーズァは離れた。真緋呂は馬首を巡らせ、両手でこん棒を握ったままのラルを一瞥、そしてノラと向き合って手綱を締めた。
「あらためて名乗らせてもらうよ。俺は真緋呂だ。君たちは、すっかり有名だね。だから、ああいった連中が利用しようとするんだ」
 まっすぐに仰ぐノラ、軽く腕を組んだシーズァ、じっとうかがうラルを見下ろし、真緋呂は切り出した。
「俺が、君たちの力になろう」
「あなたが、わたしたちの……」
 目を見張るノラ。ぴくっと体を硬くし、斜に目をむくシーズァ――緊張を感じ取って、ラルは馬上の横顔を観察した。整った顔立ち、自信ありげな微笑みは、一流の造形家の手によるもののようだ。その美しさに多くの男性が憧れ、女性は熱を上げるだろう。だが、ラルは気に入らなかった。作られた美しさ、不自然さが好きになれなかった。
「俺がいなかったら、君たちは間違いなくやられていた」
 駒を動かすごとく、真緋呂は続けた。
「あいつらはまた襲ってくるだろう。注目を集めるために。だから、君たちには俺が必要なはずだ」
「……どういうつもりなんだ」
 腕をきつく組んで、シーズァがもがくように体を揺する。
「断っておくけど、ぼくたちは報酬なんて払えないぞ。かつかつなんだからな」
「そんなことは期待していない。俺はただ、困っている者を見捨てておけないたちでね」
 シーズァの腕組みがいっそうきつくなって、自らを締め上げるようになる。確かに自分たちだけでは、ガイトやタッジノに歯が立たないだろう。もしかしたら、さらに厄介な敵が現れるかもしれない。もっと力が、味方が必要なのだ。真緋呂はノラに視線を戻した。
「嫌な思いはもうしたくないだろ。俺があいつから守ってあげるよ」
 思い出して、ノラの顔色がまた悪くなる。シーズァはうつむき、苦しげに体を左右に揺するばかりだった。ラルのにらみには目もくれず、手綱を握ったシーズァは満足そうに微笑んだ。
「決まりだ。これから俺たちは仲間、よろしく頼むよ」


 長い鼻を軽くもたげ、象と馬、牛、鶏のキメラが頭を揺らす。ゆっくり、ゆっくりと前に出るひづめ、それに傍らのローファーが寄り添っていく。ぼやけた目をのぞき、ノラは脇腹をそっと撫でた。真っ白なシャツに赤いリボン、プリーツのミニスカートという学生服姿は、いかにも怪物という巨体、色の乏しい荒れ地というシチュエーションに引き立てられている。西の空からかすんだ雲が広がって、どうにもすっきりしない空気だった。
「少し表情が硬いな」
 正面で手綱を握って、真緋呂が馬上からノラに声をかける。
「もう少し表情を柔らかくしてみようか」
「はい」
 素直なうなずきを、カメラドローンが近くからとらえる。グレイスと散歩する姿を撮影しているのだ。それを廃墟の砦、石塁のそばから遠目にし、シーズァは固い腕組みをよじった。
「バカバカしい」
 嫌悪あらわにそっぽを向く。午前中の仕事が長引いて、ようやくの昼休みにログインしたらこれだ。この動画も編集され、真緋呂のチャンネルで公開されると思うと、なんとも不愉快だった。
 サンクチュアリを目指す必要はない、そう真緋呂は主張した。
 ドールやモンスター、いわゆるノン・プレイヤー・キャラクターは、プレイヤーから差別的な扱いを受けている。権利主体とは見なされず、所有物として扱われ、獲物として殺されるのだ。それなら、権利獲得のために活動しよう、運営に利用規約を改訂させようというのだ。他のNPCたちも救ってやらなければならない、と言われては、シーズァには返す言葉がなかった。
 そしてノラが当事者として、ドールにも心があり、感情がある、れっきとした命なのだから権利を認めてほしい、モノ扱いしないでほしい、と発信することになったのだが、それに当たって真緋呂は、注目を集めるためとしてこうしたプロモーション・ビデオの形を取った。
「あんなもの、ただの人形遊びじゃないか」
 苦々しげに口元をゆがめたところ、ぐっ、とズボンの裾が引っ張られる。こん棒を担ぐラルだった。その不満そうな顔つきにシーズァはうんざりした。これで何度目だろう。早く出発しよう、と急かしているのだ。状況がよく理解できないラルには、いたずらに道草を食っているとしか思えないのだ。
「待ってろって、言っているだろ!」
 いら立ちをぶつけると、ラルはひどくむくれ、ふん、と離れていった。シーズァはくすぶったため息をつき、やたら遠く感じられる撮影風景にまなざしをきつくした。ドールのデフォルトの行動特性、そしてガイトに叩き込まれた習性なのだろう、ノラは男性プレイヤーになびきやすい傾向があった。かみ締めた歯の裏で、シーズァは舌打ちした。
「――ッ!」
 金切り声っぽいアラートが響き、鼓膜に刺さってくる。そう遠くないところ、石門のそばに浮かぶカメラドローンからだ。付近の警戒のために真緋呂が設置したもので、カメラのフォーカスする先には酔っ払いみたいな影がいくつか見える。またゾンビか、とシーズァは神経質に体を揺すった。腐りかけの果実に寄ってくる小バエさながらである。真緋呂たちも気付き、接近するアンデッドの一群に目を向けている。
『シーズァ』
 真緋呂から、ボイスチャット――
『始末してくれないか。俺は、ノラを避難させなければならないのでね』
 そして一方的に切られた。シーズァは歯がみし、神経を逆撫でるアラートの方をにらみつけた。それは、早くしろ、と急き立てていた。
「……やればいいんだろ」
 そうしなければ、非協力的だの何だのと言われかねない。そんな材料を与えたくはなかった。レイピアを握って歩き出し、ざっ、ざっ、と速めていく。次第に近付く、崩れかけの腐敗――下手くそな人形劇、といった動きがやたらと癇に障った。
「はあっ!――」
 血の気のない、灰白色の顔を深々と刺し貫き、引き抜きざまに蹴り飛ばす。どす黒い血を吹いてのけぞり、後ろを巻き添えにゾンビはぶっ倒れた。頭を真っ二つにされ、腕を切り飛ばされ、悪臭を放つはらわたがこぼれ落ちる。水魔法ではなく、思いっきりぶった切りたい気分だった。腐臭立ち込める戦いのさなか、白馬で廃墟の砦に戻っていく真緋呂、それに従うノラ、グレイスが視界をよぎる。
「らあっ!――」
 袈裟斬りから、さらにばらばらになっていく。憑かれたように踏み込んで、次々と腐った肉塊に変えていくシーズァ――そちらを振り返ったノラに、馬上から真緋呂が声をかける。
「あれくらいの相手なら心配ない。それよりお茶にしようか。ロイヤルレッドを買ったんだ。高級な紅茶の茶葉だよ。煎れてもらえるかな」
「かしこまりました」
 従順に仰ぎ、ノラはグレイスの脇腹に触れた。石塁の出入口をくぐった先には、小さな城を思わせる洋館、真緋呂に建てられた拠点が誇らしげにそびえていた。


 鬱々とした灯が震え、揺らめく淡い影――ほの赤い空気をこもらせ、狭苦しい空間は少しずつ縮んでいくようだった。吊り下げのランタンに照らされ、寝袋の中でシーズァは身じろぎした。その隣には、子どもサイズの寝袋だけがある。
 いつまで、うろついているんだ……――
 いら立ちが鼻から漏れる。もっともそこにラルがいたらいたで、小部屋ほどのテント内部はいっそう息苦しかっただろう。
 こんな時間まで、ぼくは何をやっているんだろう……――
 額に右腕を当て、またため息をつく。これならログアウトして、シングルベッドに潜った方がいい。明日も仕事があるのだから……シーズァは起き上がって、渋面でメインメニューを開いた。わずらわしいポップアップ広告を閉じ、コミュニティから真緋呂のチャンネルにアクセスする。動画一覧のトップに新着がある。昼間に撮影した動画を編集、アップしたものだ。グレイスと並んで、学生服姿の、女子中学生風のノラが歩いている。視聴回数はそこそこだが、コメントをチェックするとその多くはドール愛好者からだった。シーズァはまた、何度も見たPR動画を再生した。
『ドールは、愛すべき存在です』
 真緋呂がカメラに向かって語りかける。ドールは人に似せて造られたもの、プレイヤーの大切なパートナー。心があり、感情があって、痛みや苦しみも感じる。だから、ひどい扱いをするべきではない、と熱弁を振るっている。思いやりにあふれ、強い熱意を感じさせるが、どうにもうさん臭い、とシーズァには感じられた。しかも、NPC解放を訴えるはずが、ドールのことしか取り上げていない。
 ドールが、もっとも共感を呼びやすい――
 だから前面に押し立てる、それが真緋呂の戦略だ。ドール以外のNPC――町でプレイヤーに情報提供したり、店頭で接客したりしている者、そしてモンスターのことは自然と後からついてくるという。しかし、本当にそうだろうか。スポットライトを当てられないものは、いつまでもそのままではないか。
 シーズァはブーツを履き、樹皮服姿でテントから出た。廃墟になった砦、石塁の内側は、かつては兵士の宿舎、櫓などだったらしい石造りがすっかり崩れ、ほとんど土台だけになっていて、薄曇りの月明かりにさらされる光景を見ていると、ゾンビの腐臭が残っていることもあって自分まで過去の亡霊になった気がする。テントの脇で、もぞと小さな山が動く。グレイスが伏せ、すう、すう、と寝息を立てている。シーズァは自分のいる、廃墟の隅から中心をにらんだ。崩れた石積みを隔てて、小さな城風の洋館がそびえている。真緋呂の屋敷だ。これをたちどころに完成させた手腕は、ログハウスを建てた経験からもシーズァは認めざるを得なかった。拠点作り機能があるとはいえ、建築材料をそろえる資金はもとより、自身で設計して組み立てるのは大きなものであればあるほど大変だ。ここに腰を据え、NPC解放活動をするつもりらしいが、それは頼もしいというより不気味ですらあった。いくら高邁な思想があったとしても、いきなりここまでやるものだろうか。
 だからシーズァは――世話になりたくない、というのが一番大きかったのだが――あそこに入らず、オンラインショップ購入のテントを設営した。家を焼かれてローンだけが残った身では、それが精一杯だった。モンスターは館に入れられない、そこは線を引くべきだ、と拒まれたラル、グレイスも寝起きをともにすることになり、結局あそこは真緋呂とノラ、ふたりの城になってしまった。鳥かごにも似た尖塔の窓から、カーテン越しに光が漏れている。ノラはあそこにいるのだろうか……まさか、真緋呂も一緒ではないだろうが……――
「キモい……マジでキモい……」
 じんましんでも出たみたいに褐色肌をかきむしって、シーズァはグレイスを起こさないように離れた。
 思った通り、ラルは石門のそばでこん棒を引きずっていた。向こうの闇をうかがい、よどんだ北の空を見上げては焦れったそうにうろうろしている。
「もう寝る時間だぞ」
 その声に、ラルはそっぽを向いた。こっちだって嫌なんだ、という言葉をシーズァは飲み込んだが、軽石をこするようなため息は漏れてしまった。
「早く戻って寝ろよ。サンクチュアリまで行かずに済むかもしれないしさ」
 投げやりなそれを、ラルはまともに聞いていなかった。人の言葉は分からないが、口調などでおおよそ察せられる。また北に目をやったが、サンクチュアリどころかヘーブマウンテンの影さえも見えない。ここ最近、サンクチュアリが現れないこともあって、このまま消えてしまうのではないか、とラルの焦りはさらに募った。今すぐにでも出発したい、あそこに行きたい。だが、恐ろしい連中に襲われたら、ひとりではどうしようもない。それが分かっているからこそ、なおさらいら立たしかった。
 があっ!――
 一声吠え、こん棒が地面をぶっ叩く。それは鈍くはじかれ、わずかに土をえぐっただけだった。
「……びっくりした……」
 痛そうに眉をひそめ、シーズァは一歩離れた。その分だけ語気が強まった。
「とにかく戻れよ。こうしていたってしょうがないんだから」
 むきになっていた。オークに舐められてたまるか、なんとしても従わせよう、そうした感情にとらわれつつあった。それがいっそうラルを頑なにさせ、シーズァが業を煮やしかけたとき、きんきんした響きが頭に刺さってくる。辺りを警戒していたカメラドローンからだ。
「モンスターか」
 ぼろぼろの砦から出て、シーズァはカメラドローンに目を走らせた。フォーカスしている方に目を凝らす。右手には、すでにレイピアが握られている。濁り雲越しの月明かりで、近付いてくるいくつもの影が見えた。
 ゾンビじゃない。
 おぼつかない足取りではなかった。少しずつ輪郭がはっきりとしてくる。ブロードソードを手にした、がりがりの体つき――衣服はおろか肉もなく、むき出しの関節がきしんでいる。
 ガイコツの怪物、スケルトン――
 数体ではあったが、ゾンビよりも手強いアンデッドだ。真っ暗な眼窩を見据えたところで、真緋呂からボイスチャットが入る。
『そこにいるのか。ちょうどいい。始末しておいてくれないか』
 シーズァは振り返った。崩れた石塁の向こう、そびえる洋館の最上階で人影が明かりをさえぎっている。もとよりそのつもりだったが、高みからの物言いで血がのぼった。
「自分でやったらどうなんだ!」
 ボイスチャットで、シーズァは突っかかった。
「ぼくは、君の部下じゃないぞ!」
 ふっ、と鼻で笑うのが聞こえ、かっとなったところで、真緋呂があしらうように続ける。
『そこにいるから頼んだだけだ。ちょうど次の動画を考えているところでね、あまり集中を切らしたくないんだが、手に余るならそう言ってくれ』
「そんなことを言ってるんじゃ――」
 こん棒を振り上げ、ラルが群れに突っ込んでいく。チャットを打ち切って、ぱっ、と鋼の胸当てを装備、後を追うシーズァ――その視界でこん棒が振り回され、ブロードソードと荒っぽく打ち合う。
「ったく、どいつもこいつもっ!――」
 ウォダーを唱え、猛った水流がスケルトンに躍りかかる。ひるんだところに飛び込み、レイピアの切っ先が眼窩の闇に吸い込まれた。

 
「いい加減にしろ!」
 夜陰に響く、怒声――戦闘を終えてすぐ、シーズァが洋館の玄関扉をどんどんと叩く。その後ろ姿を見ながら、ふう、ふう、と鼻息荒く、残り火のようにラルは火照っていた。さんざんぶっ叩いたこん棒もいきり立ったままである。扉が迷惑そうに開かれ、ルームウェア姿の真緋呂が立つ。
「こんな夜更けになんの騒ぎだ。チャットで済ませられないのか」
「ふざけるな! 無視しているくせに!」
 声を荒げたシーズァは、肩越しにノラを認めた。ピンク色のルームワンピース、おそらく真緋呂のセレクトに違いない。何事だろうか、という心配顔に水をかけられたが、焼け石はまたすぐに熱くなった。
「NPC解放とか言って、毎日毎日撮影しているだけじゃないか! ノラはあんたの人形じゃないぞ!」
「そんな話か」
 真緋呂は苦笑し、あきれたように腕組みをした。
「前にも説明しただろう、俺たちの主張を広めるためだと。ノラは活動の顔として頑張っているのだよ」
「はっ、人形遊びしているようにしか見えないけどな」
「それは君の、ゆがんだ見方だろう。あの子のおかげで視聴回数はまずまずだ。その層に訴えかけることで賛同者も増えていくはずだ」
「あんたは、ドールのことばっかりだ。それにしか関心がないんじゃないのか。そうじゃないのなら、グレイスはともかく――」
 と、シーズァはちらと振り返った。
「ラルを館に入れてあげないんだ。それって差別だろ!」
「モンスターだぞ」
 またか、という顔で真緋呂は続けた。
「これも繰り返しになるが、モンスターはモンスターなんだ。プレイヤーはもちろん、サポート役のドールとも違う。だから、きちんと線を引くべきだと言っているのだ。君は、プレイヤーとドール、モンスターが同等だとでも言うのか?」
「そ、それは、だから……」
 シーズァは口ごもった。線を引くべきだ、と聞いたときは、釈然としないながら、そんなものか、と飲み込んだ。たとえば飼い犬と同じベッドで寝ない、それと同じだろうと思ったのだ。そして今また繰り返され、さらに問われて、返す言葉を見つけられなかった。そうしたうろたえ、その向こうの薄い冷笑を見て、ぎりっ、とラルは牙をかみ合わせた。やはりあの紅の目は好きになれない。金髪の鬼とはまた別の、実に嫌な臭いがする。
「……べ、別にそんなことは言ってない……つまり、その、なおざりにしているんじゃないかって言ってるんだ! モンスターのことを! あんたはドールに偏りすぎなんだよ! それともノラなのか? ノラにご執心なのか?」
「少し頭を冷やした方がいいな」
 閉めかけられた扉を手で止め、困惑気味のノラをちらと見て、シーズァは食い下がった。
「答えろよ! それでぼくたちに近付いたのか?」
「みっともないな、嫉妬は」
「嫉妬?」
「君は、俺に嫉妬しているんだよ」
 憐れみを浮かべ、あごが上がって――真緋呂の目つきは、高みから見下ろすようになった。
「今まで自分が仕切っていたから、面白くないんだろう。実に下らない。あの子を利用しているのは君の方じゃないか? か弱い乙女を守る騎士ごっこは、さぞかし気持ちがいいのだろうな」
「なっ……」
 シーズァは絶句した。体がこわばって、手から小刻みに震え出す。ラルの尖り耳はとらえていた。激しくなっていく鼓動、逆巻くような息遣いを――
「表に出ろっ!」
 砕ける波頭さながらの剣幕だった。その怒鳴り声にラルは尖り耳を下げ、はらはらしていたノラは息を呑んだ。真緋呂は苦笑して、にっ、と口の端をつり上げた。
「君では、俺の相手にならないよ」
「表に出ろって言ってるんだっ!」
「や、やめてください」
 青い顔でノラが止めようとする。が、真緋呂は振り向かずに制した。
「君は下がっていなさい。一度ならず二度も口にしたんだ。引っ込みがつかないだろうさ」
 ちょっとそこまで、というふうに、真緋呂がシーズァの後についていく。こん棒を右肩に担いだラル、サンダルを突っかけたノラもそれを追う。崩れた石積みを避け、石門の方へと足早に歩いていく影たち――騒ぎで目を覚ましたらしく、テントの近くからグレイスが不安そうに見ていたが、シーズァは目の前の暗闇しかとらえていなかった。
 そして石門の前でシーズァはレイピアを構え、真緋呂はルームウェア姿でノーブルランスを手にする。追ってきたラル、ノラは、きりきりと張り詰めるシーズァ、軽く汗をかこうとする真緋呂を見た。
「それで、これは」
 黄金の穂先が、鋼の胸当てに向けられる。
「何を賭けた勝負なんだ?」
「出ていけ!」
 シーズァは歯をむき、切っ先を冷ややかな微笑に据えた。
「お前は、ノラにとってよくない奴だ!」
「ずいぶんな言い様だな。わがままな君なんかより、ずっと大事にしているつもりだがね」
「黙れっ!――」
 引き絞った矢を放つごとく、シーズァは飛び出した。朧月で鈍くきらめく、細い刃――それはたやすくはじかれ、繰り出される突き、斬りつけのことごとくがさばかれてしまう。
「うっ!――」
 紙一重で黄金の突きをかわし、シーズァは飛びしさった。危うく胸を貫かれるところだった、と心胆を寒からしめる。グリップを汗でべたつかせ、褐色の手はなおもレイピアを――
「――にぃッ!」
 水の障壁で雷撃が散り、もわっ、と蒸気が広がった。ライバーを放った真緋呂は、とっさのウォバリに面倒そうな顔をした。
「なるほど、君とはつくづく相性が悪いらしいな。しかし、それでどうにかなると思ったら大間違いだぞ」
 ノーブルランスの穂先がいかずちを帯び、雄々しい黄金色に輝く。より強力なものが来る、とシーズァはすぐさま水の障壁を厚くした。直後、気合いとどろき、突きとともに虚空を割るようないかずちが走る。ライバーの上位魔法、ライゴー――それは槍の一撃と相まってウォバリをぶち抜き、レイピアの剣身を巻き添えに鋼の胸当てを直撃した。
「うわあああっっ!――」
 鋼を飛び散らせて吹っ飛び、もんどり打ってシーズァは地面に倒れた。ノラが小さく悲鳴を上げ、ラルは攻撃のすさまじさにあっけにとられていた。無残に折れ、転がったレイピア……うめきながらシーズァは起き上がろうとしたが、思うように動くことができなかった。
「痺れているからな、いかずちのショックで」
 ノーブルランスを肩に担ぎ、真緋呂はその無様を見下ろした。
「これでも手加減したんだぞ。それでも君の水には不純物が多いらしいから、たやすく貫かれてしまったというわけだ。要するに君は未熟なんだよ。そんなざまでナイト気取りとは笑わせてくれる。さて、人に出ていけと言ったからには、それなりの覚悟もあるはずだな?」
「く……」
 やっとのことでシーズァは立ち上がり、がっくりと顔を伏せ、紫髪で隠したままでよろよろ歩き出した。ゾンビにも似たその歩みが闇に消えていく。引き止めようとしたノラは、ノーブルランスで遮られた。
「そう心配することはない。そのうち頭を下げてくるだろう。さ、もう休もう。明日も撮影があるからね」
 そうして肩を抱かれ、うつむいたノラが連れられていく。その後ろ姿をにらんで、豚鼻は呼吸をささくれさせた。そして視線を戻したが、シーズァのにおいはもとより、ずるずると引きずる足音も聞こえなくなっていた。
 行きたい、あそこに行きたい――
 焦がれたが、北の空は依然として濁っていた。いら立って、ごっ、とこん棒で地面を叩き、さらに二度、三度と叩いて、ラルはよどみの雲間に光を探した。


 薄鈍色の翌朝、廃墟の砦からラルの姿は消えていた。
 まだ暗いうちから館の掃除、朝食の準備をして、食後、真緋呂が一旦ログアウトした後で、エプロン姿のノラはそのことに気付いた。それより先にグレイスが見えず、ひっそりとしたテントをのぞいたところ、こん棒とともに影も形もなくなっていたのだ。石門の外にも、そこから見える限りにもない。
 ノラは、そら恐ろしくなった。
 廃墟の隅々まで見て、石塁の外をぐるっと回って、辺りに目を凝らしてみたが、やはりどちらの姿もなかった。別々に出ていったのか、一緒なのか、サンクチュアリに向かったのか……昨夜の一件が関係しているのか……考えるほど胸苦しくなり、たまらなくなったノラは、真緋呂が戻ってくるのを待ちかねた。
「それは心配だね」
 真緋呂は軽くうなずき、ノラの肩に手を置いた。
「掲示板に書き込んでおこう。見かけたプレイヤーが知らせてくれるだろう」
「よろしくお願いします」
 頭を下げたノラは、用意されたフリルワンピースで撮影に入った。
 そしてむなしく日が暮れ、東から西の地平に何度も沈んだ。
 本日の衣装は、タンクトップにショートパンツだった。廃墟の砦近くを散歩したり、カメラに微笑んだり、グラビアでよくあるポーズをしてみたり――そうした撮影風景を、チャンネル視聴者でもある数人が見物している。真緋呂はそれらと言葉を交わすこともあったが、けっしてノラに近付けることはなかった。
 仕事に戻るから、と真緋呂がログアウトすると、ノラはエプロン姿に着替えた。
 夕食は、何を作ろうか……モデルルームじみたキッチンに立つつもりが、ノラは尖塔の窓ガラス越しに外を眺めていた。ぽつぽつと草まじりの、枯れ色の荒野がどこまでも広がって、消え入るようにかすんでいく。
 どうして、探しているんだろう……――
 ノラは、ぼんやりとした。ラルは殺そうと追っていて、シーズァは正式なマスターではなく、グレイスは襲いかかってきたモンスター……一緒だったのは成り行きで、今は自分ひとり……いや、真緋呂がいる。彼は強い。そばにいれば守ってくれるだろう。マスターとして仕えるのもいいかもしれない。ガイトみたいにひどいことはしないだろう……ひどいこと……なんだろう、ひどいことって……ブスだの役立たずだのと罵られ、あれこれこき使われて……それがひどいことだっけ……とにかく真緋呂なら、おそらく……――
 急にえづいて、ノラは口を押さえた。息ができない。あふれかけの涙ですべてがぼやけていく。吐くこともできず、こわばり、もだえながら……ノラは窓ガラスに手を突いた。硬く、ひんやりとした感触が伝わってくる。この吐き気はなんなのか……外の空気が吸いたくてたまらなくなったが、はめ込み窓ではどうすることもできず、急いで部屋を出て――気が付いたときには石門をくぐっていた。目の前には、色褪せた野が広がっている。
 サンクチュアリに向かったのなら……――
 しばし逡巡して、ノラは歩き出した。ぱっ、とサバイバルベスト、迷彩服に着替える。ひょっとしたら、まだその辺りにいるかもしれない。灰色がかった陽の下、廃墟の砦から北に向かう。そちらはちょうど裏手に当たり、はめ込み窓や崩れかけの石門からの景色とは違って、そう遠くないところに林や森も見える。乾いた土を踏み、角張った小石を蹴るスニーカー……見つけたら、追い付いたらどうするのか、どうしたらいいのか……こんがらがったものを解きほぐそうとしながら、とにかくこんな別れは後味が悪すぎると歩を進めていく。そこまで行こう、あそこまで行こう……足早に進むほど戻りがたくなり、やがて影の落ちる樹間に踏み入っていく。夕食の準備に間に合うよう、真緋呂がログインする前に戻ればいい……ここまで来たのだから、もう少し、あとちょっとだけ……――
 いつしか河原の丸石を踏み、幅広の流れをさかのぼっていた。濁った水音を立て、川底の石を洗っていく浅瀬の向こう側から、覆いかぶさるように枝葉が茂っている。あいまいな陽は、もわっとした薄雲におぼれている。
 そろそろ帰らなければ……――
 そう思いながら、諦めきれない。踵を返すことができない。しかし、このまま歩き続けて、ひとりになって、一体どうなってしまうのか……なぜ自分は、こうして歩き続けているのだろう……――
「どこまで行くんだよ、クソブス」
 ノラは凍りついた。無関心なせせらぎが遠のき、がちゃがちゃと石を踏んで、けだものの息遣いが近付いてくる。振り返るまでもなかった。ガイトだ。龍王之刃を背負って、大狼にまたがった悪鬼がすぐ近くにいた。
「ひとりでお散歩とは、つくづくドールはバカだよな」
 せせら笑いのそばから、カメラを回すドローン――
「こっちはてめえの位置が分かってんだよ。忘れたのか、ボケ。おい、あのスカした野郎にどこまでやられたんだ? 奥までずっぽりか?」
 吐き気がこみ上げ、がくっ、とノラはひざを折った。あえぎ、えづくが、はち切れそうになったまま出てこない。
「おいおい、オレ様のツラ見ると吐き気がするってか。傷付くよなあ、そういうの。バカにしやがってよっ!――」
 革グローブの右手に赤いブルウィップが握られ、空気を裂いて、うずくまったそばの石を砕く。首をすくめ、亀みたいに縮こまって――その尻を鞭打たれ、ぎゃっ、とノラは河原に突っ込んだ。尻に火がついたような痛みから、這って、這って、あたふたと駆け出す。河原の石を踏み、ばしゃばしゃと走る背中を打たれ、浅瀬に倒れ込んで――冷たい流れで髪から顔、迷彩服までぐっしょりになる。そこをブルウイップが容赦なく打ち、悲鳴をずたずたにしていく。
「おら、もっと鳴けよ。そうでないと映えないだろ。ほらよっ!――」
 ひときわ強く腰を打たれ、ノラはのけぞった。ライブ配信しながらさらに右太腿、左肩を打ち、わざと外しておびえさせ、そうしてまた背中を打つ。それはサバイバルベスト越しでも強烈で、奈落に落ちるように意識が遠のく。悲鳴もやがて枯れ、ノラはぐったりと流れに横たわった。
「おい、喜べよ。視聴者数の記録更新だぞ」
 ひゅう、と口笛を吹き、ガイトは大狼を、ばちゃ、ばちゃ、と進ませた。ターゲットに近付いて、カメラドローンの前でブルウィップのグリップを握り直す。
「ほれ、土下座しろよ。ご主人様を裏切って申し訳ありませんでした、ってな。そうすりゃ、考えてやってもいいぜっ!――」
 赤い一撃がノラの耳元にあって、しぶきを飛び散らせる。濡れネズミはもぞもぞし、必死に這おうとした。
「全然反省してないみたいだな。視聴者の皆さーん、こいつやっちゃっていい? やっちゃっていいよな!」
 振り上げられ、いびつな弧を描こうとしたブルウイップがスパークし、ぐわっ、と声を上げてガイトがグリップを離す。革鞭は宙で身もだえし、河原に落ちてぶすぶすとくすぶった。落雷のときと同じ、焦げた臭いが漂っていく。右手をさすりながら、ガイトは殺気みなぎる眼光を走らせた。
「弱い者いじめとは、つくづく醜悪だな」
 真緋呂だった。白馬の上で肩章、金ボタン、そしてノーブルランスをきらめかせている。雷魔法でブルウィップを打ったのだ。そちらに向き直ったガイトだったが、白馬が一歩進むごとに大狼はうなりながら退いた。
「てめえ、この野郎……」
 しびれる手で龍王之刃を握るも、ひづめを鈍らせることはできなかった。
「お前では俺に勝てない。年季が違うんだよ」
 ノーブルランスを軽く振ると、鼻面にしわを寄せ、牙をむいた大狼がさらに後退する。すでに浅瀬の中程まで下がっていた。配信画面では、前に出ろ、やってしまえ、とコメントがあおるも、ガイトはにらむばかりだった。真緋呂もカメラドローンを浮かべ、自身にフォーカスさせている。弱々しくもがき、起き上がろうとするノラ、その濡れきった視界で黄金の槍がゆっくりと水平に上がる。
 あははっ!――
 浅瀬の向こう、樹林から怪鳥めいた笑い声――樹上から影が跳び、河原の石を軽やかに踏む。数多の金蛇がくねる髪、碧い妖星の瞳、ビビッドな彩りのファッション――美少年ドールが対峙を面白そうに眺め、真緋呂の顔つきが鋭くなる。
「やだなあ、そんなに怖い顔しないでくださいよ」
 アクションカメラを持つ右手、左手を挙げ、タッジノがにっこりする。それは寒気のする向日葵を思わせた。その横に浮かぶ画面では、赤い唇をつり上げた、くどい笑みの仮面がロココ調ソファで片ひじをつく。
『勝負の邪魔をするつもりはないって』
 くつろぎながら、ペドレは仮面越しにいやらしく笑った。
『また怒られちゃうからね。ただちょっと、ミーのチャンネルをのぞいてくれないかな』
「こんなときになんで、てめえのチャンネル見なきゃなんねえんだよっ!」
『まあ、そう言わないで。タッジノが撮影した衝撃映像だぞ』
 ガイトをいなして、ひっひ、とペドレは笑った。怪訝な顔でそれぞれアクセスし、広告を経てまもなく真緋呂の目が、さながら鎧戸を下ろすように細くなって、ガイトがはしゃぎ声を上げる。
「何やってんだよ、てめえ! こっそり見てたのかよ!」
 流されていた映像は、ノラが鞭打たれているのを遠目にうかがう真緋呂だった。視聴者もペドレのチャンネルでそれを見て、たちまち、キモい、偽善者、などといったコメントを並べる。
「タイミングがいいはずだよな! 見計らってんだもんな!」
 思いっきり声をはずませ、龍王之刃を握りながら手を叩くガイト――
「そんで、ピンチにヒーロー登場ってか! キモ、キモ、めちゃキモっ!」
「誤解しているようだな。俺は、向こう見ずではないだけだ」
「ウソつけ! オレ様より強いんだろ! 一秒でも早く助けてやりゃいいじゃん! はははっ! なーにが正義の味方だよっ!――おい、クソブス! お前もとことんバカだな。こんなインチキ野郎にだまされてよ!」
「だましてなどいない。俺は、ドールたちを救おうとしているんだ」
 反論すると、タッジノが肩をすくめる。
「まったく、とんだナルシシズムですね」
「なんだと?」
 と、にらむ真緋呂に向かって、タッジノは首の紫カラーを見せつけた。
「ドールは、マスターのために生まれてくるのです。マスターへの奉仕をなによりの喜びとしているのですよ。救うとかなんとか、そんなものは勝手な押し付け。誰も望んではいません」
 そしてタッジノは、みじめな濡れ姿に蔑みの目を投げた。
「出来の悪いドールは、その分だけ努力すべきです。それを怠っていながら、大事にしてもらいたいなんて虫がよすぎますよ」
『That's right』
 画面の中から、刺さんばかりに真緋呂を指差す。
『ドールを救うとか、そんなものはたわ言に過ぎない』
 かっ、と閃光が走って、河原の石が飛び散った。すさまじい雷撃は、しかし標的を逃し、ひょいひょいとタッジノは下がった。
「後はおふたりでどうぞ。仲良くやってください」
 言うが早いか、その姿が樹間の陰に消える。喉をくびるように得物を握り直し、真緋呂はガイトに黄金の切っ先を据えた。
「ドールを虐待するクズめ。思い知らせてやる」
「うるせえ! 正義の味方気取りがよっ!――」
 湾曲した大剣をはじく、黄金の槍――白馬がいななき、大狼が飛びかかって、火花を散らす合間に火炎といかずちが飛び交う。真緋呂の動きは少なからず乱れ、それがガイトには幸いした。一進一退の攻防が倒れたままのノラに近付き、水しぶきがかかって、踏まれそうにもなったが、真緋呂は攻撃の手を緩めはしなかった。
 ざざざあっ――
 乱されるままだった流れが身をもたげ、どっと両者の間に割って入る。飛びすさった真緋呂とガイトは、静まっていく水流の源に巨岩並みの影、その脇の人影を認めた。
 グレイス、そしてシーズァだった。巨体がノラに歩み寄って、長い鼻で濡れた体を持ち上げる。
「……」
 やっと起き上がった濡れ顔が、長い鼻で拭われていく。グレイスの瞳は依然として暗かったが、奥にはわずかながら光があった。それ以上に目を引くのが、ノラをかばって立つシーズァである。アバターのデザインをいじったわけでも、身なりが変わったわけでもない。樹皮の上衣にズボン、癒やし水で修復された鋼の胸当てである。だが、顔つきは数日前とは違っていた。嵐が過ぎ去った後の、よどみのなくなった静けさのようだった。
「あんたの言う通りだよ」
 シーズァは真緋呂を見据え、苦みをかみ締めるように続けた。
「ぼくは、ノラたちを利用していた。昔、いろいろあって……それで、誰かの助けになりたかった。必要としてもらいたかったんだ……」
 重たげなため息をつき、また息を吸って――
「ひとりになって、あんたに言われたことをずっと考えていた。そこにその子が、グレイスが来て……だから、戻ってきたんだ」
 鞍の上で、ふっ、と真緋呂が鼻で笑う。
「あいにくだが、君の居場所はもうないんだよ。ノラ、こっちに戻ってきなさい」
 呼ばれたノラは、半透明のまなざしを漂わせた。
「おい、ふざけんなよっ!」
 怒鳴って、湾曲した大剣が振り上げられる。
「それはオレ様のもんだ! オレ様のドールなんだよっ!――おい、クソブス! 戻ってこいっ!」
 そう唾を飛ばすも、ノラはぼんやりしていた。真緋呂がいてはうかつに手を出せず、ガイトはぎりぎりと歯がみした。
「帰ってくれ」
 それぞれをにらみ、シーズァは右手を振った。
「これ以上、ノラにかかわらないでくれ」
「笑わせるな」
 ぶるるっ、と白馬が鼻を鳴らし、一歩、二歩と出る。
「守ってやるだけの力もないくせに。さっさと消えないと、また痛い目に合うぞ」
「あんたは、ノラを弄んでいるだけだ。他のドールにも同じことをしてきたんじゃないのか」
「言わせておけばっ!――」
 真緋呂の左手から、いかずち――だが、それは水のバリアに散らされた。蒸気は上がったものの、ウォバリを突破できてはいない。続けざまのライバーも同じく散って、シーズァはほっとした顔になった。
「水の純度を高めようとレベルを上げたんだ。猛特訓の甲斐があったな」
「いい気になるなよ。――ノラ! いつまでそうしているつもりだ! 早くこっちに来なさい!」
「だめだ!」
 シーズァは、ノラを振り返った。
「君は、誰のものでもない! 誰のものでもないんだよっ!」
「ノラっ!」
 いら立ちあらわに、真緋呂はノーブルランスの切っ先を向けた。
「お前を守って、住むところも与えて、世話してやったのは俺だぞ!」
 ノラの目は、ゆらゆらとした流れに落ちていた。荒く鼻を鳴らし、近付こうとする白馬を水流のうねりがさえぎる。
「おれは、まだあんたに勝てないだろう。だけど、むざむざやられはしない」
 水流は身をくねらせ、迎え撃つ構え。グレイスも巨人の鞭さながらの鼻をもたげ、いつでも突進するぞ、という目つきだった。舌打ちした真緋呂は、ガイトのカメラドローンにねちっこくフォーカスされていることに気付いた。
「ざまあねえな、フラれちゃってよ! おっと、そんな怖い顔すんなよ。オレ様も忙しいからな、今日のところはこれくらいにしといてやらあ!」
 そう言い捨て、ガイトはまたがった大狼と消えた。ログアウトしたのだ。自身のカメラの手前もあって、真緋呂はノーブルランスを余裕ありげに下ろした。
「いいだろう、少し頭を冷やすといい。俺のありがたみをよく考えてみるんだな」
 真緋呂、手綱を握られた白馬が消えると、シーズァはノラに癒やし水をたくさんかけた。
「立てるか、ノラ」
「はい……」
 手を取られ、ノラはようやく立ち上がった。河原に移動し、シーズァが道具袋から取り出したタオルで拭いて、とりあえずしたたることはなくなった。
「そこらで火を起こして暖まろう。出しゃばっちゃったけど、これでよかったのかな?」
 こくん、とノラはうなずいた。その瞳は、魂が戻ってきたようだった。
「……探さなきゃって……だから、わたし……」
「……そっか」
 シーズァはうなずき、湿ったタオルで自分の顔を拭いた。
「一休みしたら、ラルを追いかけよう。それでいい?」
「はい、お願いします」
 ノラは即答した。せせらぎは、もとの流れを取り戻していた。
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