第6話 ヒサリン328

文字数 1,347文字

 髪の長い黒ずくめの男はヤクザの喉元を片手でつかむとその馬鹿力で高々と持ち上げた。ヤクザはこっちに気づいて何か言いたそうだったけど、そのまま握り潰せちゃいそうなほど強くつかまれたんじゃ声なんて出せるわけないね。まあ、助けを求められたところで何も出来ないんだけど。

 黒ずくめの男はそのままヤクザをビルの壁に思い切り叩きつけた。その瞬間にヤクザの頭蓋骨は割れちゃったように見えた。黒ずくめの男の力があまりにも強すぎて卵を割ったような軽い音がこっちまで聞こえてきた。さらに黒い男は持っていた刃物をだらりと開いたヤクザの口の中にぶっ刺した。それは舌を貫通し、喉を切り裂き、脳髄を突き抜け、ヤクザを壁に貼り付けてしまった。まるで昆虫の標本をピンで留めるみたいだ。ヤクザはそこでまたおもらししてしまったみたいで壁に染みをつくっていたよ。
 それにしてもやっぱり本物は違うなあ。迫力がある。パワーも人間離れしている。いや、人間離れっていうか人間じゃないもんね、もうアレは。

 ハンドルネーム〈ヒサリン328〉と呼ばれる青年はスマートフォンを手に、目の前で起こっている惨劇を動画でライブ配信していた。青年がチラと確認したところ全世界で十万人が視聴していた。

 なんかジメジメして嫌な匂いもする路地だったけど、こっちに来て正解だったな。運なんてものを信用してなかったけど、今のこの瞬間から信じることにするよ。だってこんな偶然ってある? 
 これで今までアップしてた動画にも説得力が出た。フェイクだって声があったから気にしてたんだ。この動画はもちろんアーカイブ化して残すつもりだ。これは記録的な再生数になるぞ、間違いない。もちろん運営はすぐに削除してくるだろうけど、すぐに誰かがコピーしたものをアップする。それがまた削除されても、また別の誰かがアップする。こうして〈ヒサリン328〉の名前は永遠に刻まれることになる、まるでロックスターのようにね。最高だ! もう名も無い一人じゃない!

 ヤクザから手を離した黒ずくめの男がまるでロボットのようにぎこちなく首を回した。

 気づかれた! こっちを見ている──

 中継はここでいったん終了だ。〈ヒサリン328〉はスマートフォンと入れ替えにポケットから小型のデジタルカメラを取り出した。目をしっかり閉じてから男に向けストロボを光らせた。このストロボは改造して通常の十倍の光量を出すことが出来る。おそらく暗い路地の中に一瞬だけ真っ白な太陽が現れたはずだ。

 目を開けると思った通り、黒ずくめの男は自分の目を押さえながら棒立ちになっていた。
 さあ、逃げるが勝ち。
 あんな不摂生のヤクザと違って、日々のトレーニングは欠かさないので走って息があがるなんてことはない。たとえ黒ずくめの男が追ってきたとしても振り切れるはずだ。それにこのあたりの地図もばっちり頭に入っている。簡単なリサーチもしている。次のビルの通用口はこの時間なら鍵が開いているだろう。
 その通用口から入って、気まぐれシェフの包丁さばきとフライドチキンの油はねに気をつけ厨房を抜け、客席の給仕が運ぼうとするペリエのボトルから一口飲んで返して店を出て、表通りの人混みに紛れた。
 スマートフォンを取り出すと、動画の再生数は五万も増えていた。
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