第2話 モテない理由
文字数 1,954文字
五月になって、絵画コンクールの締め切りと体育祭が近づいていた。
「今年こそ絵画展で賞が獲れますように!」
そんな願いを込めてモチーフに選んだ幸運のヴィーナス像を描いている最中、背中から寺山に声をかけられた。
「トン、課題は順調か?」
僕の名前は「琢」と書いてタクと読む。だけど寺山と出会った当初、彼は名簿に書かれた「琢」という漢字を「豚」と勘違いしてトンと読んだ。それを思いきりバカにしたものだから、彼は意地になって今でもこの読み方を貫き通していた。
「トン先輩、これ何が悪いの?」
さらに今年からは僕をトンと呼ぶ部員がもうひとり。手嶋さんはキャンバスにむかって、逞しい上半身のヘルメス像を描いていた。彼女は僕が教えた通りに、両手の人差し指と親指で四角い窓を作ると、そのフレーム内にオリュンポス十二神のひとりを収めた。
「これならデザインスケールがなくても、構図が確かめられますね」
手嶋さんは指で四角を作ったまま、再びヘルメス像を覗き込んで言った。
「おぉヘルメスよ。君はなんてセクシーなんだ。ちなみにトン先輩も脱ぐとすごいんですか?」
「手嶋さん、神聖なアトリエでセクハラはやめてください」
後輩とのいつものじゃれ合い。普段は奥手な僕も、こんな手嶋さんが相手なら軽口を叩くことができた。
「手嶋はコンクール間に合いそうだけど、林原と安西は今日も来てねぇな」
木炭デッサン用の食パンをかじりながら寺山がぼやいた。
続けて手嶋さんが「デートで忙しいんじゃないですか?」と冷めた調子で答えた。
「じゃあ、あの二人はやっぱり付き合っているの?」
前から気になっていたので、手ごろな話題が出たついでに聞いてみた。安西さんと林原のうわさは前からあったけど、本当のところは何も知らなかったからだ。
「何で私に聞くんですか?」
「だって安西さんと仲良しだろ?」
「そんなことないですけど」
二人でいる時は大の仲良しみたいに振る舞っているのに。女子の生態は本当に謎だらけだ。それとも手嶋さんと安西さんは、この件について秘密協定でも結んでいるのだろうか。
「少なくとも、トン先輩と寺山先輩ほどの仲じゃないと思います」
「えっ、俺たちって女子からそういう目で見られてるの?」
寺山がうろたえて、手嶋さんがクスクスと笑った。
去年は林原と直子先輩が一緒にいる姿を複数の部員が目撃していた。また女子の間では、直子先輩が別の男子とイチャついている姿を見たといううわさも流れていた。
それに対して妹さんの方は、物静かそうでお姉さんとはだいぶ違って見えた。だから姉妹揃って林原と付き合うなんて悲劇は、絶対に起こらないと信じたかった。
「何を考えているんですか?」
手嶋さんの声で我に返ると、窓の外に夕闇が迫っていた。
「いや、別に何も」
ずっとキャンバスにむかっていたのに、さっきのうわさ話のせいで絵が進まなかった。それでも締め切りが近いので、今日は残って描いていくしかなさそうだ。
寺山が帰った後、美術室には僕と手嶋さんしか残っていなかった。
「先輩はまだ帰らないんですか?」
気がつくと、傍らに手嶋さんが立っていた。
「コンクールが近いからもう少しだけ描いてくよ」
「先輩はひとりの方が集中できるタイプだって、部長が言ってました」
「ま、まぁね」
「なら私も帰った方が良いかな。じゃあ先輩、またね」
手嶋さんの背中を目で追いながら僕はすぐに「しまった」と思った。どうやら彼女に気を遣わせてしまったらしい。でも今さら気がついても遅すぎる。こんな風にデリカシーがないから僕はモテないのだ。
壁の時計はすでに六時を回っている。普段なら帰宅部は残っていない時間だが、校庭には部活以外の生徒たちがたくさんいた。みんな体育祭の準備で忙しいのだ。
「それにしても、まいったな……」
僕は今年、体育祭でクラス対抗リレーのアンカーに抜擢されていた。もちろん立候補して出場するわけじゃない。体育教師の担任が授業で測った短距離走のタイムを調べて、記録の良い順でメンバーを選出したのだ。
そんな担任の思惑を知らないまま、僕は授業中に全力疾走していた。足だけは自信があったので、山本に勝った時も能天気に喜んでいた。
ただ冷静に考えれば、陸上部のエースが一介の美術部員より遅いはずがなかった。きっと山本はどこかでリレーメンバーの選出方法を察知して、わざと遅く走ったのだ。
何故ならアンカーは責任重大で、負けると女子に恨まれるから。それでも山本は手を抜いたのが担任にばれるのを恐れて、上位から二番目のタイムでメンバーに残っていた。
「まぁアンカーじゃなきゃ、いいか」
「誰かに抜かれても俺らは責めないから」
「女子はどう思うか責任もてないけどさ」
何かあればアンカーの責任。これが男子メンバー間の見解だった。
「今年こそ絵画展で賞が獲れますように!」
そんな願いを込めてモチーフに選んだ幸運のヴィーナス像を描いている最中、背中から寺山に声をかけられた。
「トン、課題は順調か?」
僕の名前は「琢」と書いてタクと読む。だけど寺山と出会った当初、彼は名簿に書かれた「琢」という漢字を「豚」と勘違いしてトンと読んだ。それを思いきりバカにしたものだから、彼は意地になって今でもこの読み方を貫き通していた。
「トン先輩、これ何が悪いの?」
さらに今年からは僕をトンと呼ぶ部員がもうひとり。手嶋さんはキャンバスにむかって、逞しい上半身のヘルメス像を描いていた。彼女は僕が教えた通りに、両手の人差し指と親指で四角い窓を作ると、そのフレーム内にオリュンポス十二神のひとりを収めた。
「これならデザインスケールがなくても、構図が確かめられますね」
手嶋さんは指で四角を作ったまま、再びヘルメス像を覗き込んで言った。
「おぉヘルメスよ。君はなんてセクシーなんだ。ちなみにトン先輩も脱ぐとすごいんですか?」
「手嶋さん、神聖なアトリエでセクハラはやめてください」
後輩とのいつものじゃれ合い。普段は奥手な僕も、こんな手嶋さんが相手なら軽口を叩くことができた。
「手嶋はコンクール間に合いそうだけど、林原と安西は今日も来てねぇな」
木炭デッサン用の食パンをかじりながら寺山がぼやいた。
続けて手嶋さんが「デートで忙しいんじゃないですか?」と冷めた調子で答えた。
「じゃあ、あの二人はやっぱり付き合っているの?」
前から気になっていたので、手ごろな話題が出たついでに聞いてみた。安西さんと林原のうわさは前からあったけど、本当のところは何も知らなかったからだ。
「何で私に聞くんですか?」
「だって安西さんと仲良しだろ?」
「そんなことないですけど」
二人でいる時は大の仲良しみたいに振る舞っているのに。女子の生態は本当に謎だらけだ。それとも手嶋さんと安西さんは、この件について秘密協定でも結んでいるのだろうか。
「少なくとも、トン先輩と寺山先輩ほどの仲じゃないと思います」
「えっ、俺たちって女子からそういう目で見られてるの?」
寺山がうろたえて、手嶋さんがクスクスと笑った。
去年は林原と直子先輩が一緒にいる姿を複数の部員が目撃していた。また女子の間では、直子先輩が別の男子とイチャついている姿を見たといううわさも流れていた。
それに対して妹さんの方は、物静かそうでお姉さんとはだいぶ違って見えた。だから姉妹揃って林原と付き合うなんて悲劇は、絶対に起こらないと信じたかった。
「何を考えているんですか?」
手嶋さんの声で我に返ると、窓の外に夕闇が迫っていた。
「いや、別に何も」
ずっとキャンバスにむかっていたのに、さっきのうわさ話のせいで絵が進まなかった。それでも締め切りが近いので、今日は残って描いていくしかなさそうだ。
寺山が帰った後、美術室には僕と手嶋さんしか残っていなかった。
「先輩はまだ帰らないんですか?」
気がつくと、傍らに手嶋さんが立っていた。
「コンクールが近いからもう少しだけ描いてくよ」
「先輩はひとりの方が集中できるタイプだって、部長が言ってました」
「ま、まぁね」
「なら私も帰った方が良いかな。じゃあ先輩、またね」
手嶋さんの背中を目で追いながら僕はすぐに「しまった」と思った。どうやら彼女に気を遣わせてしまったらしい。でも今さら気がついても遅すぎる。こんな風にデリカシーがないから僕はモテないのだ。
壁の時計はすでに六時を回っている。普段なら帰宅部は残っていない時間だが、校庭には部活以外の生徒たちがたくさんいた。みんな体育祭の準備で忙しいのだ。
「それにしても、まいったな……」
僕は今年、体育祭でクラス対抗リレーのアンカーに抜擢されていた。もちろん立候補して出場するわけじゃない。体育教師の担任が授業で測った短距離走のタイムを調べて、記録の良い順でメンバーを選出したのだ。
そんな担任の思惑を知らないまま、僕は授業中に全力疾走していた。足だけは自信があったので、山本に勝った時も能天気に喜んでいた。
ただ冷静に考えれば、陸上部のエースが一介の美術部員より遅いはずがなかった。きっと山本はどこかでリレーメンバーの選出方法を察知して、わざと遅く走ったのだ。
何故ならアンカーは責任重大で、負けると女子に恨まれるから。それでも山本は手を抜いたのが担任にばれるのを恐れて、上位から二番目のタイムでメンバーに残っていた。
「まぁアンカーじゃなきゃ、いいか」
「誰かに抜かれても俺らは責めないから」
「女子はどう思うか責任もてないけどさ」
何かあればアンカーの責任。これが男子メンバー間の見解だった。