終章

文字数 7,734文字

終章

本番当日。

「よし、頑張れよ。緊張するとは思うけど、みんな今までの練習を思い出して、一生懸命やってくれ。本番って、あっという間に終わってしまうものだけど、今日は、今までの自分というものを全部捨てて、オーケストラの一員になり切ってください!」

舞台袖で麟太郎は、メンバーさんたちをそう激励した。もちろん、高齢のメンバーさんたちは、そういうことは大体わかってくれていたようで、彼らは特に緊張はしておらず、ニコニコしていた。浩二だけがその言葉を真に受けていたようだ。

「じゃあ、行きますか!」

「はい!」

メンバーさんたちは、持ち前の場所についた。基本的に、オーケストラの人たちが先に舞台に行って、指揮者は、ソリストと一緒に、あとから入るのが通例になっている。オーケストラのリーダーと言われるコンサートマスターと言われる人が、オーボエ奏者に合図をして、ラの音を出させ、ほかのメンバーさんたちもそれぞれの音を出して、いわゆる「調弦」をした。

調弦終了後、麟太郎と一緒に、浩二は舞台に出た。たくさんのお客さんが拍手とともに自分を暖かく迎えてくれた。もちろん、大規模なホールなので、全部のお客さんの顔が見えるわけではないけれど、ある程度誰が来ているかは把握することができた。その中に、水穂の姿はなかった。本来、来てくれるはずだったが、どうしても回復が間に合わなかったと聞いている。

そんなことを思いながら、浩二は麟太郎と一緒に、お客さんに向かって礼をした。オーケストラの人たちも、応援してくれているのがよくわかった。麟太郎が、大丈夫だからな、と一言だけ言って、肩をポンとたたいた。

すぐに浩二はピアノの前に座った。麟太郎も指揮台の上に立った。浩二が演奏準備として鍵盤をハンカチで拭き終わると、麟太郎は指揮棒を振りあげる。演奏が開始された。

初めのころは、とにかく恐々で、間違えたらどうしようかとそればっかり考えていたが、変奏が進むにつれて、それも慣れてきた。中盤に差し掛かったら、比較的落ち着いて演奏することができた。そういうところが、大曲の良さなのかもしれなかった。

さらに変奏は進んで、一番厄介とされている第十八変奏に差し掛かる。それまでの、疲れたようなかったるそうな変奏をしばらく繰り返した後、急にお花畑に差し掛かるのだ。ここの落差を表現するのが腕の見せ所だ。もう生きているのに疲れ果てて、倒れそうになった時、急にのどかな道が開いて、お花畑が見えてくる。まるで、それまでの苦悩に対して、神様がご褒美を与えてくれたように。

浩二は、第十八変奏を弾き始めて、ふっと水穂さんの姿を思い出した。あの人は、いくら苦悩しても、お花畑には、たどり着けないのではないだろうか。あの人のような身分の人は、

きっと疲れ果てて倒れても、手を出してくれる人もなく、そのまま道端で放置されてしまうのではないだろうか。

だから、この第十八変奏は、水穂さんのような人が、お花畑にたどり着けるような、そんな世の中になってほしいと祈りを込めて演奏しよう。自身の演奏技術は、そこまで到達なんてとてもできるものではないけど、、、。そう思いながら、第十八変奏を弾くと、オーケストラの人たちが、それにこたえてくれるように、演奏を開始した。なぜか、ここだけ単独演奏されることも多いというが、それもなんとなくわかってきた気がした。

お花畑は一瞬だけで、現実にもどって第十九変奏が開始される。でも、ここからは同じ現実であっても、気分を変えて、立ち向かって歩いていく様子を描かなければならない。その落差が非常に難しいのだが、もうここからは、どんなに難しいことであっても、後ろを振り向かず、休まないで歩けというような、メッセージが込められている気がした。でも、浩二は勝手に、個人で動くのではなく、水穂さんのような人達も一緒になって歩き出してくれるような、そんな願いを持ち出して演奏していた。だから、一般的なパガニーニの主題による狂詩曲とはちょっと違った雰囲気になってしまったかもしれない。

お客さんたちがどう反応してくれるかは不明だが、とにかく浩二は終始その願いを込めて、演奏を続けた。終盤では、夢中になってしまって、オーケストラの人たちの演奏も、耳に入っているだけのようにしかみえなかった。

とにかく、猪突猛進に突っ走って、最後は、あっけなく、演奏が終わった。終わったときは、一瞬何も聞こえなかったけど、麟太郎に肩をたたかれて、周りから嵐のような拍手が聞こえてきたのにやっと気が付く。お客さんたちがブラボーブラボーと言っているのが聞こえてきて、まるで卒倒しそうになってしまった。麟太郎と一緒にお客さんに向けて礼をしたときは、もう、気が動転していて、まるで酔っ払いのように見えてしまったかもしれない。でも、

一番演奏を聴いてほしい人からの拍手は、もらえなかったことに気が付くと、がっかりとして、落ち込んでしまった。

「よくやったな。」

拍手のトンネルを潜り抜けて、舞台のそでに戻ると、麟太郎が浩二の肩をポンとたたいた。

「いい出来だったぞ。しっかり弾けていたぞ。本番直後にこんなこというのは失礼だが、これからも頑張って弾いてもらいたい!」

一瞬頭が真っ白になってしまうが、麟太郎は気にしていないようだった。

「まあ、今は疲れているだろうから、終わってからゆっくり考えてくれや。」

と言って、浩二を楽屋に連れていき、自身は第二部についての挨拶をするために、舞台へ戻っていった。

そのまま、数分の休憩を経て、第二部のベートーベンの交響曲第七番が開始された。ここでは、オーケストラのみが活動するため、ピアニストである自分は登場する必要はなかった。楽屋でオーケストラの人たちの演奏を聴いていると、本当に一生懸命練習したんだな、ということが見て取れた。確かに、プロに比べれば、スピード感などは劣るかもしれないけど、

しっかり曲になっている。

ベートーベンの交響曲は長いことで有名だったが、すぐに終わってしまったような気がした。また嵐のような拍手でお客さんたちは迎えてくれた。そして、この音楽祭りを主催した富士市のお偉いさんたちのご挨拶が交わされた。そして、アンコールとして富士市民歌をお客さんを含めて全員で合唱する。その時は、浩二も今一度舞台へ出されて、富士市民歌を合唱した。正直に言うと、富士市民歌の歌詞なんて当の昔に忘れていて、覚えているところだけしか歌唱できなかった。お客さんたちは楽しそうに歌ってくれたが、その中に水穂さんの姿はなかった。ないのだった。

駆けつけてきてくれた富士市の市長さんの挨拶も終わって、音楽祭りは無事に閉幕した。お客さんたちは、大満足して帰ってくれたようだ。麟太郎もその反応で、今回の演奏はうまくいったようだ、と思い直した。

お客さんを全員帰させると、麟太郎たちは、近くの宴会場で打ち上げパーティーを開始した。

メンバーさんたちは、今日はよくできたなあと言いながら、酒を飲み交わして、今日の演奏の反省点を口々に言いあっていた。浩二は、まだ若いということもあり、黙ってメンバーさんたちの話を聞くしかできなかったが、

「お前さ。」

バイオリンを弾いていた一人のメンバーさんが浩二の肩をたたいた。

「これから、演奏活動していくの?」

え?と思った。そんなこと、予想していなかった。

「いやあ、まだわかりません。」

とりあえずその答えを出すと、

「はあ。いっそのことさあ、デビューしちゃったらどう?俺、リサイタルやったら、見に行くよ!演奏うまかったもん。」

と、別のメンバーさんがそういう。

「いや、と、とりあえず音楽学校は出ましたが、それだけのことで、演奏家としてやっていくには、全然必要なものは足りてません。だから、また会社員生活ですよ。」

浩二は、当たり前のことを言ったつもりだったが、

「そうだけど、いいんじゃないの?あたしの周りには、普通に会社に勤めながら、ピアノ教室やっている友達もたくさんいるわよ。」

「あたしの親戚のおばさんなんかは、普段は学童保育に勤めているんだけど、その傍らで、声楽を教えて暮らしていたそうよ。だから、何も恥ずかしいことじゃないわよ。」

親切なおばさんたちが、そういってくれたが、浩二はなぜかそういうことはする気になれなかった。

「きっと、広上先生も、才能があるってわかってくれると思うから、この際だから、先生を頼ってさ。ねえ、皆さんもそう思うでしょう。だって、あれだけ難しい曲を、あれほど印象的に弾きこなしたんだよ。」

ちょっと貫禄のある、コンサートマスターが、みんなの意見をまとめるように、そういってくれて、浩二の肩をたたいたが、それでも音楽家としてやっていくには、虫が良すぎるような気がしてしまうのだった。だって、ラフマニノフよりも、はるかに難しい曲を平気で弾きこなすことができた人物が、拷問にあって、その後遺症でいまだに苦しみ続けている。

それを聞いている、麟太郎も切なかった。

「まあ、いいじゃないの。彼の人生は、彼の決めることだ。俺たちが手出しをするもんではないよ。年寄りが、若い奴の人生を決めてしまったら、それこそ若い奴の成長を妨げてしまう。でも、俺たちは、お前のことは絶対に忘れないぞ。何かあったら、すぐによびだすからな。お前も音楽を忘れないで、頑張ってやってくれ。」

麟太郎は、浩二の肩をたたいてそう結論を出した。きっと、そうやって生きていくのが一番なのだろうなと思った。あの、近隣で起きた傷害事件のような事件が起きる可能性もあるし、音楽を求めすぎて、水穂さんのようになっても、人に迷惑をかけてしまうだけだから。それでは、いけない。人間だもん、他人に迷惑をかけてはいけない。それだけは絶対に厳守して、生きていかなければ。とくに、若者というものはそういうものである。

でも、こういう場所を作ってくれた広上先生には感謝しようと思った。たった一回でも、こうして本番に出させてもらうことができたんだから、それは忘れられない思い出だと思う。

「また、お前を呼び出すからな。よろしくな。」

本当は、自分ではなくて、水穂さんのほうが、こういう言葉をかけてもらうべきなのではないか、と思った。

でも、そういうことを発言しても、メンバーさんには理解してもらうことはできないだろうな、とも確信した。

だから、発言はしなかった。

宴会は続いていたが、浩二はなぜか切ないままであった。



そのころ。

なんとかして布団に座るまで体力を回復した水穂だが、

「ほら、もう一個。」

と、ブッチャーに半ば強制的にたくあんを突きつけられて、もういいと首を振った。

「もういい加減にしてくださいよ。たくあん一個でもういいなんて、食べないにもほどがある。一生懸命食べさせている俺の気持ちだって、考えてください!もう、毎日毎日こうして当たり前のことを叱るなんて、俺はどうしたらいいんですか!」

もうやけくそである。

「まあまあ、怒らないで。今、広上先生が電話よこしたわよ。音楽祭り、うまくいったって。パガニーニの主題による狂詩曲は、お客さんからの反応も好評だったって。また後で、アンケートもって、こっちに来たいと言ってたわ。」

そこへちょうど恵子さんが入ってきたが、ブッチャーがやけくそになって、でかい声でそういったのとほぼ同時だった。

「またやっているの。ブッチャー。もうこれで何回怒鳴ったら気が済むのかしら。」

そういってため息をついた。

「また、たくあん一つで満足か。もう、あたしたちは手の出しようがないわ。」

そういう恵子さんもあきれてものが言えないようであった。

「そんなに、食べ物を拒否し続けて、いったい何を考えているんですかねえ。こんなんじゃ、いつまでたっても、回復どころか、悪化していくばっかりなんじゃないですがねえ。」

「あたしだって、そのくらいわかってるわ。目が付いているんだから見えるわよ。そのくらい。」

二人がそう愚痴を言い合っていると、またせき込みだしてしまうのだった。

「ダメなものは、だめなのかな、、、。」

恵子さんは、切なくてどうしようもなかったが、ブッチャーはすぐに近寄って、水穂の背をさすってやるほどの余裕はまだあった。いくらやけくそになっていても、それだけはできたのである。



富士でも有名な文房具屋に、蘭が入ってきた。ちょうどあと30分で閉店という、非常に遅い時間であったが、親切な店長は、閉店までに出てくれるならそれでいいよ、と言って入らせてくれた。

蘭は、真っ先にレターセットが売っているところへむかった。国際郵便なので、なんでも気軽にかわいらしいレターセットを使ってもいいかというわけにはいかない。散々さがして、やっと規格に合った封筒を探し当てたが、別の手が先にとってしまった。

「あ、またとられてしまったか。仕方ない、また出直すか。」

蘭は、仕方なく車いすを方向転換させて、何も収穫せずに帰っていくことにしたが、

「あれ、蘭さん。またお会いしましたね。よほどご縁があるんですね。」

と、聞かれてびくっとし、振り向いた。

「なんだ、またお前か。お前こそどうしたんだよ。」

憎まれ口をたたくほど、自分にはまだ余裕があったと思った。それをジョチがあきれた顔で見ていた。

「まったく、苦悩しているのに、無理して強気になっても、ごまかせませんね、蘭さんは。」

「うるさい!お前にからかわれるほど、余裕はないんだよ。こっちは!」

「この封筒、買うつもりだったんですか。だったら、急いでいるみたいですし、お先に差し上げますよ。」

今であれば、こういう親切も、ありがたいと思ってしまうほど、今の蘭は落ち込んでいた。

「いい、お前にもらってもしょうがない。」

「そうですか。なら、お相手に、返事が遅くなって催促されてもいいということですかね。」

そういわれて、蘭は渋々封筒を受け取った。でも、この人にありがとうという気にはなれなかった。

「すまん。また礼をするから、今日はちょっと勘弁させてもらえないかな。」

「蘭さん、ムキにならなくていいですよ。この後、何もようがないなら、ラーメンでも食べに行きますか。」

表面的にはうるさいが、実をいうと、こうして言ってくれる人がいるのは、ありがたいものなのだった。それを、感じ取ってしまうと、うるさいと演技することは難しくなった。

「ムキになったら、かえって体に毒ではありませんかね。もう、助けてほしいと言っているの、バレバレですよ。」

「すまん!今日は降参だ。お前に従うよ。」

仕方なく、今日は波布に従うことにした。

二人は、小園さんに運転してもらって、ラーメンいしゅめいるの暖簾をくぐった。

「変な名前のラーメン屋だが、確かに味はいいよ。日本のラーメンによくある中途半端な味ではなく、しっかりとこしのある麺を使ってくれているからいい。」

出された醤油ラーメンをやけ食いしながら、蘭はとりあえず感想を漏らすと、

「あ、ありがとうございます。この店も、曾我さんが買収してくれなかったら、危うくつぶれるところでした。」

と、日本語の下手な外国人店主が、そう解説した。

「なるほど。でも、その割に客が少ないな。」

蘭が言う通り、客はあまりいなかった。曾我が、得をする店でない限り買収はしないと言っていたので、なんだか異例だと思った。

「マニアックなラーメンですからね。あんまり人が来ないんですよ。だから、もうちょっと宣伝方法を工夫しないといけませんね。まあ、そのおかげでこの店を秘密基地みたいに利用させてもらっていますけど。でも、客が来ないのは困るでしょうから、そのうち、効果的な宣伝の仕方とかお教えしますからね。」

「はい、楽しみに待ってます!」

と、いうことは、波布も少し懲りたのかなと思い直す。

「で、どうしたんですか。あんなに逼迫した顔して。相当悩んでいたと思われていた顔でしたよ。」

蘭は、この際だから、もう全部話してしまえ!と度胸を据えて、悩んでいることをすべて話してしまった。ジョチも相槌を打ってくれているが、ラーメンを食べながら聞いているのが、ちょっと気に障ったところでもあった。

「もう、お前な。ラーメン食べながら話を聞くのはやめてくれないだろうか!」

「しかたないじゃないですか。ラーメンですから、伸びたらどうするんです?」

そういわれたら、黙ってしまうしかなかった。確かに蘭のラーメンはビロビロになっている。

「でも、お話の内容は、すべて聞きましたよ。結論から言ってしまえば、この際ですから、マークさんという方の提案に従ってみてはどうですか?」

「何を言っているんだ!こんなに忙しいときにフランスにのんびり旅行なんていけるわけないじゃないか!」

ジョチの話に、蘭は思わずそう言いかえしたが、

「そうじゃなくて、水穂さんに行ってもらうんですよ。フランスに行けば、穢多も何も、みんな知らないんですから、差別的に扱うこともしないでしょう。そのほうが、ゆっくりできるんじゃありませんか。もし、金銭的に負担があるのなら、僕も少し出してもいいですよ。」

と、返ってきたのでまたびっくりした。

「あ、そうだねえ。確かにそれはいえているよ。僕も、中国に住んでいたら、いつまでたっても独立なんかできなかったと思うよ。日本に来て、うちの地区で暴動が起きたことをみんな知らないから、やっていけるというのも確かだよ。」

それに、ラーメン屋の店主まで口をはさむ。

「そうですよね。あなた方は中国にいつまでもいたら、お役人さんたちは、ずっと悪人としかみてくれないでしょうしね。そういうのなら、初めから民族問題の知られていない国家に逃げてしまうというのも、悪いことではないと思いますよ。」

「そうだよ。しばらく海外でゆっくりしてさ、また元気になったらうちのラーメン、食べに来てもらうようにって、水穂さんに言ってよ!」

なんだか、ジョチが持っているネットワークは、うちの会社より強力なのかもしれないと、蘭は考え始めるのだった。

「蘭さん、外国人が手紙にこちらに来いと書いてよこすなんて、必要でなければ書きませんよ。日本人とちがって、社交辞令なんて一切しませんからね。逆に、自分たちにとって、得をするようなことでなければ、実行しないということです。それを踏まえて考えると、用意周到にしたゆえに手紙をよこしたんでしょうし。それなら、従わないほうがかえって怪しまれる可能性もあります。」

そうなんだけどねえ、、、。そんなこと、果たして実現できるんだろうかと考えながら、蘭はまずくなったラーメンを口にした。
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