勘弁してください

文字数 1,784文字

 玄関ドアを開けると、甘ったるいニオイが鼻をついた。
「マーマレードを作ったのよ」
 ダイニングに入ったとたんに、こっちの顔を見ての第一声がこれ。
 おかえりでも、いらっしゃいでもない。
 「あげたいものがあるからさ、明日、寄ってちょうだい」と、仕事から帰ったばかりの時間を狙って電話をかけてきた相手は、手にした鍋とスプーンをこっちに差し出している。
 スプーンの先っぽから垂れている山吹色の物体に、嫌な予感に襲われた。
「マーマレードって、もしかしてアレ、ホントにもらってきちゃったの?」
「だって、くれるっていうから」
「ちょうだいって言ったからでしょ?!」
 
 それは一週間ほど前のこと。

 例にもよって、仕事から帰って、さあ食事の支度でもするかというタイミングで鳴るスマートフォン。
 なんだろう、このばっちりのタイミング。
 GPSなんて使えないだろうから、お庭番でも雇っているのだろうか。
「はい?」
 今、忙しいんだよという気持ちを込めて、強めの疑問形で電話に出る。
「あの角のおじさんいるじゃない?」
 いきなり、イタズラ電話かと思うような内容だが、母だ。
 そして、時候の挨拶も前振りもなく、突然登場した「角のおじさん」。
 誰のことですかと言いたいが、わかっている。
 このところ、母の会話に何度も出てきた「彼」だからだ。

「立派なレモン?ミカン?がなっているうちがあってね。通りの角の」
「ああ、なんか、すごい大きいのがなる木があるね」
「そう。あれね、食べられないんですって」
「観賞用?立派で、キレイなレモン色だもんね」
「食べられないミカンってある?」
「ミカンじゃないんでしょ。植えた本人がそう言うんだから、そういう種類なんじゃない」
「ないと思うのよねぇ」
 あなたが判断することじゃあるまいと思ったのが、一か月ほど前。
 この日が「角のおじさん」の初登板だった。

「角のおじさんのミカンね、ニオイもなんにもないんですって」
 翌日の電話。
「角のおじさんのミカンね、中身もスカスカだっていうのよ」
 さらに翌日。
 この「角のおじさん」の報告は何回も繰り返されて、「角のおじさん」語録もずいぶん溜まった昨日。
「あげたいものがあるから、帰りに寄ってちょうだい」
 母の電話から、「角のおじさん」はとうとう降板となったのだけれど。

「食べられないって、あれだけ言われてたのに、もらってきちゃったの?」
「だって、あんなに立派なミカンを捨てるって言うんだから。もったいないでしょ」
「食用じゃないんでしょ?」
「でもさ、ジャムにしたら、たいていの果物はおいしくなるじゃない?だから、お砂糖もたっぷり使ったのよね」
「甘いニオイ、玄関までしてたよ」
「そうでしょう」
 ここまでは普通の会話だったのに。
「あんた、これ食べてごらん、まずいから」
「はい?」
 この「はい?」は、最大フォントでお願いしたい。
 まずいからぜひ食べてほしいと、他人に薦める人間がこの世にいるのか。
 ……いた。
 それは、我が(まま)だった。
「やだよ」
「なんでよ」
「まずいんでしょ」
「まずいのよ」
 この不毛なやり取りの間、母の手は鍋とスプーンを差し出したままだ。
「はい、ほら食べて」
 これは、食べるまでは帰してもらえないな。
 まずいと言うからには、彼女も食べたのだろう。
 毒ではない。
 意を決してスプーンを受け取って、口に入れてみる。
 まったりと、とろりとした食感の粘物が舌にからまり、壮絶に甘い、味も香りもない、よくよく注意してみれば「柑橘デース」と告白している、スッカスカの風味が口内に広がった。
 強烈に甘くて、虚しいマーマレード。
 うん、これはマズイ。
「あんた、これ持って帰らない?」
「いらない」
「なんでよ」
「マズイから」
「……じゃあ、どうしろっていうの、これ」
 知らないよぅ!
「うっすら柑橘だから、チャツネの代わりにカレーに入れたら?」
「ああ、そうね。じゃあ、はい。カレーに入れて」
 鍋を置いて、虚しいマーマレードの瓶詰めを握った母の手が迫ってくる。
「いや、いらないって言ったよね?」
「あげるわ。忙しいんでしょ、早く帰んなさい」
 
 こうして、うちの冷蔵庫には「虚しいマーマレード」が冷やされること幾月か。
 提案したとおりにカレーの隠し味として使っているが、あまり減ってはいない。
 あと何回、カレーを作ったらなくなるだろうか。
 本当に勘弁していただきたい。
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