第六章

文字数 7,575文字

第六章

数日後。浩二がいつもどおり音楽スタジオから帰ってきて、丁度自宅近所を通りかかった時の事であった。

いつもなら、平穏なはずの自宅の周りが、なぜか騒がしい気がした。なんだろうと思っていると、ちょっとどいて!と怒鳴りながら、若い巡査が隣を走ってきた。

「すみません。どうしたんでしょうか。」

思わず聞いて見ると、

「傷害事件です。」

と、一言だけ言って、巡査はまた走っていってしまった。さらにもう少し行ってみると、自分の家からわずか100メートルも離れていない家の玄関先に多数のパトカーと、報道陣が詰め掛けているのがわかった。

近所の人たちが何事が起きたのか騒ぎ立てているのが聞こえてきた。確かあの家は、両親と娘さんの三人家族だったような気がする。自分も、かつて回覧板を届けたことがあったので、そこは記憶している。

「ちょっと君君、少し教えてほしいことがあるんだけど。」

一人の警官が浩二に声をかけた。

「は、はい。」

「あのね、あそこのお宅ね、あの娘さんの姿を君が見かけたのはいつだったかな?」

いつだったって、具体的に何年前なんて覚えていない。しかし、そう考えて思わずはっとする。何年かといえないほど、彼女の姿を見ていないという事になるからだ。

「わからないなら、最後に彼女を見たとき、彼女はどうしていたか教えてくれないかな?」

改めてそう聞かれ、浩二はとりあえず、

「はい、僕が知っている限り、彼女は高校に通っていたようです。制服を着てでかけていました。それは覚えています。」

と答えた。

「じゃあ、姿が見えなくなったのはいつごろからかな?」

といわれると、具体的に何年だったか思い出せないのだ。

それにしても、彼女の存在なんてかなり前に忘れていた。多分海外へ留学でもしたのか、くらいしか考えていなかった。

「でも、高校に通っていたのは目撃しましたが、卒業したところは目撃したことがありません。」

それが、彼女に対して最初で最後の疑問だったが、そんな疑問も当の昔に忘れていたのだった。

「それじゃあ、高校に行ったということは確かだね。でも、卒業はしていないのか。となると、中退してそのあとは閉じこもる生活をしていたのかな。となると、始まったのは、少なくとも二年以上前ということになるな。」

まあ確かに、計算すればそうなるが、あの家の人たちが、そんなに深刻な問題を抱えて生活していたとは全く思えなかった。挨拶すれば、普通に笑って挨拶をかえしてくれたし、回覧板を届ければ、ご家族にお土産ですよ、なんていって何かくれたことも少なくない。だから、いつも何かくれる親切なおじさんとおばさん夫婦という認識しかなかった。

一体何があったのか、浩二は確認できなかったが、目の前に一台の護送車がやってきた事で、ずべてがわかった。あの親切なおじさんとおばさんが、娘さんを殺害する目的で、彼女に暴力を振るったのである。

そんな馬鹿な、、、と思った。だって、あれだけのものをくれて、ニコニコしていた人たちなのに、そういう人たちが、実の娘さんを殺害まで追い込むだろうか?

「ご協力ありがとう。あの二人に関しては、これから取調べをするから、少しずつわかってくると思う。しかし、今は、本当に誰かに助けを求めることはタブー見たいになっていて、かえって困るよ。」

警官はそういって浩二の前を離れたが、浩二はしばらく呆然とそこに立ち尽くしてしまったのであった。



杉三の家では、でかい声で華岡が炭坑節を歌っているのが鳴り響いていた。

「あーあ、全く。いつまで入っているんだか。もう、40分以上風呂に入ってる。」

蘭は、困った顔で浴室のほうを見たが、そんなことはまるで無視するかのように華岡は、歌い続けるのだった。

「ま、我慢しよう。いつもの狭い風呂では、ゆっくり入ってられないっていうんだから。」

杉三は、カレーの皿をテーブルの上に置いた。

「まあそれはそうだが、あんなに長く風呂に入って、のぼせないのが不思議だよ。」

確かにそれは不思議だ。温泉に入っても、華岡が平気で何十分も浸かっているので、一緒にいた部下の刑事が、湯あたりを起こして嘔吐したこともある。蘭もその苦情はよくきかされてきた。

それにしても華岡の風呂は長かった。ようやく出てきたときは既にカレーは冷めてしまっていた。

「あー、いい湯だったあ!あとは杉ちゃんのうまいカレーが楽しみだなあ!」

そう言いながら浴室から戻ってきたときには、杉三も蘭も疲れていて、特に蘭にいたっては、居眠りをしていたほどであった。

「もう、すごい長風呂だったねえ。今までの中で史上最大かもよ。」

「ははあ、すまんすまん。だって、まともに風呂に入ったの一週間ぶりだよ。もう、立て続けに事件がおきて、署に泊り込みだったんだから。」

華岡が正直な言い訳をすると、

「はあ、不潔だあ、、、。」

やっと居眠りから覚めた蘭が、呆れた顔で言った。それを無視して華岡は、

「ま、今綺麗にしたから大丈夫だ。よし。カレーを食べよう。いただきまあす!」

と言って、冷めているにも関わらずカレーにかぶりついて、

「うまい!」

と絶賛するのであった。

「全く。お前みたいな単純素朴な刑事を上司に持って、部下の人たちも困るのが、目に見えるようだよ。」

蘭がそうからかっても、華岡はカレーを無我夢中で食べている。

「久しぶりのカレーなんだから、味わって食べさせてくれよ。もう、署にいれば、自動的に一日三食カップラーメンなんだぜ。」

まあ、華岡のように署にいて、何か役割があれば、それでも栄養不足にはならないのだろうと思われる。でも、それを失うと、人間は食べるどころか力を失う。それを強調して、変な教えを仕込む悪人もいる。

「そうか。華岡さんは一週間カップラーメンでも、生きていられるわけか。それに比べて水穂さんのような人は、どうなるのだろう。」

杉三ががっかりした声でそう呟く。

「え、水穂がどうしたって?」

蘭は思わず杉三につめよった。

「あんまり蘭にはいいたくないが、大変みたいだよ。毎日毎日咳き込んで、もう止めるのが一苦労だって。ご飯だって、ろくすっぽ食べられないみたいでさ、もう、天保の大飢饉の時でもなければありえないくらい痩せた。」

なんでまた自分には教えてくれないのかなと思いながら、蘭は杉三の説明を聞いた。

「そうか、専門的に言うと、いわゆるマラスムスまでいったか。」

と、華岡が口をはさむ。

「そういうカタカナ用語をやたら使うなよ。ちゃんと羸痩という言葉がある。日本人なんだから、変に西洋化はしてはならん。ブッチャーががんばって食べさせようとしているようだが、食べられてもご飯を茶碗半分か、みそ汁を茶碗半分程度しか食べなくて、いくら叱っても効果ないんだって。」

「そうかあ、、、。飯が食えないじゃ、もうだめだな。近いうちに見舞いに行きたいけどだめかなあ?」

「やめときな。多少、驚くことを覚悟していける人間でないと、無理だよ。それから、無理に食べ物を持っていく事もやめてくれって。無理やり食べさせると、吐き出すって。そのときの苦痛で余計に食べ物から遠ざかるから、先ずは安全な食品を食べさせて、食べ物への恐怖をなくすことから始めるってさ。」

「なるほどねえ、、、。食べ物への恐怖か。まあ、あいつにとっては、食べ物で拷問されたことは何回もあったようだし、きっと難しいんだろうな。それにしても、あいつは幸せだよ。そうやって、対策を採ってもらえるんだもん。俺が今回担当した事件だって、もう酷いもんだったぞ。」

華岡は、お茶をがぶ飲みした。

「何?どんな事件?」

すぐに杉三が相槌を打つ。杉三ときたら、自身に関係あろうがなかろうが、すぐに詳細を聞きたがる悪癖があった。蘭がいくら注意しても治らないので、もう一つの個性として諦めるようにと、青柳教授に言われていた。

「うーん。それがねえ、お父さんが娘の顔を殴って、怪我をさせたんだ。幸い致命傷にはならなかったが、顔にできた傷跡は一生消えないだろうということだ。女の子にとって、ある意味顔は命より大切だと聞いている。だから、一生軋轢を残したままになるかもしれない。そうならないように、慎重に捜査を進めないといかん。それに父親のほうは、娘のほうが悪くて自分は本人のために殴ったと言い張って聞かないんだ。だからどちらが悪いのかという裏づけもとらないと。」

確かに、女性の顔は命というテレビコマーシャルもあるし、それを何とかしようというテレビ番組は数多くある。それだけ、女性は顔を気にしている人が多いということだろう。そこを傷つけられるというのは、実に不名誉なことである。

「はあ、なるほど。年はいくつだ?」

「19歳。来年二十歳だ。最終学歴は、高校を一年で中退していて、それ以来学校には行っていないらしい。」

「よくあるパターンだねえ。つまり、高校をやめて、家出でもして売春でもしていたのかな?」

「いや、それはないようだ。近所の人も、彼女が派手な服装で夜遊びをしたとか目撃したことはないようだし。」

「あそう。じゃあ、覚醒剤とか、違法薬物やってて、それがお父さんにばれて怒られたとか?」

「うーんそうだなあ。俺はその線が強いかなと思ったので、念のため娘さんの体を検査してみたけれど、体のどこにも注射針のあとはないし、尿検査にも協力してもらったが、違法薬物は全くでなかったよ。」

「娘さんの方は、お父さんに対して何か言っていたか?」

「うん、お父さんのことだから、仕方ないって。」

「ばーか。仕方ないじゃだめ。彼女のほうが長生きするんだから、ちゃんとこれから生きていくよう様に仕向けていかなくちゃ。警察は、単に犯人捕まえてどうのこうのだけの機関じゃ、何も役にたたないよ。」

杉三が華岡を叱責した。こんな発言のできるのは、杉三だけである。

「はい、わかったよ。杉ちゃん。しっかり肝に銘じて捜査をするよ。しかし、そういう悲惨なことをする親子もいるって言うこの時代、あいつはああして、ブッチャーや恵子さんに看病してもらって、製鉄所にずっといられるなんて、夢のような話だぜ。羨ましい。やっぱり、俳優並みに綺麗なやつは、得だなあ、、、。」

不意に華岡はそんなはなしをはじめた。華岡のそれが始まると長い。

「あ、わかったわかった。どうせ華岡さんが、水穂さん見たいな顔になることはないから、その話は諦めろ。もし、華岡さんがそうなりたいんだったら、功徳を積み重ねることで勝負するんだな。」

「功徳ねえ、、、。俺は功徳というよりか、おっちょこちょいの方が多いかも知れないからなあ、、、。」

「わかってるんだったら簡単だ。早く対策をとりな!」

と、杉三が華岡の背中を叩いたのとほぼ同時に、

「事件の話はいいよ。何で僕は未だに製鉄所にいってはいけないといわれているんだろう、、、。」

蘭が、ぼんやりとつぶやいた。

「だから、青柳教授に来るなといわれたんだから、従いなよ。それだけのことじゃん。」

杉三が単純明快な答えを出すと、

「そうじゃなくて、来るなというのは何か理由があるんだろ。もしかしたら、ショパンの最期みたいにさ、他人の来訪は一切受け付けなくなるほど、深刻なんだろうか。」

と、さらに蘭は呟くのだった。

「結論から言えばそういうことだな。あれだけ無残な姿になってたら、蘭はきっと狂乱してまた大騒ぎするだろうから、来させないんだよ。わかる?」

華岡がそう返答したが、

「狂乱って、心配しているだけなのに、なんでダメなんだ!」

と、蘭は強く言った。

「だからな、お前のそういうところがダメなんだよ。心配しすぎて、でかい声で騒ぐところが、水穂にとってはよくないからじゃないか。水穂だけじゃないよ。お前の刺青の先生が倒れたときも、そうだっただろ?あの先生が言った言葉を考えろ。先生は、ちゃんとお前のことをわかってるじゃないか。弟子の事をしっかりわかってくれている師匠なんて、そうはいないぞ。大事に先生の教えを守れよ。」

華岡は、警察の偉い人間らしく、遠回しに言って蘭にいい聞かせたつもりだったが、蘭はまだわからないらしくボケっとしていた。

「あ、もうな、こういうときはがんと言ってやったほうがいいな。だから、蘭が今のままで製鉄所に行ってもな、ただでかい声で騒ぎ立てられて、このままだと餓死するぞ、とかいってさ、焼肉とか、刺身とか一杯買って来てさ、無理矢理食べさせる様子が目に浮かぶよ。そうなったらどうなるの?バケツ一杯嘔吐されて、疲れ切って眠るしかできないってブッチャーが言ってた。そうなったらかわいそうすぎるから、製鉄所には来ないようにと青柳教授が言うんだよ。わかる?」

「何だよ杉ちゃん。肉も魚も何も食べないのかよ。だってもうよかったのではないの?」

杉三から聞かされて、蘭はさらに驚き、声を上げた。

「あーあ、馬鹿だねえ蘭は。何も知らないのかい。あ、そうか、知らされてなかったのか。なるほど、ブッチャーも恵子さんも何も教えてないんだね。まあきっと教えるということも難しいほど、大変だということだろう。」

「ちょっと待て、杉ちゃん。いつからそういうことを知らされていたんだ!」

「知らされていたって、俺にもブッチャーが電話をよこしてくるし、杉ちゃんだって一応ドナーということになるから、少なくとも聞かされているんだろうな。でもな、こういうことは、あんまり他人が首を突っ込むことは、よくないと思うがな。」

と、華岡が蘭をなだめたが、

「なんでよくないんだよ。僕だけ除け者なんて、そんなに僕はあいつにとって、信用できない奴だったんだろうか!」

蘭はそれ以上に華岡に詰め寄った。

「信用できないというか、過剰反応されて困るから、それでお前に知らせなかったんだ。少し、考えてやれよ。水穂もな、それだけ体が辛いんだよ。俺もさ、事件にかかわってわかるけど、遺族の人にもそういうこと言われるよ。たとえばさ、殺人事件の被害者の遺族にさ、凶器がどうだったとか、死因がどうだったとか、そういうことを伝えると、もうあの子がかわいそうなので、それ以上説明するのはやめてくれませんかって、涙ながらに訴えられて、それでも伝えなければならず、困ってしまったことはいくらでもある。」

「しかし、刑事事件と、水穂のことは、あまりにも違うような気がするんだが、、、。」

「もう!蘭も華岡さんも遠回りな説明はしない!どんな時でも、悲しいときに過剰反応されるのは、いやなんだよ!そこだけ伝えればいいのに、遠回りな説明して、よけいにわかりにくくさせないように!」

杉三があきれた顔をして、蘭と華岡の間に入ったので、とりあえずこのけんかは収まった。それにしても、蘭が、正式に落ち着きを取り戻すのは、まだまだ時間がかかりそうだということが、確認できたのである。

「落ち着けよ、蘭。とりあえずそっとしておいてやれ。水穂もただでさえ辛いのに、またお前がでかい声で騒いだら、さらに辛い思いをして、下手をすると倒れるよ。だから、そういう時には、あえて、お前は退却したほうがいいんだ。そういうときもあるんだよ。わかってやれ。」

華岡が、そういっても蘭に届いているかは不明で、

「畜生!」

と言ってテーブルをバンとたたくのだった。



製鉄所では、水穂が隙間風にあおられてせき込んでいた。それを聞きつけてきたブッチャーが、

「水穂さん、これじゃあ何もならないじゃないですか。あの広上さんという世界的な先生が来てから、ずっとそうでしょ。あの浩二という人に教え続けて、もう体も疲れてるんじゃないですか。ここまでせき込んじゃうんだったら、俺、広上さんに暫く来ないでくれって、断ってきましょうか?」

と言いながら駆け寄ってきて、背中を撫でてやったりした。それでも止まらずにせき込み続ける。

「結局、水穂さんにはこれしかないのですかねえ、、、。睡眠剤はやたらだすもんじゃないと、青柳先生が言っていたんだけどなあ、、、。こんなに薬に振り回されて、水穂さんだけではなく、俺も辛いですよ。」

そうはいっても、止める方法がほかにないので、ブッチャーは吸い飲みを取って、中身を水穂に飲ませた。

「本当に、だめですね。僕も、生きていても仕方ないですね。」

ぼんやりと、薬が回っていく中、水穂はそうつぶやいたのだった。ブッチャーは思わず、

「それを言っちゃおしまいよ!」

と、ある映画の名台詞を思わず口にしたが、それが聞こえる前に眠ってしまったのだった。



そのころ。浩二の家の近隣では、連日のように報道陣や警察が詰めかけてきて、住民たちに、あの家族の様子などを聞きあっていた。とりあえず、あの家族の様子と住民たちとの関係が浮き彫りになったが、家族の中で大変な問題があったにも関わらず、近所の人たちが、何も知らないというのが衝撃的な事実として何回も報道されていた。

浩二は、直接あの家族とかかわったのは、回覧板を出しに行ったとき程度であったが、でもあの家族は、本当に問題があったんだろうかと思われるほど平和な家であった。そういえば、会社に出勤する前に、真新しい高校の制服を着た娘さんが、家の近くを歩いていたが、おお、あんなレベルの高い高校に受かったのか、なんて思いながら、彼女と会釈したことを記憶していた。直接会話を交わしたわけではないけれど、丁寧に礼をして、おはようございます、なんて挨拶してくれたのを記憶していた。あの時は、かわいらしくて、いまどきの高校生って感じの女性だったのに、、、。とりあえず、報道や近所の人の話によると、あの娘さんは、ある日突然学校に行かなくなり、それからはまったく姿を見せていない。姿を見せたのは、父親が逮捕されて、被害者として病院に運ばれたときである。その話によると、高校生の時の楽しそうな顔はどこにもなかったと聞かされた。

しかし、自分は会社にも勤めていて、今は封印しようと思っていたピアノまで練習を強いられている。もちろん音大時代にさんざん馬鹿にされて、ひどい目に会ったことも少なくなかったが、あの娘さんのように、親に顔を殴られるようにならなければならない事態になるのは避けられただけでも、よい生活をしているのかなと思った。


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