(九・一)新しい顔

文字数 1,497文字

 朋子二十三歳の秋、十月。
 手術の日から、遂に半年が経過した。その間朋子の顔全体を覆っていたギブスを、いよいよ外す時が訪れた。息を呑む緊張と不安の一瞬だ。場所は、朋子の家の自室。朋子は鏡を置いた机の前の椅子に、腰を下ろした。
「いいかい?」
「はい、先生。お願いします」
 先ず俺の手で、朋子のギブスを取る。ほっ。俺は胸を撫で下ろした。今日に至るまで、幾度となく朋子の顔をチェックして来た。順調であること、何も問題のないことは既に確認済みの俺だったが、この瞬間は何度経験しても緊張するものだ。
 ふう、良かった!
 俺は心の中で歓喜の声を上げ、そして神に合掌した。今度は朋子が、恐る恐る目を開ける。この瞬間から新たに、朋子のすべてが始まるのだ。
 朋子は眩しそうに、見慣れた筈の部屋の中をゆっくりと見回した。緊張した面持ち。当然のことだ。そして更に恐る恐るその視線を、自らの目の前にある鏡へと向けた。
 はっ、と息を呑む。
 驚き。でも無言。だが次の瞬間に朋子の顔が、その表情が、ぱっと輝きに満ちるのを俺は見逃さなかった。
「先生……」
「ああ、良かったね。ばっちりだ」
 俺は悪戯っぽい少年の笑顔で、朋子にウインクした。
「はい」
 朋子の瞳には既に、涙が溢れていた。
「あーあ。泣いちゃったら、折角の顔が台無しだぞ」
「嫌だ、先生。台無しだなんて。そんな恐ろしい言葉、使わないで下さい」
「あっ。ごめん、ごめん」
 しかし朋子の声は、喜びに溢れていた。朋子はハンカチで涙を拭った。
 鏡に映る朋子の顔。それは現代の美容整形医学が誇る最先端テクノロジーをも遥かに超越した、遺伝子操作技術の結晶であった。鏡には確かにもうダダ顔ではない、ごく普通の顔が映っていた。そして母夏江の若かりし頃の、面影が確かにある。
 これが、わたしの顔?
 朋子は幾度となく、自分の顔を確かめずにはいられなかった。じっと目で見詰め、手で、指で触れながら……。
 本当に、これがわたし?わたし、こんな顔でいいのかしら?丸で夢を見ているよう。夢なら、どうか覚めないで……。
 躊躇いがちに俺は、朋子に声を掛けた。
「じゃそろそろ、ふたりに入ってもらおうと思うんだけど。どうかな?」
 ふたりとは無論、夏江と健一郎である。
「はい。先生、お願いします」
 朋子の声は、明るかった。こんな声、生まれて初めて聴くぞ!そう思わせる程に、明るく快活で陽気……。

 夏江と健一郎を、部屋の中に招き入れた。ふたりは今か今かとさっきからずっと、朋子の部屋の前で待ち侘びていたのである。いよいよ整形から半年の空白を置いて、我が娘の新しい顔を拝もうという訳だ。
「お父さん、お母さん」
 恐る恐るふたりに微笑み掛ける朋子。その顔を初めて目にした時の、健一郎と夏江の顔といったらなかった。唖然として朋子の名を呼ぶ以外、一言として声を発することが出来なかった。
「朋子……」
「朋ちゃん……」
 そしてふたりの瞳も本人同様、溢れ来る涙に濡れたのだった。
「わたしの若い頃そっくり!ね、お父さん」
「ああ、ほんとに……。でも先生!本当に凄いですね」
 感嘆の声を上げながら、健一郎は興奮の余り俺の両手をぎゅっと握り締めて来た。
「まあ、そうですね。ここまで上手くいくとは、良い意味で予想外ですよ」
 照れ臭そうに答えた俺。しかしまあ、ほんと成功して良かった。これにて、一先ず俺のお役は御免だ。それではみなさん、ごきげんよう……。
 という訳で、俺はそそくさと退散させてもらった。
 こうして普通の顔として、生まれ変わった朋子。これでもうわたし、本当に戦わなくていいのね……。朋子は思い切り胸を撫で下ろし、安堵したのであった。
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