第七章

文字数 8,082文字

第七章

事件の全容が少しずつ明らかになってきた。その中には、浩二が知らなかった事実もたくさんあった。まず、彼女が躓きはじめたきっかけは、ほんの些細なこと。少なくとも、今の浩二からしてみれば、本当に大したことではないことである。彼女は、高校に入学して、一学期までは、学年トップの成績を誇っていて、皆から期待を受けていた。しかし、二学期になると、強力なライバルが出現して、一位から三位に転落してしまった。それを両親にひどく叱られて、それ以降、もう学校なんか行く気にならなくなってしまったという。そのあと、精神科に連れていかれて、変な名前の診断名をつけられて、世間体が悪いから部屋から出るな、と言いつけられて、半ば監禁されたような生活を送っていた。浩二もそこは知っていたが、彼女は体育会系の活発な少女という感じではなかった。だから、外へ出るなと言いつけられた時も、反抗することなく素直に従ってしまったのだろう。その生活が、二年以上続いたというのもすごいことであるが、何よりもあのご両親が、少なくとも自分の前では、何事もなかったかのように、「普通の人」を演じていられたのも、すごいなあというか、末恐ろしいなと思ってしまうのであった。

それにしても、あの家族が、そうなってしまった彼女を隠してしまったというのも驚きだが、周りの人たちが、期待を裏切ったお嬢さんのほうが悪いとか、働かないんだから当然のこと、親は期限付きなのを教えてやっただけなのに、なんでお父さんが捕まってしまったのだろう、かわいそうなのはそっちよ、なんて、親に対して同情の意見が飛び交っているのは、またさらに驚きだった。やっぱりこの地域は、親が用意してくれたレールにしっかり乗って生きている若者でなければ、美しい若者とはみなしてくれないようだ。

実は、自分も音楽学校へ進学した時には、まあ、なんて親不孝な息子さんなんでしょうね、と、近所の人たちから両親に同情する声が多数寄せられ、自分は白い目でにらまれたのを覚えている。女の子であれば、比較的祝福してもらえるが、男性というのはそうはいかないらしい。羨ましいなと思ったことも少なくない。そういうこともあり、音楽関係の企業には就職しなかったのだ。そうなって初めて、近所の人と、やっと和解することができたような気がした。だから、四年間で音楽はあきらめてよかったと思っていた。

でも、広上さんという、世界的に有名な指揮者から、ソリストを依頼されたというニュースが知れ渡ってしまうと、また近所の人の態度が変わった。すごいね、浩二君、是非頑張ってね、なんていう称賛の声があちらこちらで聞こえるようになった。本当に、大人という人たちは、全部の事を見ないで、ほんの一部だけ見て、ワーワー騒ぎ立てる生き物なんだなあと、あきれてしまった。若いときというのは、それに反抗するものだけど、いずれにしても、ある程度のガチバトルを経験して、大人に従わなければ、生きていけないということに気が付かされて、大人の色に染まっていくことを決断する。それができない人のために、芸術分野が用意されているが、大概の人は、それにたどり着くことができず、向かうところは刑務所か、精神病院くらいなものである。そうならないように、大人が反対してそれを阻止している。そして、町の平和が保たれる。この原理はもう、これだけ生きていればわかる。

少なくとも、今の時代の教育制度は、生きている人であれば、職業選択の自由は認められているし、好きな学問を好きなだけやってもいいことになっている。でも、それは、ある意味では諸刃の剣である。大学側も、その学問の良い面だけを打ち出して、その学問がもたらす悪事というものもしっかり伝えてやってもらいたいと、気が付かされるのは、ある程度年を取ってからである。それを教えていくことも、これからは必要だ。もし、学校で何か不満があれば、すぐに高尚な学問に「触る」ことはできるけど、それにはまりすぎて家庭崩壊を招いてしまうケースが後を絶たないことも教えていかなきゃならない。ちゃんと、親は期限付きで、いずれは一人になること、そのためには何が必要なのかをしっかり教えておくことが必要。そこを上手に決着をつけないと、人生に整合が付かなくなり、文字通り、家庭は崩壊、つまるところの「敗北」である。だから、何でもかんでも自由自由と教えてしまうのはよくない。

きっと彼女も、そういう弊害を受けたのだと思う。それに、躓いたらどうしたらいいのかということを、教えてもらっていなかったのだろう。これを教えてくれる人は、実を言えばほんの一握りしかない。よい成績を取った時にはものすごく褒められるが、下がれば地獄へ突き落すような叱り方をして、ゴミのように捨てる。それしかないから、より成績を取るしか生きがいを見つけられない。それしかない。そんな教育は、せめて学校だけにしてもらいたいが、現在では家庭でもそういう態度で接することが当たり前である。どちらかが、柔らかい態度を取ってくれれば、まだよいのだが、学校や家庭の期待の板挟みになって、生徒の負担は増大する。

結局、浩二も音楽学校へやってもらうことはできたが、結局自分がやりたいことをとことんやれたのは、その四年間だけだった。それまでは親の期待に応えることに神経をすり減らして、大学が終わった後は、世間体に従って大人たちが用意してくれた安全路線を歩いていくことが、最も無難な生き方である。

まあ、長々とそんなことを考えても仕方ない。とりあえず、人間は過去も未来もいじることはできないから、今あることを一生懸命やっていくしかないのである。だから、今日も今あることの一つとして、レッスンに行こう。そう考えながら、浩二は製鉄所に向かった。



「今日はぽかぽか陽気でいいですね。まあ、これから本格的に厳しい冬がやってきますから、その前の、憐憫と言えるかな。今日も、浩二君が、レッスンに来るそうですから、彼が到着したら、せき込まないで、しっかり教えてやってくださいね。」

ブッチャーはそういって、四畳半のふすまを開けた。

「あ、はい。もう少し待ってください。」

水穂は、何とかして布団に起き上がり、正座で座った。その顔は誰が見ても、かったるそうだということが見て取れた。

「もう少し待ってって、どうしたんです?また胸が痛いんですか?もう、しっかりしてくださいよ。ほらあ、大事なレッスンなんですから。浩二君が向かってますよ。彼にとって、貴重なレッスンでしょう。その前に体調を崩すなんて、お弟子さんにとっては、裏切られたような気分になりますよ。」

確かにそうかもしれない。教師がこれだけ何回も体調を崩していたら、弟子はがっかりしてしまうだろう。まして、講座ではなく、一対一のピアノレッスンなんだから、尚更の事である。

「痛みはありません。ただ、体がだるいだけです。単に疲れがたまっているというか、もう本当に体が分銅みたいに重たくて。」

「だからもう、分銅分銅って、言わないでくださいよ。それに、分銅はそういうたとえに使うもんじゃないですよ。それに、お弟子さんの来訪に備えて、体調を整えるくらい、教師の義務というか、職務を怠けているように見えるんですけどね。」

あーあ、と思いながら、ブッチャーはそういった。それでも、かったるさというものはとれなかった。

「はい、すみません。これから気を付けますから、今日は申し訳ないと。」

「それじゃあだめですよ。本当にお弟子さんががっかりしますよ。毎回毎回これから気を付けると言っておきながら、当日になってせき込んだり、かったるいと口にしたり、今日にいたっては分銅なんて言い出して、またレッスンを取りやめですか。これじゃあ、いつまでも、レッスンしてやれる日は来ないんじゃありませんか!」

ブッチャーは、また、ため息をついた。

同時に、玄関の戸がガラッと開いた。浩二が到着したのだ。恵子さんと挨拶を交わしている声が聞こえてきて、四畳半にやってくる足音も聞こえてきた。

「ほら、来たじゃないですか。お弟子さんのやる気をつぶすようなことは、なるべくならしないほうがいいですよ。」

ブッチャーに言われて、かったるい体を無理やり動かし、枕元にあった羽織を着た。同時にこんにちはという声がして、浩二も入ってきた。

「今日はなんとなくですけど、暖かくてよいですね。先生も今日はお体、楽なのではないですか?」

「あ、はい、とりあえずは。」

さすがに、弟子の前で、分銅みたいに体が重たいという言い回しは使いたくなかった。

「今日はもう少ししたら、広上先生もこちらに来るそうです。用事があって、遅れるけれど必ずいくからと今電話がありました。明日、第一回目のオケ合わせをするから、最終確認をさせてくれって。」

浩二はそういうが、水穂は思わずぽかんとした。ブッチャーがお邪魔虫は消えますと言って、部屋を出て行った。

「あれ、先生聞いてないんですか?広上先生から、、、。」

「あ、いや、その。」

たぶんきっと、麟太郎は連絡して事前に言ってくれてあると思うが、睡眠薬のせいか、全く記憶していなかった。

「まあ、いいですよ。明日いよいよオケ合わせなので、緊張しています。たぶん広上先生が、言うのを忘れているんだと思います。広上先生は、昔からよく忘れ物をするそうですね。先日も、オーケストラの方から聞いたのですが、練習が終わった後、楽譜を練習室に忘れたまま帰って行かれて、団員の方が、急いで同じ電車に乗り合わせて届けたそうです。」

と、いうからには、やっぱり広上さんは、忘れ物の多い人なんだなあと改めて分かった。

「確かに、大学時代から本当に忘れっぽい方でした。それははっきりしています。で、今日は、どこからやったらいいのですか?」

水穂がそう聞くと、

「はい、明日オーケストラと初めて合わせるまえに、できればもう一度初めからおしまいまで演奏を聞いていただけないでしょうか。」

と、浩二は言った。それは水穂には少しきついお願いではあったが、本人のやる気をつぶしてはいけないと、ブッチャーに言われたばかりなのを思い出して、

「わかりました、聞きますよ。」

と、お願いに応えてやることにした。

「ありがとうございます。じゃあ、もし変だと思われるところがあったら、すぐに指摘してください。」

「わかりました。」

浩二は軽く一礼して、すぐピアノの前に座り、蓋を開けて楽譜を置き、ピアノパートを弾き始めた。

まず第一に、驚いたのは、指定テンポにぐっと近づいたことだ。それに、演奏が崩れることなく安定している。つまり演奏技術が向上したということである。これにより、のてっとした演奏がなくなって、だいぶ聞きやすい音楽になったなと思われた。でも、よく研究しているとはわかるが、やはり第十八変奏はまだまだ硬かった。なので、それ以降の変奏が、うまくいっていないような印象を与えてしまうのは否めない。

とりあえず、全曲聞くことはできた。指定テンポに近づいて、より演奏時間が短くなったというのも、一因である。

「どうでしょうか。」

浩二は、恐る恐る聞いた。ここでよく、音楽家の伝記映画などでは、ダメ、もう一度!とか、師匠がでかい声で言って、厳しく叱る場面が多くみられるが、水穂はそういうものは好きではなかった。

「よくできていると思いますよ。格段にテンポも速くなりましたし。あ、もちろん速く弾くだけがすべてではないですから、それは忘れてはなりませんよ。」

とりあえず、良い点を述べた。

「でも、やっぱり、第十八変奏がまだ硬いなと思わざるを得ません。そことの対比をもう少しきちんとしないと、曲が面白くなくなりますので。」

と、続けると、浩二は落胆の表情を見せた。

「それでは先生。どんな練習をしたらいいでしょうか?打鍵が強すぎるのでしょうか?それとも、手首に力が入りすぎているのでしょうか?」

「いや、そういうことではないんです。そういうメカニズム的なことは、しっかり身についていることは見て取れます。そういうことではなくて。」

「じゃ、じゃあなんでしょう。何がたりないんでしょうか!」

思わず口ごもる水穂に、浩二はすぐ突っ込んできた。

「そうですね、なかなか言えないのですが、もう少しパフォーマーとしての自覚をもってもらえないかと思うんです。せっかく、この曲をやらせてもらうのですから、弾いているときだけは、ただの会社員ではなく、パフォーマーなんだと思ってもらわないと。もちろん、立場を否定するわけではないですけど、中途半端な気持ちでは音楽にはなりませんので。」

こういわれて浩二は、とうとう自分が一番できない課題を突き付けられたと思った。

でも、そこを克服できないと、お客さんを喜ばす音楽を作ることはできないことも、ある程度感じていた。

「先生も、やっぱり僕のことをそうみてしまいますか。やっぱり音楽は、一般社会から完全に切り離さないと、いや、切り離すことができる環境における人でないとできませんね。」

浩二がそういうと、

「はい、できません。そうならないと、成就できない学問です。」

水穂は小さいがきっぱりとした声でこたえた。

「だから僕も、二度と音楽の世界にはいられないと思ったので、早々撤退させてもらいました。どっちにしろ、財力もないですし、いくら努力しても社会と隔絶するなんて、そんなことができる身分ではありませんから。音楽って、一度社会から離れて、それだけの世界に行かないと、身に着けられないんですよ。そのためには莫大な財力と、それが許される身分であることと、有能な人たちに名前を知られるほどの知名度を持っていないと。」

「先生、先生はどうして脱退しなければならなかったんですか?もし、広上先生が言った通りなら、そのまま自分の道を進めば、そんな必要はなかったのではないでしょうか?」

浩二は思わずそういうことを言ってしまった。

「仕方ないじゃないですか。音楽というのは、一度すべてのものを捨てて、自分だけの世界に入れるほどの財力がある人だけのものなんですよ。つまり、親も兄弟も何もかも捨てて、ひたすら自分の技術だけと対峙する必要があるんです。よく、音楽家が家族を持つと、本人も子供も失敗してしまう例が多いですけど、それはそういう技術を持つことを知らないからですよ。逆に、大人になってから音楽を始めても、いくら努力しても上達しないのは、家族から社会と自信を切り離せないから。この辺りの見極めがうまくできないと、精神障害とか、時には犯罪にもつながっていく。早いうちから、そういうことを知らされたので、そうなりたくないという思いもあり、もう脱退しようと思ったんです。それだけのことですよ。そんな世界にいても苦しいだけの事ですから。」

「だけど、そんなに簡単に諦められるのでしょうか?」

「できますよ。もしかしたら、そこだけはよかったのかもしれないですね。僕たちは一応、四民平等政策からは、外された身分ということになるから、あきらめは早いです。」

そう簡単に自身を皮肉るというのは、やっぱりヨーロッパのロマ族と同じような環境にいたんだと改めて確信した。

「先生。先生は、ど、ど、どこの、、、。」

浩二は、「究極の質問」をしようと思った。しかしそれと同時に、

「おーい、遅れてごめんね。駅でそば食べてたら、駅員に切符を改札口から持っていくのを忘れていると呼び止められてさ。よく見たら、片道ではなく往復切符を買っていたのを忘れていた。まったく、忘れ物が多くて困るなあ。たぶん、この癖は、一生治らないぞ。」

と、間延びした声で麟太郎が入ってきた。

「あ、どうも、広上さん。」

水穂はとりあえず、形式的に挨拶した。

「おう、こいつから聞いていると思うけど、明日いよいよオケ合わせだ。一応、オケのやつらも、何とか形になったから、もう合奏しても大丈夫だろう。まあ、市民バンドだからさ、ベルリンフィルみたいに、ホイホイと反応してくれるわけじゃないけど、ぐちゃぐちゃになっていたのを、一から積み上げていくみたいでとても楽しい作業だった。で、どうだ。お前から見て、こいつの演奏は上達しているかな?」

「ええ、まあ、まだ第十八変奏が、少し硬いなあとは思いましたが、それ以外には問題はないのではないかと思います。彼なりに、一生懸命演奏しているようですし。」

「そうか。よし、俺にも聞かせてもらおうかな。もし、体が辛いようだったら、お前は横になってくれてもいいから。」

麟太郎は、彼らしくない態度をとった。

「そうさせてもらいます。」

疲れ切っていた水穂は、布団に横にならせてもらった。

「だけど、それはしてもいいが、こいつの演奏、ちゃんと聞いてやってくれよ。弟子の演奏は、無視しちゃだめだからな。こいつがお前に師事したことは、パンフレットにしっかり記載させてもらうし、お前が弟子を取ったってことも、ほかの指揮者さんに言っておくから。」

そんなことを言われると、まさしく飴と鞭という表現がぴったりであった。先ほどまでよかったが、水穂は顔から血の気が引くのを感じた。

「おい、またそんな嫌そうな顔をするなよ。これを機に、若い奴らがお前のところにやってくるよ。そうすれば、お前だって少し楽な生活ができるんじゃないのか?」

「楽になるどころか、辛いだけですからやめてください。僕だけではなく、習いに来る人も、また傷つきます。」

「だから、なんでそうなるんだよ。お前くらいの天才が、煙みたいに姿を消して、音楽界がどれだけ大損したのかと思ってる?そんなに嫌なのか?そりゃあ、確かに大学の時にあった八百長を断って、無理矢理とんかつを食わされたのは、拷問なのかもしれないけどさ。」

つまり、麟太郎も、その事件があったのは知っているのだということが見て取れた。

「はい、どんな刑罰も、とんかつより怖いものはありません。」

「じゃあ、車折の刑よりもとんかつは怖かったの?」

車折の刑というのは、人類史上最悪の刑罰として実行されていたと言われる。古代中国でよくあったとされているが、対象者は王や皇帝を暗殺しようとして、未遂に終わったものがほとんどで、刑死した囚人も十人程度しかないそうだ。

「そうかもしれませんね。それにかかったほうが楽に死ねたと思います。」

そう皮肉るように水穂は答えたが、浩二が自分を悲しそうに見ているので、言うべきではなかったなと思った。

「先生はやっぱり、特殊な身分の出身なんですね。それが表に出るのが怖いから、脱退したんでしょう。僕は、具体的になんていうのかはしりませんが、山間部にはいまでもそういう人が集まって住んでいる場所があると聞きました。もし、教えてくれないのなら、僕、確かめてきますから、」

「伝法の坂本。」

浩二が言い終わるのを待たずに、水穂は答えを出した。

「坂本?ああ。ゴルフ場があるところだよな?」

「広上先生は、富士市の出身でないからわからないだけですよ。そこはゴルフ場になる前は、富士でも有数のスラム街ですよ。不衛生で、立ち入り禁止の立て看板があったそうじゃないですか。」

「でも、すごいことじゃないか。例えば三国志なんか読めば、すごい貧農から皇帝になった人物はたくさん出てくるし、日本でも北条早雲みたいな、名もなき一般人から大名になった、いわゆる下克上大名という人もいただろう?」

浩二と麟太郎がそういうことをはなしているとき、水穂は疲れ果てて、最後まで聞くことはできなかったのだった。
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