(六・二)道玄坂美容整形外科

文字数 2,895文字

「お嬢さん。差し支えなければ、ちょっとお茶でもしませんか?」
 これが雪川朋子に話し掛けた、俺の第一声。先ずは余り深刻にならぬようにと、わざと助平な中年おやじ風に、ナンパっぽくしてみせたという訳だ。
 初めて見た朋子の印象は、どうだったか。先ずその顔の半分以上を、白いマスクで覆い隠していた。が、それでも隠し切れない何処か不安げな、おどおどとした落ち着きのなさを見て取れた。加えて自分に自信がないのか、終始俯き加減である。その充血した大きな瞳から生気は感じられず、そこにあるのは暗く深い絶望と悲しみばかり……。あゝこの子今まで、どれ程の辛酸を舐めて来たことだろう。そんなことを、考えずにはいられなかった。
 間違いない!やっぱりこの子、死ぬつもりだ。そして今までそうして来たように、俺は生意気にも、この子を助けて上げたいと願ったのである。

 俺に声を掛けられた朋子は、吃驚して足を止めた。ハチ公前の人込みの中。しかとして逃げ出す子もいるのだが、朋子は逃げなかった。そして無言のまま警戒しつつ、俺を見つめ返したのである。俺は続けた。
「警戒するのも、ご尤も。でも宗教の勧誘やら、モデルのスカウトなんぞではありません。お嬢さん。実はわたし、ちょっとした医者の端くれでして」
「お医者さんですか。そんな方が、わたしに何か?」
 ようやく朋子は、恐る恐る口を開いた。
「ええ、わたしね。もし勘違いだったら、すいません。お嬢さん。あなたの顔の表情に、並々ならぬ切羽詰ったものを、感じちゃいまして。それでついつい、声を掛けちゃったという訳です」
 俺の言葉に、更に朋子は驚いた。そして今度は縋るような目に変わって、じっと俺を見つめた。朋子は聞いた。
「切羽詰ったもの、ですか?」
「はい、そうなんです。ですから、お嬢さん。そこら辺をもう少し、詳しくお伺い出来たらなあと思いまして。どうでしょう、立ち話も何ですから。そうだな、お茶もいいけど、公園でゆっくり話しませんか?」
 俺は近くの宮下公園に誘った。喫茶店よりは、その方が落ち着けると思ったからだ。朋子は頷くと、俺の後に付いて来た。

 宮下公園に入ると、木陰のベンチに並んで座った。青い空と眩しい春の日差し。木漏れ陽がきらきらと、天使のように踊っている。こんなぽかぽか陽気の中で、しかし朋子の表情は暗かった。
「お嬢さん。良かったらわたしに、話してみませんか?わたしに出来ることなら、何でも相談に乗りますよ」
 さり気なく俺は誘った。しかし朋子はしばし無言で、ただじっと俺の顔を見つめるのみ。それから俺を信頼に値する人物と判断してくれたのか、ようやく重い口を開いた。
「実は、わたし……」
 そして朋子はその胸の内を、初対面の俺に正直に打ち明けてくれた。誰にも言えずに悶々としていた気持ちを。もしかしたら誰でもいいから、その気持ちを聴いてもらいたかったのかも知れない。
「わたしなんか、みんなに迷惑掛けるばっかりで。生きていたって、本当に仕方のない人間なんです」
「どうして、そんなふうに思うのかな?」
「それは……」
 そこで朋子は、生い立ちから今日に至るまでの半生を、淡々と俺に語ってくれた。俺はただ黙って、耳を傾けていた。
「そうか。お嬢さん、それは大変だったね。でもそんな中でも、いい人たちと巡り会って来たみたいじゃないか。ご両親だって、立派な方のようだし」
 しかし朋子は、かぶりを振った。
「確かにそうですけど。でも世の中に出て仕事をするっていう、わたしにとって一番大きな壁は、とても越えられそうにありません。こればっかりは、誰かに助けてもらう訳にもいきませんし。どうしても、自分の力で乗り越えるしかない訳ですから」
「それは、そうだけど」
「でもわたしにはもう、その自信がありません。ゼロなんです、可能性ゼロ。生きてゆく自信なんてもう、欠片もありません。だからわたしはもう、死ぬしかないんです」
「まあ落ち着いて、落ち着いて、お嬢さん」
 興奮する朋子をなだめながら、俺は朋子に俺の名刺を差し出した。
「ここで会ったのも、何かの縁。正直に全てを打ち明けてくれたきみに、こちらもきちんと、身分を明かさないとね」
 朋子は素直に、受け取ってくれた。
「ありがとうございます。わたしは、雪川朋子と申します。本来なら名刺交換したい所ですが……。生憎わたしには、名刺すら」
「いいんだよ。そんなこと気にしなくて」
 朋子はじっと、俺の名刺を見つめた。
『道玄坂美容整形外科病院
      院長 海野保雄』
 美容整形外科。
 その文字に、朋子が一体何を感じたか?それは分からない。ただ俺を信頼してくれたのだけは、間違いないようだ。
「雪川さん、きみの話はよく分かった。死にたいっていう、きみの気持ちも、俺には良く理解出来る。ところで……きみは整形には、興味ないかい?」
 俺はストレートに、朋子に問うた。

 朋子はきょとんとした顔で、俺を見返した。そして直ぐにかぶりを振った。
「整形手術の、整形ですか?」
「うん」
「申し訳ありません。失礼ですが、今の所全くと言っていい程、ありません」
 全くか。まあ、いいや。
 あれっ!もしかして、それが目的かしら?つまり、ビジネス……。そんな不審の念を、朋子に抱かせたかも知れない。しかし俺は慌てず続けた。
「そうか、勿論それでも構わない。ついでだから少しだけ、わたしの仕事について、話させてくれないかな?」
 朋子は頷いた。そこで今度は、俺がお喋りする番だ。
「わたしは今まで、多くの人を手術して来たけど。整形手術をね」
「ええ」
「その中には、無償で手術した人たちもいるんだよ。なぜだと思う?」
 朋子は直ぐにかぶりを振った。
「さあ、分かりません」
「それはね」
 俺は朋子の顔を見つめながら、答えた。
「その人たちを、助けて上げたかったから。なぜ助けて上げたかったかというと、その人たちはみんな、今のきみと同じように、死ぬつもりで、いたからなんだよ」
 えっ。朋子は吃驚して顔を上げ、俺の顔をじっと見つめ返した。
「もっとはっきり言うとね……。もうこの際だから、死のうと思いつめてるきみの前だから、はっきり言っちゃうけど。つまり、みんな……顔に悩みを、持っていたんだよ」
 ああ、そういうことだったのか。と、朋子は改めて、納得したようだった。
「先生、ありがとうございます。先生のお話は分かりました。でも」
「でも?」
「でもわたし。本当に整形手術なんて、興味ないんです。ごめんなさい、先生」
「いいんだよ、謝らなくて。いきなりこんな話をした、俺が悪いんだから。じゃ今日のところは、この辺にしておくかな」
「はい、ありがとうございました。先生にお話を聴いて頂けただけでも、とても心が落ち着きました」
「それは良かった。もし、また俺に会いたくなったら。さっきの所に、遠慮なく電話してよ。いつでも、相談に乗るから」
 こうして初日は別れた。がその後予想に反し、朋子は積極的に俺に連絡して来た。しかも数日後、突如として俺の病院を、直接訪ねて来たのである。恐らく名刺の住所を頼って、見つけ出したのだろう。随分と熱心なことじゃないか。
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