第19話 キタヤマタケル

文字数 2,858文字

 北山は非常口の緑のマークが掛かった扉から出てきた女の腕をつかんだ。捜査から外された立場なのでロビーの隅で目立たないように張り込んでいたら意外な獲物がかかってきた。
 北山はこの女を知っている。この女というより、柴垣亮平に関係する人間はほとんど頭に入っている。こいつは一時、柴垣の女だった奴だ。確か名前はエリカといった。

「あんなところで何をしていた?」
「それより、あんたこそ誰なのよ? 勝手に触らないで、警察を呼ぶわよ」

 北山は笑いがこみ上げてくるのを我慢する。

「俺がその警察だ。身分証も見せようか?」

 女は北山から顔を背け、舌打ちをする。

「上の部屋に忘れ物をしたから取りに行ってたのよ」
「エレベーターをどうして使わない?」

 女は指でエレベーターホールを示した。なるほど、これは女のほうが正しい。なんでも国会議員様が窓から飛び降りたとかで、警察関係者以外の移動は制限されていた。何もこんな時に面倒を重ねなくてもいいだろう。議員という生き物は人を苛つかせるのが仕事らしい。

「苦労してこんな階段を上らなきゃならないほど大事なものなのか?」
「スマホを忘れたのよ。刑事なら私の仕事が何かぐらいもう分かってるんでしょ。客のところに忘れたのよ」

 そのどこか投げやりな服の着こなしや、世の中を冷めて見ているような雰囲気から女が素人でないことはすぐに分かる。この女はその中でも最底辺の部類なのだろう。そういうプレイが専門なのか女からは糞尿の匂いもした。

「そんなことより分かってるの? 映画の撮影じゃなけりゃ、上ですごい殺人事件があったわよ」
「いや、そんな撮影があるなんて聞いてないが──殺人事件?」
「廊下が血まみれで、あちこちにバラバラの死体が転がってたわよ」

 女はどこかうれしそうにそれを話した。

「どの階だ?」
「私はバカだからハッキリ覚えてないけど32か、33階だったかな?」

 33階というと旭龍会の会長の部屋だ。ここに狙いを定めて張り込んでいて間違いなかった。

「お前は柴垣と会っていたんだな?」

 北山は女の胸ぐらをつかんでいた。

「みんな言うけど、誰よそのシバガキって?」

 女は北山を挑発するように口元に笑みを浮かべた。

「とぼけるのはよせ! こっちは全部分かってるんだ!」
「全部分かってるだったらそれでいいじゃん。こうして私をイジめているヒマがあったらさっさと現場に行ったら? 俳優さんが残っていたらサインぐらいくれるかもよ」

 北山は怒りにまかせて女を壁に突き飛ばした。女は頭を打って床に座り込んだが、北山を笑う目は変わらない。北山は女の腹を蹴り上げてゲロでも吐かせてやりたかったが、今はそんなことをしている場合ではない。

「お前、ヤクを持ってるか?」

 北山は女の前にしゃがんで聞いた。

「あんたバカなの? 持ってるわけないでしょ、疑ってるなら調べたらいい」

 女が薄汚いビニールのカバンを北山の前で広げた。カバンの中にはさらに薄汚いバイブレーターや浣腸なんかが見える。そんなカバンの中を探す気にはなれなかった。まあいい、さっきトイレでやったシャブが最後だったが、まだそれが切れてるわけじゃない。
 北山の顔を知らない制服警官を呼んだ。階級の違いを分からせるために手帳の身分証をしっかり見せて命令する。

「こいつをしっかりと見張っていろ。絶対に目を離すんじゃないぞ。そして他の誰が何と言おうと、俺がいいと言うまで絶対に帰すんじゃない、分かったか」

 いざとなりゃ、この女を餌に柴垣をおびき出してやる。
 エレベーターホールまで一直線にロビーの真ん中を歩く。
 榎本が北山を目ざとく見つけて走り寄ってくる。

「北山さん、まずいですって。課長から北山さんを現場に近づけるなって言われてるんですよ。お願いですから、ここを離れてくれませんか? こんなとこ課長に見つかったら僕が怒られるんですから」
「お前が誰に怒られようが俺の知ったこっちゃない」

 こいつは一言目にはいつも課長課長とうるさいったらない。迷子にならないようにお手々でも繋いでもらえ。

「その肩にかけてるの何です? 釣り竿ですか? うらやましいなあ、僕も静かなところでのんびりと糸をたらしたいなあ。海でも湖でも池でもいいですから、ここじゃないどこかに行ってください。お願いします」
「上の階で殺しがあったという情報がある。行かせてもらうぜ」

 北山が歩き出そうとするのを榎本が両手を広げて防いだ。

「今は誰も上には行けないんですよ。課長がいいって言ったってたぶんダメです」
「何でだ? 国会議員が落ちたのはただの自殺だろ? 何かヤバい遺書でも残してたのか? それに俺が行こうとしてるのはそこじゃない」
「いや、あれもまだ自殺かどうかも分からない段階で──分からないっていうか、我々が現場に行くことが止められてるんです。このロビーから上は絶対に行っちゃいけないって、現場を汚染するからって」
「何でだ? 噂のテロとかの件で公安が出張ってきたのか?」
「公安よりどちらかというともっとヤバいっていうか──」
「公安よりヤバいって、何だそりゃ?」

 榎本の視線の先、エレベーターホールの周りには例の真っ黒な葬式スーツの男達がウロウロしていた。さらに警察のものではない、真っ黒な〈CIRO〉と書かれたテープで封鎖されている──CIRO?

「ありゃどこだ?」
「内調です」
「内調って、内閣調査室の内調か? その内調がどうして?」

 榎本はただ困った顔をして首を横に振った。
 まあ、この小僧が何か知ってるとも思えない。内調であろうが特捜だろうが北山には関係ない。どうせ今日のことが終われば警察を辞めるだけだ。
 北山は肩にかけていた釣り竿のケースからショットガンを取りだした。レミントンのM1100を10ゲージの散弾まで撃てるように改造したスペシャルだ。もちろん弾も柴垣を殺るためのスペシャルだ。
 こんなことに使うのはもったいないが仕方ない。天井に向け構えると一発撃った。派手なシャンデリアに命中したそれは、無数のガラスの雨をロビーに降らせた。

「警察だ、そこを通してくれ」

 悲鳴と怒声で騒然とする雰囲気の中、内調らしき奴らと北山の顔を知らない警察の奴らが銃を向けてきたが気にするほどのことじゃない。こいつらに俺を殺る根性はない。

「撃たないなら行かせてもらうぜ」

 北山は扉を開けて待っているエレベーターに向かった。
 クソ上品なベルの音が鳴り、その隣のエレベーターの扉も開いた。

 ──こいつら何者だ?

 エレベーターから下りてきたのは不機嫌そうな顔をしたOLを先頭に金髪の外人観光客、ニキビ面の中学生にゴスロリ女、そして赤ら顔の神父だ。先頭のOLがさらに不機嫌そうな顔になったのを除いては、あとの四人は北山のショットガンにも内調の奴らが構える拳銃にも興味がないように北山の横を通り過ぎて行った。
 北山は何度か自分の頭を叩いてみる。少しクスリをやりすぎたかもしれない。幻覚ってやつが見えてきた。

 北山が乗り込んだエレベーターの扉がゆっくり閉まる。


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