第22話 戸惑う心

文字数 2,698文字

 過酷な『ダブルヘッダー』戦を勝ち抜いたレイチェルはそのまま医務室へ運ばれ、とても夜に抜け出してブラッドの部屋まで行く余裕が無かった。

 ただ、夜になってチャールズがエイプリルを伴って部屋に戻った後のタイミングで、短時間だけブラッドが医務室を訪れた。

「ブラッド。ご、ごめんなさい……」

「そんな顔をするな。解っている。今夜の会合は中止だ。今は回復に専念しろ」

「え、ええ。ありがとう」

「……礼ならあのアンドリューにも言っておくんだな。お前が今日の試合を乗り切れたのは奴のお陰だろう」

「……! し、知っていたの? あれは一体……」

 アンドリューがわざと負けてくれたお陰で、レイチェル達は命を繋ぐことが出来たのだ。彼が何故あんな事をしたのかレイチェルには解らなかった。

 それでいて彼の負け方は、流石エンターテイナーだけあってアナウンスや観客達も気付かない程に自然であった。にも関わらずブラッドがそれに言及したという事は……

 彼が肩を竦めた。

「あの男は一度火が付くと我を忘れる程に激昂する性質のようだな。追放の原因となった事件はそれによって引き起こされた物だったが、奴自身は本来そこまで悪辣ではないかも知れない……。そう推測して個別に接触し、お前達の事情を打ち明けたんだ」

「……!!」

「リスクはあったが、どの道あのままでは確実にお前に勝ち目は無かった。だがリスクを冒した甲斐はあったようだな。まあ奴自身が元々ヒールで、そういう役処に抵抗が無かったというのもあるだろうが」

「ブ、ブラッド……私……」

 レイチェルは何と言っていいか解らなかった。チャールズに関しての警告だけでなく、これで彼に明確に命を救われてしまった。彼がリスクを冒してここまでしてくれているのに、自分は何も返す事が出来ない。それが心苦しかった。


 ブラッドがフッと表情を緩める。普段強面の彼だが顔の造作そのものは整っている事もあり、そうして笑うと意外な程に優しく甘い顔立ちになった。何故かレイチェルの鼓動が若干速くなる。


「ジュリアンの家族を守りたいだけだ。俺が勝手にやっている事だから気にするな。もし報いたい気持ちがあるなら、何としても試合に勝ち残って生き延びろ。それが一番の見返りだ」

「え、ええ……」

 ブラッドがレイチェルの頭に手を伸ばす。彼女は一瞬ピクッと身体を硬直させるが、彼の手を拒否する事無く頭を撫でるに任せた。

「とにかく今はゆっくり身体を休めろ。……ヴェルナーとの試合はナイスファイトだった」

「……っ!」
 認めてくれて、褒めてくれる人がいる。それがこんなにも嬉しい事だったとレイチェルは初めて知った。知らずに込み上げる物があり目が潤んできた。

 ブラッドがレイチェルから離れて医務室を後にしていく。その姿を見送りながら彼女は未だに胸の鼓動が高まったままなのに気付いた。

(わ、私……一体どうしちゃったのかしら? 彼はあくまで組織を潰す為、そして私がジュリアンの妻だから気に掛けてくれているだけなのに……)

 自分に言い聞かせるが、そう思うと何故だか妙に胸が苦しく切ない気持ちとなった。彼女はそんな自らの心の動きに戸惑いを隠せないのであった……


****


 翌日。まだ医務室にいるレイチェルの元にジョンが訪れ、今日は『休み』だと告げられた。

「や、休みですって……?」

 レイチェルは何を言われたのか解らないという風に戸惑った。彼女にとって不利な条件ばかり押し付けてくるこの連中の事。何を企んでいるか解らない。そんな警戒や疑念も顔に出てしまっていた。 

 それを察したらしいジョンが薄く笑う。

「次回はより大掛かりな試合を予定しています。あなたがボロボロのままでは会員の皆様が十全に観戦を楽しめなくなりますので。今日の昼過ぎには部屋へ戻れると思いますが、明日に備えての療養とコンディションの調整を行っておく事を推奨致します」

「……!」
 つまり次の試合はレイチェルが万全の状態でなければ戦い抜く事も難しい。そういう事か。

 用件を告げるだけ告げてジョンが退室していく。入れ替わりにチャールズが寄ってきた。


「レイチェル、聞いた通りなら今日は一日しっかり休養を取った方が良い。明日どんな試合があるか解らないんだ。後、出来る範囲で簡単なトレーニングと柔軟体操もね。今日は僕が一日付きっきりで君のコンディションを整える。いいね?」

「チャーリー、私は……え、ええ。お願いするわ」

 余り無下に断ったりすると怪しまれてしまう。それに確かに明日どんな試合が待っているか解らないのだ。ジョンの口ぶりからすると、あるいは昨日のダブルヘッダー戦を上回るほどの過酷な試合という事もあり得る。

 チャールズは人格に問題はあるがトレーナーとしての腕は確かなので、ここは言う通りにした方が良さそうだと判断した。

 しかしそうなると折角の『休み』だというのにブラッドと連絡も取れず、脱出計画の方も停滞してしまう事になる。それは避けたいので、どうしたものかと思案していると……


「ママ、『お休み』なら今日は私、この建物の中をお散歩してみたいの。すっごく広いみたいだし」


 エイプリルだ。それでレイチェルは察した。娘は動けない母親に変わって自分が動くつもりなのだ。前回の会合で自分から申し出たように……

「エ、エイプリル。でも……」

「大丈夫! 絶対にお外には出ないから! 迷ったら誰かに聞けばいいし。ね、ママ。お願い」

 それでも娘が心配なレイチェルが渋るが、エイプリルは上目遣いに可愛くお願いしてくる。しかしその目は真剣である事をレイチェルだけは気付いていた。

「ははは、まあ、この子もたまには気分転換が必要だろうし丁度いいんじゃないか? この子の立場はここにいる皆が知っているし、変な事をしてくる奴もまずいないだろう」

 エイプリルの真意を知らないチャールズは気楽に笑う。だが言っている事は当たっている。エイプリルがレイチェルを戦わせる為の大事な人質である事は周知の事実だ。彼女の試合を楽しみにしているここの連中が、間違ってもそれを台無しにするような真似はしないだろう。

 そういう意味では確かに安全と言えた。レイチェルは溜息を吐いた。

「はぁ……解ったわ、エイプリル。でもあまり無茶はしないって約束して」

「ママッ、ありがとう! うん! 約束する!」

 エイプリルはパッと顔を輝かせて勢い良く頷いた。それを見てレイチェルも苦笑する。


 確かに彼女の試合を楽しみにしている組織や会員の連中に対してはエイプリルは安全だ。だが……ここにはそれ以外にも『異なる立場』の人間達がいたという事にレイチェルは思い至らなかった……
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