第34話 通じ合う想い

文字数 5,240文字


「あ……」

 歩きだしてから気付いた。レイチェルは靴を履いていない。アンクルサポーターを着けているものの、踵や足先は露出していて機能的には裸足と変わらない。今までは屋内だったのでそれ程気にならなかったが、屋外を裸足で歩くというのは心理的な抵抗は勿論、小石や木の枝などを踏んでしまうリスクも高い。

 だからといってブラッドの靴を借りる訳にも行かない。それだとブラッドの履くものが無くなってしまうし、何よりサイズがかなり違うのでぶかぶかで却って歩きにくくなるだろう。当然エイプリルの靴は論外だ。

「……なるべくゆっくり、足元に注意しながら歩くぞ」
「うう……ご、ごめんなさい」

 ブラッドも片腕を負傷している以上、背負っていく事も出来ないので、結局そうするしか選択肢は無かった。尖った石やささくれだった枝などを踏まないように慎重に注意しながら、森の木々の中に紛れていく。ブラッドが先頭を歩きながらある程度の露払いをしてくれる。

 島には整備された小道も張り巡らされており、当然そちらの方が歩きやすいのだが見つかるリスクも高いので、敢えて整備されていない森の中を進んでいく。


「……ここが良さそうだな」

 五分ほどそうして森の中を進んだだろうか。大きな木が洞になっている場所があった。ブラッドが足を止めて呟く。ようやく休めそうだと、レイチェルはホッとした。裸足で森の中を歩くというのは、想像以上に神経を使って疲弊させられたのだ。

 ブラッドに促されて洞の壁に寄り掛かるようにして座り込む。隣にエイプリルが座ってレイチェルに身体を寄せてきたので、レイチェルもまた娘に寄り添うようにして互いに抱き合って座る。ブラッドも周囲をもう一度警戒した後に、エイプリルを挟むような形で腰を下ろした。

 しばらく静かな時間が流れる。今頃はもう地下は大騒ぎになっている事だろう。だがここは静かな物で、まるで自分達以外に誰もいない無人島であるかのように錯覚してしまう程だ。


「ブラッド、腕は大丈夫? ごめんなさい、私達の為に……」

 身体を休ませて少しゆとりが出てきたレイチェルは、まずブラッドに謝罪をした。彼がいてくれなければ、自分達はあの恐ろしい地下から二度と出られずに命を落としていただろう。ブラッドは苦笑しながら頷いた。

「ああ、気にするな。腕の骨折などいずれは治るものだ。俺もお前達の存在に助けられた。お前達が居なかったら、これ程上手くは行かなかっただろう。礼を言うのは俺の方だ」

「ブラッド……」

 レイチェルは再び感極まった。すると彼が真剣な眼差しで彼女の方を見てきた。レイチェルは急に落ち着かない気持ちになった。

「ブ、ブラッド……?」


「……今ならジュリアンの気持ちが良く解る。強く、気高く、そして美しい……。お前を守れて本当に良かった」


「……っ!」
 レイチェルの頭が急激に沸騰する。頬どころか耳まで赤くなってしまう。どちらかと言えば寡黙でストイックなタイプである彼はこれまで、明確にレイチェルの事を一人の女性として褒めたり好意を向けたりしてくる事がなかった。

 なのでこれは、はっきり言えば不意打ちであった。

「ブ、ブラッド、私……私もあなたの事が……」

 気付けばそんな言葉を口にしていた。顔が熱い。胸の動悸が激しくなる。気持ちが昂る。

(彼が……この人が愛おしい!)

 レイチェルはごく自然に身体を傾けて、彼に顔を近づけていた。すぐ側に小さな娘がいるという事も、この瞬間だけは忘れていた。ブラッドもまたそれに応えて、そっと彼女の頭を抱き寄せて、そして……


 レイチェルは目を閉じた。互いの唇が触れ合う感触。彼女の心が至福に包まれる。


「…………」

 実際の時間は十秒程度だろうか。お互いが同じタイミングでごく自然に唇を離した。エイプリルを見やると、彼女は両手で顔を覆って何も見ていない風を装っていた。キスをしている間も全く物音を立てず身じろぎもしなかったので、どうやら彼女なりに気を利かせてくれていたらしい。

 母親がブラッドと互いに好き合っているという事実に対して、好意的に受け止めてくれているようでホッとした。エイプリルもこれまでの体験を通して彼の事を信頼し、慕うようになってくれていたのだ。その事にレイチェルは嬉しくなった。

「ふふ、エイプリル、ありがとう。もういいわよ」

 そう声を掛けてやると彼女は手の覆いを外して、大人二人を見上げた。

「ママ、良かったね。おじさん、ママの事大事にしてくれないと承知しないわよ?」

 ブラッドはフッと笑ってエイプリルの頭を撫でる。

「ああ、解ってる。ママだけじゃなくてお前の事も大事にする。約束だ」

「ホント!? 約束よ!?」

 エイプリルは嬉しそうに笑って、頭を撫でられるに任せていた。そんな娘の様子にレイチェルも破顔する。とても幸せな気分だった。チャールズと結婚していた時期も含めて、こんな幸福を感じるのは久しぶりであった。

 このまま何事も無く終わってくれればいい……。そんな風に考えたのが却っていけなかったのだろうか。


 パキッ


「……ッ!!」

 全員が硬直する。今のは……聞き間違いでなければ、木の枝が踏まれるような音だったはずだ。自然に発生する音ではない。つまり、誰かが近くにいる……!

 レイチェル達は全員、石の彫像と化したように一切の身動きを止め息を殺した。このまま物音を立てなければバレないかも知れない。

「……出てこい。そこに隠れているのは解ってるぞ。ああ、こっちは銃を持ってるんで、下手な事は考えない方がいいぜ?」

「……!」
 しかしそんな期待は呆気なく打ち砕かれた。しかもレイチェルは今の声に聞き覚えがあった。この状況で誤魔化しは不可能だ。

「…………」

 やむを得ず、三人全員で木の洞から這い出る。そこでレイチェル達に向かって拳銃を構えていたのは、彼女の予想通り……


「駄目だなぁ、ブロンディ。これは明確なルール違反だぜ?」


 死亡したジョン……エフードに代わる新たな案内人役、そしてエイプリル誘拐の実行犯でもある、ビリーと名乗る若い男であった。言葉遣いが荒くなっていた。これがこの男の素であるようだ。

 他に仲間の姿は無く彼一人だ。だがこの足場の悪い地形で銃を持っている時点で、向こうの絶対的な優位は揺るがない。

「な、何でここが……」

「既に島中に捜索の手が伸びてるんだよ。俺は運が良かった。これでお前を取り逃がした失態で、ルーカノス様に粛清されずに済んだ」

「……っ」
 思ったよりも対応が早い。国家警察はまだ来ないのだろうか。焦るレイチェルの横で、ブラッドが殊更冷静な口調で、ビリーの後ろに視線を向ける。

「……そのルーカノス様がすぐ後ろに来てるぞ」
「んん!?」

 ビリーが思わずギョッとして背後に振り向く。その瞬間ブラッドが地面を蹴った。ビリーが視線を外した一瞬の隙を突いて奇襲の蹴りを叩き込……

「……ッ!?」

 ……もうとして、その表情が歪む。無理に素早く動いたせいで左腕が激痛を発したのだ。ブラッドの動きが停滞する。

「ちぃっ!」

 背後には誰もおらずブラッドに謀られた事を悟ったビリーが、舌打ちしながら素早く向き直って銃を発砲。消音器付きの銃口が渇いた音を発し、ブラッドが脇腹を撃ち抜かれてその場に崩れ落ちる!

「ブラッドぉぉっ!!!」「おじさん!?」

「動くなっ!!」

「……ッ!」
 銃口を向けられ、ブラッドに駆け寄ろうとしたレイチェルとエイプリルは再び硬直する。

「へへ、それでいい。その男はルーカノス様が直接処刑すると仰ってるんでな。だが同時に、あくまで抵抗するようならその場で撃ち殺しても構わんという許可も貰ってるんだぜ?」

「……!」
 それを聞いて増々動けなくなる。ブラッドを射殺するかどうかは、この男の気分次第という事だ。下手に刺激できない。ビリーがレイチェルを見てニヤつく。

「んで、お前は勿論ルーカノス様との試合が待ってるぜ? だからお前は絶対に無傷で連れて来いって厳命されてる。だからその男は人質だ。逃げたりしたら容赦なくぶっ殺すぜ? 勿論そのガキもだ」

「…………」

 どの道、ブラッド達を置いて自分だけ逃げる気はない。自分達を連行しようて、奴が油断して近付いてきた所を何とか奇襲できないか考えていると……


「そら! お前はこいつを着けなっ!」


 ビリーが何かを投げ渡してきた。反射的に受け取ると、細い鎖の鳴る音。警察で使われている金属製の手錠であった。

「エフードに勝った女だ。それくらいの『安全措置』は必要だろ? ああ、勿論後ろ手に着けるんだぞ?」

「くっ……!」
 レイチェルは悔し気に歯噛みした。だがブラッドとエイプリルの命を盾に取られている以上、逆らう事は出来ない。彼女は指貫きのグローブを嵌めたままの両手を後ろに回し、自らの両手首に手錠を掛けた。手錠の締まる金属音が無情に鳴り響く。

「背中を向けろ」

 レイチェルは言われた通りに身体の向きを変えて、きちんと後ろ手に手錠が掛かっている事をビリーに見せる。


「へへへ、手こずらせやがって。これでお前らもお終いだな」

 それでようやく安心したビリーが、近付いてきてレイチェルの髪を鷲掴みにして思い切り引っ張った!

「あうっ!」
「このクソアマがっ! 俺に恥を掻かせやがって!」

 仰け反って苦痛に呻くレイチェル。理不尽な怒りの収まらないビリーは、更に無防備な彼女の腹に膝蹴りを叩き込んだ!

「がふっ!」

 後ろ手錠の彼女は防御動作を取る事も出来ずに、身体を前屈みに折り曲げ、その場に両膝を落として呻く。

「へへ、おら、立てよ。重傷さえ負わせなきゃいいんだ。もう少し痛めつけてやるぜ」

 鷲掴みにされたままの髪を引っ張り上げられ、強引に立ち上がらされるレイチェル。

「やめて! ママに何するの!?」

 エイプリルが必死に止めようとするが、

「うるせぇ! ガキは黙ってろ!」
「きゃあっ!」

 ビリーが腕を振り払うようにすると、小さな身体はあっさりと弾き飛ばされて地面の上を転がった。

「エイプリル……!」

 レイチェルが思わず駆け寄ろうとして、やはりビリーに思い切り後ろ髪を引かれて止められる

「おら! お前は俺と遊ぶんだよ!」
「ぐふぅ!」

 今度はビリーの拳が腹にめり込んだ。再び崩れ落ちそうになるが、無理やり支えられる。

「う……ぐ……」
「へへへ、まだまだこんな物じゃ済まさねぇぜ?」

 苦痛に歪むレイチェルの顔を眺めながらビリーが嗜虐的に笑う。その時……

「ママを虐めないでぇっ!」

 気丈に起き上がったエイプリルが再度ビリーの脚に取り縋る。必死にしがみついてその動きを阻害する。

「しつこいガキめ……!」

 苛立ったビリーは全力で六歳の少女を蹴り飛ばそうとする。だが彼は些かレイチェルを甚振る事と、エイプリルへの苛立ちに気を取られ過ぎた。


「ぬぅぅぅんっ!!」

 脇腹を撃たれ蹲っているように見えたブラッドが、その瞬間だけ全身の傷が沈黙したかのように一気に跳び上がった!

「……!」
 エイプリルへの対処に気を取られていたビリーは反応が遅れた。慌てて銃を向けようとした時には、その顔面に渾身のストレートが撃ち込まれていた。

「ごぼぁっ!?」

 裏返ったような悲鳴を上げてビリーが仰け反る。レイチェルは咄嗟の判断で、後ろ手錠の不自由な姿勢のままであったが、全力の前蹴りを突き出した。

「……!!」

 それは狙い過たずビリーの鳩尾に突き刺さり、完全に失神させた。白目を剥いて倒れたビリーが起き上がってくる気配は無かった。


「ブラッド……!」「おじさん!」

 それには目もくれずにレイチェルとエイプリルは、ブラッドに駆け寄った。彼は最後の一撃を繰り出した際に力を使い果たしたらしく、今度こそ完全に倒れ伏してしまった。脇腹の銃創から夥しい血が流れ出る。

「ぐ……2人共……無事か?」

「ええ! ええっ! あなたのお陰で助かったわ!」

 涙を流しながら全力で頷くレイチェル。後ろ手の手錠の為に、彼を抱き起してやる事も出来ないのがもどかしかった。

「そうか……良かった……。俺は……少し、休む……」

 ブラッドは青白い顔で苦しげな息を吐くと、そのまま目を閉じて動かなくなった。

「ブラッド!? ブラッド、起きて! ブラッドォォォッ!!」
「おじさん! おじさぁぁぁぁんっ!」

 森の中に母娘の悲痛な叫びが木霊した。





 それから程なくして……

 インターポールから緊急連絡を受けたアメリカのFBIの部隊が島に到着。島にいた『パトリキの集い』の会員や構成員達の大規模一斉検挙が行われた。FBIによって検挙された構成員や上級会員から得た情報で組織の全容を把握したインターポールは、世界中の国家警察と連携して次々と組織の拠点を潰していった。

 『パトリキの集い』は組織を維持できなくなり、事実上の崩壊に向かっていく事になる。しかし島での一斉検挙の際にもいつの間にか姿を消していて逮捕できなかったルーカノスの行方だけは、結局その後も杳として知れないままであった……
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